「約束して。絶対に、わたしも連れて行くって」
差し出した小指に目を瞬かせたカノンノは、静かに頷いて小指を絡める。それにほっと息を吐き、絡めた小指を離した。
「ついて来てくれるの?」
「うん」
「…ニアタは、危険な場所だって言ってたよ」
「それなら尚更だよ」
マナの渦巻く場所、ボルテックス。カノンノはそこで自分の意識を広げ、自分自身のドクメントにダイブする。
わたしはそんな彼女を待つしか出来ない。マナに溢れる場所に行くと言うだけでセルシウスにもニアタにも苦い顔をされたのだ。痛みを堪えて、カノンノを待つ。それが、今のわたしに許されたことだった。
「お願い。絶対に帰って来るって、約束して」
「…うん」
今度はカノンノが小指を差し出した。絡み合った小指を見て、彼女は淡く微笑む。
「やくそく」
彼女はここへ帰って来る。
*
話は前夜まで遡る。
痛みにのたうちまわり、最終的にスパーダさんに押さえ付けられながらもセルシウスからマナを分けて貰った。結果として左目は元の眼球に戻ったが、所詮は急ごしらえで表面を偽っただけ。再び力を使えば、すぐにでも花は咲く。
彼らとは。彼らとは、不思議な距離が出来た。
仕方のないことだとは思う。優しい彼らのことだから、わたしが何を言おうと自分達のせいだと言い続ける。そんな彼らにわたしはわたしのせいだと言い続けて、そして、どうしたって交わらないのだ。
生まれた距離を縮める術がわからない。わたしはただ、彼らに合わせる顔がなかった。
「どうかした?」
「え?」
「浮かない顔、してる」
カノンノの依頼を受けるために行ったホールで、アンジュさんにそんなことを言われた。
首を傾げるも思い当たる節はある。曖昧に目を逸らせば、アンジュさんが小さく息を零した。
「カノンノとは仲直りしたのよね。今度は誰と喧嘩したの?」
「喧嘩とかじゃないですよ。ただ、ちょっと…」
背後で扉が開く音が聞こえた。
「顔を合わせづらいだけで」
アンジュさんは目を瞬かせ、不意に表情を和らげるとわたしの頭に手を伸ばす。子供扱いされているようだが、撫でられるのは嫌いじゃない。そんなわたしを微笑ましく眺めていたアンジュさんが、不意に視線を背後にやった。
「おかえりなさい、ユーリさん」
「うえっ!?」
思わず飛び上がって振り返る。そこにはいつも通り、やる気のなさそうな表情で剣を担いだユーリさんがいた。
帰って来たのはユーリさんだったのか。色々な意味で早まった心臓を押さえたわたしを一瞥もせず、ユーリさんはリーダーに書類を渡す。
「終わらせて来たぜ」
「はい、お疲れ様です。今日はもうゆっくりしてください」
「ああ、そうさせてもらうわ」
踵を返そうとしたユーリさんが、ふと、受付の机に置かれた書類に目を留める。
「…カノンノの依頼?」
「ボルテックスに行きたいんですって」
「ボルテックス?何だそれ」
「聖地ラングリースの奥にある、マナの渦巻く場所だそうよ。そこに彼女が飛び込んで、自分自身のドクメントにダイブする。…はあ、やっぱり危険よね」
アンジュさんから手渡された書類を受け取った彼は、軽く目を通す。
そして、顔を上げた。
「これ、まだメンバー決まってないよな?」
「はい。もしかして、同行希望ですか?」
「カノンノの護衛がヴァンとナマエだけじゃ心許ないだろ」
「ヴァンさんなら大丈夫だと思いますけど…そうですね。ユーリさんがいてくれた方が、私もナマエも安心だわ」
「え、」
慌てて口を塞ぐ。苦笑したアンジュさんの向こう、ユーリさんの顔を見れなくて俯いた。瞬間。
「ったあ!」
「俺が同行すると何か不都合でもあんのか?」
「ないです!全っ然ないんでデコピンは勘弁してください!!」
じくじくと痛む額を押さえてホールを逃げ回る。もちろんすぐにユーリさんに捕まり、いい笑顔のアンジュさんにひらひらと手を振られながらホールを後にした。子牛の気分だなあと首に回された腕に逆らわずに引きずられていく。
何だか、当たり前のようにいつも通りだった。
「…目、」
ユーリさんが口を開いたのは、人通りのない廊下に来てからだ。
首に回された腕が外れ、彼と向き合う。ユーリさんの指が、わたしの左の瞼に触れた。
「どんな感じだ?」
片目で彼の表情を窺うことも出来ず、静かに両の瞼を閉ざす。
「今は大丈夫ですよ。毎晩、セルシウスからマナを貰ってますから」
「痛むんだろ?」
「……ええ、まあ」
「ボルテックスなんかに行ったら、痛いなんてものじゃなくなるぞ」
「…でも、カノンノから目を離したくない」
わたしの瞼に触れていたユーリさんの指が、微かに震えた。
指が離れる。釣られるように開いた瞳に、一面の黒が飛び込んだ。
「…だから、」
「ユーリさん…?」
「そういうの、お前が言うんじゃねえよ」
一瞬遅れて、抱きしめられていたことに気付く。けれど、気付いた時にはもうユーリさんはわたしを突き放していて、今度こそ本当に踵を返した。
呆然とその背を見送る。抱きしめられていたのは錯覚だったのかもしれない。わたしの勘違いだったのかもしれない。廊下の角に消えていくその背は、あんまりにもいつも通りだった。
彼が消えていった角の向こうから声が聞こえる。
「あら、ユーリじゃない。こんなところで何してんの?」
「助かった。少し聞きたいことがあるんだよ、ハロルド」
「珍しいこともあるものねえ。わかったわ、研究室でいい?」
「ああ」
二人分の声が遠ざかっていく。扉が開く音、そして閉まる音。
ユーリさんに触れられた左瞼に触れる。ぼんやりと、あの人は何を考えているのだろうと思った。そこに在ることを確かめるような指先の感触を思い返しながら。
← menu →