埃に塗れたグランドピアノ、点いたり消えたりを繰り返す切れかけの蛍光灯、本棚にぐしゃぐしゃに入れられた楽譜、此方を見下す音楽家たちの肖像画。微かなレモンキャンディの香りが鼻につく。旧第一音楽室。――どこからか聞こえる、合唱部員のものであろう甲高いソプラノと落ち着き払ったアルトが耳を掠める。

「それで、優等生の花宮くんがわたしに何の用なのかな。放課後の音楽室に呼び出してくれちゃってさ」
「お前、オレの本性知っといて優等生とか言ってんのかよ」
「じゃあ、猫被りの花宮くん?」
 
 首を傾げてわざとらしく言ってのければ、案の定花宮くんはぴくり、と特徴的な眉を動かして、「それで良いんだよ」と満足そうに目を細めた。

「で、ご要件は」
「何、用がなかったら呼びだしちゃいけねえの?」
「出来ればこれ以上付き纏わないで貰えるとありがたいな」

 くつり。彼の程良く筋肉のついた肩が震えた。果たして、泣いているのか、笑っているのか、思考の海に溺れているのか。俯いたその顔が上がるまで、それは分からないがその震え方はどちらかといえば、嘲笑か自虐を含んでいるように見える。
 と、ようやく露わになったその表情。それなりに奇麗な顔立ちをした目の前の猫被り少年は、どうやら笑い――いや、嗤いを堪えていたようだった。真っ暗な瞳が蔑むように此方を見やる。

「ふはっ、前から思ってたけどやっぱりお前は傑作だ」
「は?」

 ゆっくりと上がる彼の口角。歪んだ弧を描くそれは狡猾な笑みと言うに相応しい。嫌な光を宿した花宮くんの目がわたしの視線に絡みついてきたかと思えば、壁に手をついて彼の両腕という檻に囚われた。くすり、と愉快に不敵に息をもらすその唇が開く。

「オレはお前をこうしたくて仕方なかったんだよ、なまえ」
「さっきから言ってることが良く分からないよ、花宮くん」
「はっ、しらばっくれんなよ。こうされても気が付かねえとか、お前頭おかしいだろ」

 それはどうも、と言いかけた唇に鈍い刺激。視線を上げれば零距離に花宮くんのしたり顔が映される。嗚呼、どうやら奪われてしまったようだ。

「狼少女ちゃんは、花冠でも被って静かにしてれば良いんだよ」
「狼少女とか、何それ」

 つまるところ、彼はわたしを嘘吐き(マッド・レイア)だと言いたいのだろう。何て、上手い褒め言葉なんだろうか。そうだ、どうせわたしは嘘偽りで溢れた哀れな人間なのだ。

 ――いつの間にか耳触りな歌声は消えていて、代わりにミスタッチの多いピアノ演奏が流れ聞こえていていた。ぽろん、ぼろん。その不協和音は、まさに今のわたし自身で。

「猫被り少年くんも、喋らなければいいのに」
「余計なお世話だ、バァカ」

 首にささった文字通り悪童であるクラスメイトの毒牙はきっと抜けることはない。もがけばもがくほど、毒は広がるばかりなのだから。仮面王子に被せられたロベリアの花冠に蝕まれながら、わたしは生きていこう。

 ――愛なんて、毒と同等かそれ以下なのだから。