ヘーゼル村の人達は、無事に砂漠を越えられたそうだ。
新たな村は、キールさんの考案の元オルタ・ビレッジの構想を取り入れて再建する予定だとユージーンさんは言っていた。そして何とその新たなヘーゼル村に、ジョアンさん達も暮らすらしい。アンジュさんの紹介の元で教会の手伝いをしていたらしいが、村の再建には男手が多い方がいいだろう、と。これは定期的に送られてくる彼らからの手紙が知ったことで、わたしは驚きつつも返事を書いた。頑張ってください、応援しています。月並みだけど、たくさんの想いを込めて。
それから、もう一週間が経った。

「ナマエ、少しお願いがあるんだけど…。今、いいかな?」

そうカノンノに声をかけられたことで、自分がただぼんやりと空を見上げていたことに気付いた。
はっと意識を戻せば、いつの間にか夕方になっていたらしい。小さな窓から覗く、傾きかけた太陽が部屋を焼いていた。

「ナマエ?」
「あ、う、うん!ごめんね、ちょっとぼーっとしてた。どうしたの?」
「あのね、…絵を、描かせてほしいなって」
「…何の?」
「ナマエの」

二重の意味で驚く。
カノンノの絵と言えば、彼女曰くスケッチブックに浮かび上がる光景をなぞったものばかり。それ以外、例えば普通の風景画なんかを描いているところは見たことがない。
なのに、どうしてわたしの絵を。

「だ、駄目かな?」
「いや、別に構わないけど…」
「本当?…えーと、それじゃあ…。あ、そこの椅子に座って!うん、楽な姿勢でいいから!」

カノンノに促されるまま椅子に座り、適当に姿勢を整える。少し緊張するけど、まあ、カノンノが楽しそうだからいいか。
わたしの正面でスケッチブックを広げたカノンノは、わたしを見ながら鉛筆を動かす。スケッチブックの上を鉛筆が滑る音を聞きながら、窓の外を眺めた。
ヴェラトローパに行きたい。早く、早くと焦れる想いが胸を急かす。セルシウスの気遣わしげな視線さえ、煩わしいと思うくらいに。

「…最近、あんまり笑わなくなったね」
「え?」
「疲れちゃった?」

カノンノの視線は変わらずに、スケッチブックに向けられたまま。
それなのにどこか、心の内を見透かされたような気がした。
少し躊躇いながら、口を開く。

「…ヴェラトローパに、行きたいの」
「ヴェラトローパ?」
「うん。…すごく行きたいのに、行かなきゃいけないのに……」

行けないから。それをハロルドさんやリタさん、セルシウスに当たるのは違う。そう、わかっているのに。
カノンノは手を止めた。眉を下げた、どこか寂しげな顔をしている。

「どうして、ヴェラトローパに行かなきゃいけないの?」
「………」
「今は、言えない?」
「違う。…そう、じゃなくて……」
「…私には、言いたくない?」
「違う!」

自分でも気付かない内に声を荒げていた。
驚いたのは自分だけで、カノンノはただわたしを見つめている。彼女はただ、わたしに問いかけていただけなのに。どうして、彼女の言葉が神経に触れたような気がしたのだろう。
こんなの、ただの八つ当たりだ。そう唇を噛み締めた。

「…ごめん」
「ううん。…私こそ、ごめん。何だか最近、ナマエの元気がないのが気になってたの。何か、余計なこと、だったね」

そう言って無理やり笑顔を浮かべたカノンノの表情は、傷付いた心の内を綺麗に隠していた。
スケッチブックの上を、鉛筆が滑る音だけが響いている。わたしの罪悪感が、重く降り積もっていく。彼女に掛けようとした声は、喉の奥で絡まり解けない。
カノンノと一緒にいるはずなのに。誰よりも、何よりも安らげる空間だと思っていたのに。息苦しい、なんて、馬鹿げている。





あれから少しだけ、わたし達の関係は変わった。
ぎくしゃくしている、と表現するのが正しいのだろう。カノンノがわたしを気遣ってくれている、それがわかるからこそ、わたしは彼女に何も言えなかった。
それでも、彼女にも言えない。言いたく、ない。

「どうぞ」

ふと顔を上げれば、鼻をくすぐる爽やかな匂いがした。林檎の匂いだと、遅れて気付いた。
セルシウスは受け取ろうとしないわたしにコップを差し出したまま、首を傾げた。きっと食堂から貰って来たのだろう。いつの間に甲板から船内に戻ったのか、全く気付かなかった。

