頭から被った薄い毛布に閉じ篭り、躊躇いがちに名前を呼ぶカノンノから逃げた。
我ながらただの子供だと理解している。わたしがカノンノを心配しているのはもちろんだが、それが感情で彼女を縛ることなど出来やしない。カノンノがしたいことをすればいいと、そんなカノンノをわたしが守るからと、そう言えないのは要は拗ねているからだ。
ロックスさんが部屋まで届けてくれた夕食のトレーの隅には、デザートのババロアの隣にバナナケーキが置かれていた。彼にも申し訳ないことをしたと今更になって気付いた。わたしと同じくらいに、いや、それ以上にカノンノの身を案じていただろうに。そっとかじったバナナケーキはすっかり冷たくなっていた。
夜になって、明かりを消したカノンノが寂しそうにおやすみを言う。沸き上がる罪悪感に今更おやすみを返すわけにもいかなくて、彼女の穏やかな寝息が聞こえてきた頃にそっと部屋を出た。
微かな明かりを頼りに足音を殺して廊下を進み食堂を覗く。当たり前のように人気はなく、少しほっとしながらお茶を淹れる。ポットとティーカップ、残しておいたバナナケーキとお砂糖とミルクをトレーに乗せて甲板に出た。
珍しくセルシウスの姿の見えない甲板。冷たい潮風に身を震わせながら隅っこに腰を下ろし、一人寂しいお茶会の準備を始める。すると、徐に甲板の扉が開いた。

「…ユーリさん?」
「やっぱりナマエか。こんな夜中にお茶会だなんて、風邪引いても知らねえぞ」
「わぷっ、」

投げて被せられたタオルケット。鼻をすすりながら小さく頭を下げてそれに包まった。
隣に腰を下ろしたユーリさんの分のカップはなかったが、彼がお茶をしに来たわけじゃないことくらいわかっている。バナナケーキを半分に割って差し出せば、サンキュ、と言ったその口で直接わたしの手からかじり取った。何となくびくついて目を見開いたわたしに、ユーリさんはバナナケーキをくわえたまま目を細める。悪戯が成功して満足そうな顔が憎たらしくて仕方ない。
ユーリさんから目を逸らしてカップを取る。紅茶の熱で指先を温めていると、バナナケーキを食べ終わったユーリさんが口を開いた。

「俺が口出し出来ることじゃないのはわかってるが、カノンノと喧嘩でもしたのか?」
「…わたしが拗ねてるだけです。明日には謝りますよ」

これは本当だ。今夜一晩拗ねていれば、きっと明日には渋々ながらも、彼女の選択を応援出来るだろう。
まだ熱い紅茶を一口含む。飲み込めばその熱は喉を焼いた。ユーリさんが軽く目を開く。

「珍しい、お前にしては妙に聞き分けがいいな」
「す、拗ねてるだけだって言ったでしょう。別に怒ってるわけじゃありません。…あの子がわたしの気も知らないで、無茶ばっかりするから……」

ぽつりぽつりと、紅茶の熱に溶かされたように唇が緩んでいく。
カノンノが倒れていくその一瞬を、何度も何度も夢に見る。それに悲鳴を上げて起きる夜、安らかな寝息に泣きそうになってまた眠るのだ。それをカノンノに言ったこともないし、言おうと思ったこともない。それでも、それでも。
カップをトレーに置き、小さく息を吐く。そんなわたしの隣。ユーリさんは、呆れたような瞳でわたしを見下ろした。

「それを、よりによってお前が言うか?」
「…え?」
「流石に呆れたぜ。カノンノもお前にだけは言われたくないだろうな」
「ちょ、ちょっと、ユーリさん?」
「似た者同士でお似合いだな。…こっちの気も知らないで」

ぶつぶつと何かを呟きながら、ユーリさんはその長い黒髪を乱暴に掻き回す。何事だと目を瞬かせるわたしを睨み、素っ気なく吐き捨てた。

「その言葉、そっくりそのまま俺からお前に返してやるよ」

その手が伸びる。指先が頬に触れて肩が震えたのは条件反射だと言わせてほしい。
ユーリさんを見上げる。彼が背負う夜空と同じ色の瞳が、物言わずにわたしを見ている。問いかけようと唇を開ければ、頬に添えられた手が微かに震えた。互いにどこか怯えるように、相手の些細な仕草に体を震わせる。波の音だけが響く深い夜。

異変は、唐突に訪れた。

「…っ!!!」

左目に走った激痛に焼き切れそうな理性で食いしばり、悲鳴を堪えた。
痛みに喘ぎながら両手で左目を押さえ、ユーリさんの手もタオルケットも振り払い体を折る。音を立てて全身の血が煮え滾る。それでも左目を押さえる両手だけは氷のように冷たいのが不思議だった。ナマエ、と蹲ったわたしを呼ぶ声が痛みのあまり遠くなっていく。震える足で立ち上がれたのは、正に奇跡としか言いようがない。左瞼に爪を立てながら、縺れそうになる足でホールに駆け込んだ。
荒い息に混じる苦痛の喘ぎを堪え、最低限の明かりだけが点された暗い廊下を走る。震える足では歩くのもままならないのに、それでも走った。
痛みのあまり思うように呼吸が出来ない。悲鳴を上げる肺を無視して走り続け、洗面所に飛び込んだ。
廊下よりは明るいその部屋も、しかし幾つも並んだ鏡の上の明かりしか点っていない。薄暗い部屋の全てを拒絶するような冷たさも今のわたしには無意味だった。綺麗に磨かれた洗面台の前、曇り一つない鏡を覗き込む。
騒がしい胸を押さえたまま、震える手を左目から剥がした。

花が、咲いていた。

他に何か、表現する言葉が見つからない。花だ。花なのだ。
わたしの左目が、左目があった場所に、花が、咲いていた。

「え、…やだ、うそ、うそ…!」

毒々しい血の色の花弁。きらきらと光る粒子を纏い、薔薇を思わせるような大輪の花は、しかし、わたしの左目だった場所で見事に咲き誇っていた。
仄かな暖色の明かりが、花弁には不自然な光沢を見せている。鈍く、けれど艶やかに光を反射する花。痙攣したように震える手で、恐る恐る左目だった場所に咲くその花に触れる。
まるで石のように冷たく滑らかな感触。これは生きた花じゃない。命のない、生きてもいない花だ。
込み上げてくる吐き気に口元を覆い、洗面台に手をついて今にも卒倒しそうな体を支える。意味がわからない。わたしの左目はどこ?何で、どうして、どうして!
衝動的に、生理的に涙が溢れてくる。からんからんと音を立てて洗面台に落ちた涙は、そう、左目に咲いた花と同じ涙の形をした石屑。
そこで、ようやく理解した。生物変化が進んだのだ。もう、セルシウスから貰うマナではごまかすことも不可能なまでに。

「……そん、な…」

からん、からん。冷たいタイルに石が弾ける音が絶え間なく続く。白いタイルの上に落ちる、濁った乳白色の石は増えていくばかり。呆然と、再び花に触れる。冷たい。どうして。涙と一緒に嗚咽を零しながら、鏡に額を押し当てる。もう、何も考えたくない。
赤い花が咲く頃。耳の奥で少女の言葉が甦る。迎えに来るよ。赤い花の、咲く頃に。

だから、わたしは気付かなかった。

「ナマエ!」

あんな風に姿を消せば誰だって追いかけて来るだろう。洗面所に飛び込んで来たその人の声に弾かれるように顔を上げる。
その拍子に右目から零れた涙が、一際鋭い音を立てて床に落ちた。


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