あれから。ユーリさんとわたしは何も言わずに船へと戻って来た。カノンノの身を案じて甲板で待機していたロックスさんが涙ながらに出迎えてくれて、そんな彼を宥めるカノンノの顔はやっぱりまだ雲っていた。
しつこくわたし達に怪我がないかを確かめたアンジュさんは安堵のため息を吐いてお疲れ様、と頭を撫でてくれた。夕飯まで休むように言われカノンノを見る。カノンノは少し遠くでロックスさんと話していた。ヴァンさんとニアタとはお礼を言ったり言われたりして別れ、ユーリさんはもう、ここにはいない。
ぼんやりと、久しぶりにお茶を淹れたいと思った。お茶を淹れて、お菓子を食べて、部屋でゆっくりとしたかった。カノンノと二人、昔のように。そう思っていると、戻って来たカノンノが微笑んだまま手を取る。何だか無性に、懐かしかった。

「部屋に戻ってゆっくりしよ。今日の夕食はハンバーグだって、楽しみだね」
「…そっか」
「どうかしたの?」
「ううん。食堂でお菓子でも貰って、お茶しようか」
「淹れてくれるの?何だか久しぶりだね」

本当に、久しぶり。
食堂でクッキーとお湯を貰い、カノンノと二人で部屋に戻る。気のせいだろうか。毎朝毎晩過ごしているはずの部屋なのに、久しぶりにやって来たような錯覚がした。
記憶を辿りながら茶葉の缶を開け、お湯を注いで砂時計をひっくり返す。砂が落ちるのを眺めていると、がさり、と後ろから音がした。

「続き、描いてもいいかな?」
「え?」
「ナマエの絵。途中まで描いてたんだけど…」

描けなくなっちゃってたの、カノンノはそう苦く笑ってスケッチブックを取り出した。
首を傾げながら頷き、カノンノの分の紅茶を側に置く。ありがとう。彼女の言葉に頬を緩めて紅茶を手にベッドへと腰掛ける。正面に座ったカノンノの視線に居住まいを正しながら紅茶に口を付ける。ほう、と、ため息を零す。自然と頬が緩み、肩の力を抜いた。

「前にさ、」

カノンノがぽつりと呟いた。

「こうして初めて、ナマエの絵を描かせてもらった時。あれからずっと、ずっと思ってたの。ナマエ、笑わなくなっちゃったなって」
「そう、かな」
「うん。…だから、この絵の続きが描けなくなっちゃって」

笑顔のナマエが描きたかったの。努めて笑おうとしてくれたカノンノがスケッチブックを反転して見せてくれた。
そこにはわたしが描かれていた。ただし、顔だけは空白のまま。柔らかいタッチ、淡い色使い。ふわりと揺れる黒髪の、顔のない女。

「ルミナシアに来たばっかりの頃。…まだ私も、ナマエも、何も知らなかった頃。私達、笑ってたよね。幸せだった。それだけは、私の勘違いじゃないよね…」

寂しげな声に胸が騒ぐ。スケッチブックから顔を上げ、カノンノを見た。
どうして。どうして、カノンノは泣いているのだろう。嗚咽も漏らさず、肩も震わせず、笑おうとして失敗したような痛々しい顔で。

「ボルテックスの中でね、見たの。たくさんの世界で、たくさんのナマエが笑ってる。お父さんやお母さん、友達に囲まれて…」

彼女の言う意味がわからず、ただ名前を呼ぶ。
カノンノはついに肩を震わせ俯いた。スケッチブックがばさりと音を立てて床に落ちる。わたしはただ、彼女から目を離すことが出来なかった。

「笑っていないのは今ここにいるナマエだけだった。今この世界に、ルミナシアにいるナマエだけが、幸せそうに笑ってなかった」
「ま、待って…」
「ごめんね…!もう帰らないでなんて言わないから、離れてたって友達だって信じてるから、だから」

だから。

「もう一度、笑って」

わたしは。わたしはいつの間に、笑顔を忘れていたのだろうか。笑っていたはずだ。笑っていたはずなのに、カノンノの目にはそう映っていなかったのだろうか。
搾り出したような嗚咽が聞こえる。頭を殴られたような衝撃だった。彼女はわたしを想って言っているのだ。彼女はわたしのために、わたしのせいでそんなことを言っているのだ。
あの人の、ように。

「…、ごめん」

何に対しての謝罪なのだろうか。それすらわからずに俯く。
わたしがわたしのことだけを考えて生きていた間もずっと、わたしを見てくれていた人がいたのだ。恥ずかしい。悔しい。苦しい。泣きたい。

「た、確かにわたし、その…ちょっと前はこの世界に来たことを後悔したこともあった。世界樹のことも、ラザリスのことも、恨んだりした」

この世界自体が嫌だと、あの時のわたしは確かにそう思った。あれはもしかしたら生物変化を起こした予兆のようなものだったのかもしれない。それでも、そう思ったのはわたしなのだ。

「でも、今はもう違う。世界樹とラザリスがわたしを生かしてくれた。わたし、やっぱりこの世界が好きだよ。大好きだよ。幸せだよ」

カノンノが濡れた目で、窺うようにわたしを見上げる。嘘だ、とその緑色の瞳が語っていた。

「本当だよ!」

むきになって上げた声を後悔し、口を押さえる。
重い沈黙が落ちる。躊躇いを振り切れないまま、口を開いた。

「それにわたし、帰らない。お父さんとお母さんには会いたい。会いたいよ。これも、本当。本当の本当に、会いたい…」

これ以上言葉を続けたくなかった。悪戯に郷愁を誘ったところで何にもならないことくらい知っている。そう、何にもならないのだ。
寂しくても、苦しくても、わたしが決めたことだから。わたし自身ではもう癒せやしない傷だと、わかっていた。寂しくても寂しくても、これだけは貫く。そう決めた。

「でもね、…ラザリスと一緒にいたいの。わたしはラザリスと一緒に生きていきたい。ラザリスと、みんなと、…カノンノと一緒に」

ラザリスと一緒に生きたい。あの子に、ぬくもりを与えたい。この優しい世界で、世界樹の腕に抱かれながら、あたたかい人達に囲まれて。
そんな未来を想像すると少しだけ寂しさが癒される。こうして、少しずつ寂しさが薄れていくのを寂しいだなんて思ってはいけない。
きっと、この胸の奥に巣喰う寂しさすら癒される日が来るのだから。

「だから、帰っていいよなんて言わないで…。わたし、これからも笑うから。しばらくは難しいかもしれないけど、きっといつか昔みたいに笑える日が来るから」

無理やり作った笑顔は似ても似つかなかったのだろう。カノンノがくしゃりと表情を歪め、悲鳴のような嗚咽を零して溢れる涙を拭う。
わたしまで泣いてはいけない。今だけは、今だけはカノンノのために。彼女がスケッチブックに描きたいと思っていたあの頃のわたしのように笑って、カノンノに両手を伸ばした。

「カノンノも笑ってよ、ね?」

花が開くような、懐かしい彼女の笑顔が見たかった。


menu

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -