いっそ意識なんて飛んでしまえばよかったのに。
きつく閉ざした瞼の裏は血のように赤くて、当然のことのように左目の感覚はなかった。それに吐き気を催すくらい強烈な違和感を覚える。纏わり付く甘い匂いは、それを加速させるだけだった。
洗面所の壁が寄りかかった背中を冷やしていく。頭を抱え蹲り、耳を塞ぎ俯いて顔を隠す。
ユーリさんは何も言わない。それが異様に怖くて、恐ろしくて、この身体は震えていた。

「…いつからだ?」

身体が跳ねる。
待ち望んでいたはずのユーリさんの声は冷たいまでに低く、何かを押し殺したように掠れていた。涙が溢れてくる。わからない。漏れ始めた嗚咽に混じった言葉は、果たして彼に届いたのだろうか。
再び下りる沈黙の帳。かつん。かつん。涙の石屑が床を叩く。

「…ユーリ、ナマエ?」

そう呼んだ人の声。アスベルさんの声。心臓が痛いくらいに鼓動を打ち鳴らす。吐き気すら覚えるほどの恐怖に思わず涙は止まったが、体は動かなかった。

「二人共、こんなところでどうしたんだ?」
「どうせそいつがナマエに何かしたんだろう。全く、依頼から帰って来た途端にこれだ」
「ユーリ、お前もあんまいじめてやんなっての」

リオンさんのため息。スパーダさんの笑い声。近付いて来る誰かの足音。漏れかけた悲鳴を喉の奥で押し殺し、肩に触れた手を振り払った。

「ナマエ…?」

困惑したようなアスベルさんの声に止まりかけていた涙が再び溢れ出してきた。
かつん。かつん。石が床を叩く音を聞き、スパーダさんが訝しげに言う。

「何の音だ?」
「僕が知るか。…それより、何があった?」

問われているのはわたしか、それともユーリさんか。どちらにせよわたしは答えられるわけがなくて、ユーリさんは無言のまま。痺れを切らしたリオンさんがおい、と再びわたし達に問いかける。
わたしは何も言わない。言いたくない。ただならぬ雰囲気を感じ取ったのだろう、スパーダさんがわたしを呼ぶ。アスベルさんの手が再び躊躇いがちに肩に触れ、唐突に、その温もりが離れた。

「ナマエ、顔上げろ」
「ユーリ、」
「…顔、上げてくれ」

頼むから。懇願するかのような言葉は、思いの外間近で聞こえた。
迷って、躊躇って、困惑して、混乱して。涙の残滓を纏う睫毛を伏せたまま、何もかもを諦めて顔を上げる。
例え片目だけになっても視界に変わりはなかった。潤み滲んで霞む視界でも至って鮮明に、彼らの表情を窺わせてくれる。ぐしゃりと歪んだ表情など、見たくもなかったが。





昼間ならごうごうと鳴いている機関室も、見渡す限り満天の星空が広がる展望室も、夜の静寂が支配していた。
冷たい指先が、恐る恐る花に触れる。撫でるように花弁を伝い、そのままその手が光と共にわたしの頬を包んだ。
ずきりと左目を中心に広がる痛みに眉を寄せ、反射的に伸ばした手がセルシウスの手首を掴む。痛みは絶え間なくわたしを苛み掴んだ細い手首がぎしりと音が鳴る。それでもセルシウスは眉一つ動かさず、わたしにマナを注ぎ続けた。
彼女に応えようと唇を噛み締めた、瞬間、脳裏に弾けた赤い稲妻に打たれる。

「いやあ!」

わたしが突き飛ばしたセルシウスはスパーダさんに受け止められた。左目だった場所をきつく押さえて蹲り、荒い息を繰り返す。痛い。痛い。痛くて痛くて、滲んだ涙が音を立てて床に弾けた。

「ナマエ、セルシウスも!大丈夫か!?」
「私は大丈夫よ。ディセンダーの方が…」
「恐らく、セルシウスの注ぐマナと赤い煙が体内で反発し合ったのだろう。誰か、水を」
「あ、ああ。…ナマエ、飲めるか?」
「はっ、はあっ、あ…、はい…」

リオンさんが差し出してくれたコップを受け取ろうと伸ばした指先は震えていて、宥めるように背を撫でてくれていたアスベルさんが代わりに受け取ってくれた。
世界が赤く反転したようだ。唇に沿えて傾けられたコップから水を含み、顎を伝い落ちた雫を乱暴に拭う。
左目の痛みは既に飽和していた。それでも小刻みに震える身体にコートをかけてくれたアスベルさんが顔を上げる。

「…ニアタもセルシウスも、知ってたのか?」

責めるような物言いに、二人は黙って頷いた。
違う、と言いかけた喉は焼けるように熱く、言葉の代わりに吐き出した咳が更に喉を焼いていく。そんなわたしの背を撫で続けてくれるアスベルさんの表情を窺うことすら出来ない。
俯いて震えるわたしから離れたセルシウスが、徐に口を開いた。

「ディセンダーの持つ力は、力を使う度に弱まっていったわ。それは彼女が力を使うことで赤い煙を浄化しているわけではなく、赤い煙…ジルディアのドクメントを自分の内に吸収していたから」