「疲れた時は、こういうものが良いとロックスが言っていたのだけれど」

セルシウスに促されるまま、コップを受け取る。
そういえば、最近おやつの時間に食堂に行くことも減った気がする。コップに口をつければ、甘くて爽やかな味が体に染み渡った。

「…ありがとう…」

小さな呟きだったけど、セルシウスには聞こえたらしい。微かにその口元が柔らかくなった。彼女は甲板の縁に寄り掛かり目を閉じる。その横顔を眺め、ふと、手元のコップに視線を落とした。
彼女との沈黙は苦じゃない。最初から彼女に好かれようと思っていないのが一番の理由だろう。カノンノとの沈黙も好きだった。彼女との間に、言葉は必要ないと思い込んでいた。
カノンノには、嫌われたくない。
空を見上げる。ハロルドさんは、あの空の何処かにヴェラトローパがあるのだと言っていた。そこには、わたしが望むものはあるだろうか。
世界創造。人間の祖先。そんなことより、そんなものより、この体を。

「…ナマエ?」

扉が開く音がして緩く顔を上げれば、カノンノがスケッチブックを手にそこに佇んでいた。
コップの中身が大袈裟に音を立てたのが、何だか気まずい。
カノンノはそんなわたしに気付いたのか気付かなかったのか、いつも通りの笑顔のまま駆け寄って来た。

「最近のナマエは、セルシウスと仲良しだね」
「な、仲良し…」

ただ単にセルシウスしか抱えた秘密を知らないから居心地が良いというだけだけど、仲良しに分類されるのだろうか。
曖昧な笑顔を返しつつ、空になったコップを置いて立ち上がった。

「そ、それより、どうかしたの?」
「ああ、うん。…その、この絵を、セルシウスに見てもらおうと思って」

カノンノが躊躇いがちな仕草で、スケッチブックを広げた。
不思議な光景が描かれた紙を、セルシウスに見せる。

「私が描いた絵なんだけど…。この中に、知ってる風景ってあるかな?」

セルシウスはその絵達を静かに眺める。
確かに、もしもその光景が本当にどこかにあるのなら、精霊であるセルシウスが知っているかもしれない。
まるで自分のことのように緊張し、セルシウスが口を開くのを待った。

「いいえ、知らないわ。精霊は、この世界のことを人よりは分かるけれども。知らないものばかりね…」
「そう…。そっか…」

カノンノは目を伏せた。
広げたスケッチブックをしまい、抱きしめる。
その姿が、小さな肩が、まるで子供のようで。

「精霊にもわからないのなら、やっぱりただの妄想だったのかな…」
「そんなこと…!」

だってカノンノは、それでも自信なさげに言っていたのに。きっと何処かに、この光景があるんだって、信じていたのに。
小さく震えるカノンノの肩が見ていられなくて、思わず手を伸ばす。
びくりと跳ねたカノンノの肩は、今にも泣き出しそうに熱かった。

「これは…」

跳ねた拍子に落としたのだろう、一枚の絵をセルシウスが拾い上げて食い入るように見ていた。
その瞳が、みるみる内に見開かれていく。
そのただならぬ様子に気付いたのか、カノンノが顔を上げた。

「…もしかして…その風景、知ってるの?」

そう問うカノンノに、セルシウスは信じられないものを見るような目を向けた。

「知ってるも何も…。あなた、これがヴェラトローパよ!ヒトの祖が、地上に降りるまで過ごした宮殿…」

そして、創世を見届けた者がいる場所。
息が詰まったように喉が悲鳴を上げた。思わずセルシウスの手から奪うようにして絵を取り、焼き付けるように眺めた。
その絵の中には、どこか物悲しい風景が描かれていた。不思議な色をした空に、見たこともない形の建物。しかし、生命が過ごしていたようにはどうしても見えなかった。

「その絵を持って、研究室に行きなさい。ディセンダー、早く、カノンノを連れて研究室へ。いいわね?」

セルシウスに言われるまま、絵を片手にカノンノを手を引き急いで甲板を後にする。
わたしの中にはようやく見つかったヴェラトローパの手がかりへの歓喜しかなくて、手を引かれるカノンノのことを、彼女の瞳に浮かぶ色も、見えていなかった。


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