さみしいなあ、と思う。
槐の背中は男の割に細く、頼りない。おまけにひどい猫背だ。陽を知らないあおじろい肌を押し上げるように、ごつごつとした背骨が浮いている。指先でそっとなぞると、乾いた皮膚のしたで、考えていたより軽いかんじのする骨の感触が伝わる。しばらくそうしていても、槐はくすぐったがったりしない、かといって嫌がりもしない。彼はただ静かに目を瞑っている。
眠っているのかもしれないし、眠ってはいないけれど疲れているのかもしれない。あるいは私が次になにをしてくるのかとひそかに身構えているのかもしれなかった。まばらに生えた、長い睫毛は動かない。呼吸音にあわせて平らな胸が静かに上下する。「槐」―――彼は動かない。
外では雨が降っている。八月も近いというのに、今日はすこし肌寒い。ちいさなマンションの一室で、私と槐のふたりだけが、いま、静かに息をしている。そう考えるとなにか、とてつもなく神秘的なきもちになる。きっとこの瞬間、世界さえも私たちのことを忘れている。私たちはこの小部屋でふたりぼっち。ほかのだれも干渉できない。そんなことを想像する。私は妄想と空想だけは得意なのだ。
私たちは朝早く、ぴったり同時に目を覚ます。寝惚け眼で起き上がって、いちばん最初に顔をつきあわせ、おはようと言ってわらう。朝食を一緒につくって、休みの日には借りてきたDVDをいっしょに観賞する。もしかしたらちょっと遠くの公園まで散歩するかもしれない。それから、やっぱり一緒につくった夕食を遅めにとって、洗い立てのふかふかのベットに潜り込む。夜は野生のうさぎみたいに、身を寄せ合って眠る。・・・そんな日々が続く。幸福が日常にたっぷりとしみこんでいるような、そんな日々が。
―――たぶん槐は馬鹿馬鹿しいというだろう。さみしい。心の中でつぶやく――――さみしい。なにがさみしいのかわからない。ただ胸の奥の奥のほうの、自分でも触ることができないところ、きっとひどくやわらかく、傷つきやすい場所が、じくじくと痛んでいる。ひとが悲しみや苦しみから流す涙の中には、それらを和らげる物質が含まれている。そんなことを教えてくれたのはやっぱり槐だっただろうか。それなら、理由がないさみしさのせいで流す涙も、私を癒してくれるのだろうか。
無性に泣きたかった。槐は起きない。私たちはたしかにこの部屋でふたりぼっちだ。だけどひとりにはなれない。あたりまえだ。そんなことは考えるまでもなく明らかだ。だけど、今この瞬間だけは、その事実がどうしようもなく辛かった。さみしい、さみしい。声には出さない。声に出して、もし槐が起きたら、そうしてもし私を優しく抱きしめて慰めたりしようものなら、この虚しさがしばらく立ち直れそうにないくらい大きくなってしまうことを私は知っている。たちのわるいことに、これはひとりでただひたすら過ぎ去るのを待つしかない孤独だった。ねえ、槐。私は今こんなにもかなしい。どんなに大切なひとや愛したひととでも、分かち合えない孤独はあるのだ。
雨の音が強くなっている。きっとこんなさみしさも、今日のきまぐれな雨のせいなのだ。だから明日になったら忘れるに違いない―――こんな胸がきしむような気持ちも。いままでだってそうだったから。何度も予期せぬ瞬間に訪れ、私のこころをずたずたにして、次の日の朝にはもう去っている。そんなやつなのだ。そのあっけなさに私はいつも瞬きをする。暗い夜が過ぎ去ってもなお燻り続ける、わずかな痛みの残滓に気付かないふりをして。
骨の浮く背中の隣にしずかに横たわる。槐を起こさないように泣こう。泣いて泣いて、泣き疲れるまで泣いたら、涙のあとを残さないように冷やして、眠りにつこう。そうして朝になったら、まだ寝こけている槐を起こして、いっしょにフレンチトーストを作ろう。粉砂糖をたっぷりかけて、甘いと文句をいう槐にそれを食べさせて―――・・・それからふたりでなにをしようか。ああ―――分かち合えない孤独はたしかに存在しているけれど、それでも。
瞼をとじる。明日の朝のひかりはきっと息をのむほど美しいだろう。槐にもその美しさが伝わればいい。そうだ、決して共有できない孤独があったとしても、この広い世界には、それ以上にたくさん、わかちあえるものがあるのだから。これから、ひとつひとつ、分かち合っていけばいいのだ。―――ほんのすこし、胸が軽くなった気がした。
ありがとう、私は今こんなにも、あなたに救われている。
20120725/君が迎える朝を知る