代わりに自分のドクメントを分け与えているの。まるで懺悔をするかのようにか細い声で、そう話を終わらせた。
隠していた秘密をこうも簡単に晒されてしまうことに絶望はなく、わたしはただ悲しかった。カノンノに秘密を背負わせた後ろ暗さをまた味わうのか。わたしはまた、誰かを悲しませるのか。
宵闇よりも重苦しい沈黙の中で、今度はニアタが口を開く。

「本来のディセンダー、…つまり、世界樹から生み出されたディセンダーにはこのような現象は起きないはずだ。恐らくこのような現象は、ナマエと言う特殊な人間にのみ起きるものだろう」

特殊な人間、の言葉が様々な意味を含んでいたことを知るのは、わたしとセルシウスだけだ。
話を聞いている彼らは異世界の人間であることだと勘違ってくれたのか、誰も何も言わない。
宙を滑りニアタがわたしを覗き込む。咲いた花を眺め、小さく頷いた。

「体内に吸収されたジルディアのドクメントが眼球を変容させたのか。確かにこれは、他の人間に起きた生物変化と違いはない」

再び沈黙が落ちる。
かつん。かつん。もう自分の意志で涙を止められなかった。手の甲に落ちた涙が床に転がり、わたしから少し離れた場所に立つスパーダさんの足元に止まる。
それを拾い上げた彼は、深く被った帽子に隠していた顔を上げた。

「…カノンノとアンジュは、知ってんのか?」

少し躊躇いながら、曖昧に視線を逸らして頷く。

「……カノンノには、少しだけ…」

本当に少しだけ。こんな風になる前に、少しだけ彼女には秘密を背負わせた。
その時の後ろ暗さと、それ以上の安堵を思い出して唇を噛む。スパーダさんが小さく舌打ちした。

「知らなかったのは俺達だけってことかよ。舐められたもんだな」
「スパーダ、そんな言い方は…」
「お前だって怖い顔してるぜ、アスベル」

あくまでも優しく、宥めるようにわたしの背を撫でていたアスベルさんの手が止まる。
それに身を震わせ、益々深く俯いた。もう合わせる顔がない。痛みはどこかに消え、それでもこの身体の、心臓じゃない中心の部分が痛かった。
リオンさんの伸ばした手が肩を掴む。普段な彼なら考えられないような乱暴な痛みに眉を寄せ、それでも頑なに顔を伏せた。痺れを切らしたように彼が問う。

「どうして、僕達に言わなかった?」

開こうとした唇を、不意に固く閉ざす。
言えるはずがない。こんなことになるとわかっていたのだから。カノンノに話した時も身に染みた、あのどうしようもない罪悪感。秘密を共有させる仄暗い安堵。そんなものがわたしに許されるはずがない。悪いのはわたしなのに。全ての原因はわたしなのに、まるでそれが嘘のように、優しいあの子は言ったから。
一瞬でひやりと冷えた空気が赤い花弁に触れ、眼窩が痛む。セルシウスが伸ばした細い腕でわたしを背に庇った。

「ディセンダーを責めないで。…私はもちろん、ニアタにも、彼女にだって想定外のことだったのよ。あなた達に余計な心配をさせまいと…」
「セルシウス、もういいから…」
「良くないわ、…何も良くない。ディセンダーが、彼女が…ナマエが、どんなに苦しみながらあなた達を守っていたと思っているの」

気のせいだろうか。セルシウスが語尾を荒げ、まるで怒っているかのようだ。珍しいこともあるものだと、その凛とした背中を見上げて思う。そして気付いた。彼女に名前で呼ばれたのは、初めてだった。
視界の中一人だけ、わたしにもセルシウスにも背を向けて夜空に溶けそうな人がいた。その背では表情を窺うことも出来ず、わたしはただ俯く。
優しい人。優しい世界。優しい子。憎む時もあった。恨む日もあった。後悔した夜もあった。寂しさはなくならない。この世界が好きで。この世界に来てから得られたものもたくさんあって、それが大切で。けれど、同じくらい失ったものもあって。家に帰りたくて、自分が一番大切で。眼窩の奥が揺れている。

「世界か、ナマエか、」
「…ニアタ?」
「今の状況では、その選択肢を迫られているも同然だ。だが、このままラザリスを放っておいてナマエが助かるとも言えん。我々はこれまでと変わらず、封印次元にラザリスを封じ込めることを第一に考えて行動するべきだろう」

ニアタがゆるりと首を回す。否定的な表情を浮かべる人がいなかったのか、それとも。ニアタは静かに頷いた。

「皆に余計な心配をかけたくないと言う、ナマエの優しさを無駄にしないでやってくれ。例えそれが、ただの自己犠牲に聞こえたとしても」

長い夜が明けようとしている。誰も何も言わない内に、誰も何もわからない内に。
何がどうしてこうなってしまったのだろう。全ての始まりは世界樹、それともわたし。夜風にさざめく世界樹は、きっと今も沈黙のまま。

「これは紛れもなく、彼女がこの世界とそなた達を愛しているがための献身なのだから」

そんな綺麗なものじゃないと、開こうとした口を迷いながら閉ざした。
言葉が思いつかなかった。否定をすれば、この世界を愛していることすら嘘になってしまうような気がして。


menu

第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -