海と愛:ケースA
真冬の空気が頬を刺す。白んだ雲が、分厚く空に佇んでいる。流れ続ける時の狭間に、自分だけが取り残されたような、そんな恐怖を感じる。
唐突に、わたしはさみしさに気づく。無造作に巻いたマフラーの隙間にも、この街の寂れた路地裏にも、それから、草臥れた彼の背中にも、穏やかで深いかなしみが、静かに息づいていた。
「おい」
振り返った彼は、不機嫌そうな顔をしている。はやくしろ、と言い、また前を向く。彼の吐息が白く、たましいのように揺らぎ、消える。それはわたしたちの心に、すこし似ていた。
ありふれた日常を繰り返して、きっとわたしたちは大切な何かを見てみないふりして、笑って、泣いて、揺れて、疲れて。立ち止まることも歩き続けることもすこし辛くて、上手にできなくて。もう何度、朝を迎えただろうか。わたしが考えるよりきっと、ずっと繊細な彼は、もう何度、その胸の痛みや悲しみと一緒に、消え入りそうな夜を越え、そうしてひとり、朝を迎えたのだろうか。
命の匂いがする。ずっと昔の、わたしたちのふるさとの囁きがきこえる。人気のない道路のガードレールを飛び越え、砂浜を駆け降り、そうしてわたしに手を降る彼の背には、群青の、冬枯れた海が広がっている。
『着いたね』
「寒いな」
『海、入ろうよ』
「寒い」
『入らないの』
「入らない」
彼の手に触れてみる。握ってみる。握り返される。ふたりとも手が冷たいから、なかなかあたたまらない。風が吹き荒む。海が鳴る。
『寒いね』
「寒い」
『帰ろっか』
「結局何しに来たんだよ…」
『海見に来た』
「お前な」
『ごめんごめん』
つめたい砂浜を、ふたり、手をつないだまま歩く。空はいつの間にか、暗くなりはじめていた。今夜はあなたが、よく眠れるといいな。
かなしいことがあっても、きっと大丈夫。わたしも、あなたも、ふたりでいれば、前を向いて生きていけるよ。そう思うの。依存するのもされるのも、くるしくてさみしいことだけど、わたしたちはたぶん、ひとりでは生きていけないから。
僕らの愛の宛名について
つないだてのひらは、まだ、あたたまらない。
海と愛:ケースB
彼女が泣いている。そう思った。午前二時、僕はベッドの上、体を横たえたまま、ゆっくりと瞼を押し上げる。頭上の窓からはぼんやりと月光が差し込んでいる。
まだ働かない頭で、もういちど考える。やっぱり、彼女はいま、きっと泣いている。
雨が、屋根に、地面に、生き物たちに、降り注ぐ音がする。雨の夜は好きだと、いつだったか、彼女は呟いた。
『ちいさなころからずっとね、雨がすきだったの。だれもいない場所で、ひとりで、雨の音をききながら眠るのよ。とても落ち着くわ。特に夜はね。それでね、そんなときにはね、世界は少しだけ、わたしに寄り添うのよ。ほんとよ』
雨が降っているから、彼女が泣いているだなんて、思わないけれど。今日はきっと泣いている。なにか、きっとつらいことがあって、今頃は息を殺して、シーツにくるまっているんだろう。彼女の涙は寝室を水浸しにしないだろうか。ちいさな海になってしまわないだろうか。そうしたら彼女は、溺れるのだろうか。それとも魚になるのだろうか………。
僕には彼女の涙を止められない。かなしそうなかおをした彼女は、もう何度もみたけれど、涙を止められた試しは一度もない。彼女を泣かせるのも笑わせるのも、僕にはとても難しいから。
『私が雨に愛されて魚になったら、彼は私のこと、飼ってくれるかしら。青い水槽を用意して、私のために、冷たい水に指を浸してくれるかしら』
『それならきみはきっと、きれいな鱗をしているね。尾ひれは何色なんだろう。青い水槽をうつくしく泳ぐなら、僕も彼の家に、きみを見に遊びにいってもいいかな。』
だめよ、恥ずかしいから。そう言って彼女は笑った。
ああ、僕は彼よりもずっときみを愛しているのに。僕は嘆く。彼はきみのことを愛してはいないさ。わかっているだろう。
月が雨で滲む。僕は彼女に出会い、彼女を愛してからずっと、海の底に棲んでいる。光は薄暗く世界を照らし、息苦しさは途絶えない。この世界にはだれもいない。ただ時折彼女がやってきて、彼の話をしてわらう。
僕はここで、たったひとり微睡みながら、彼女が魚になることを考える。彼は青い水槽なんて持っていないから、きみのことも飼ってはくれないよ。
深海魚は泣いている
彼女の鱗は虹色で、この海ではたぶん、青く輝く。