持っている書簡の束を胸に抱いたまま溜息を吐く。ここへ立ち尽くしてどのくらいが経ったのか、少なくとも短い時間でないことはわかっている。それでも、私は目の前の扉をノックする勇気が持てなかった。

「だから、さっきから言ってるだろう! 俺はもう限界なんだ、ジャーファル…!」
「いいえそんなことはありません迷宮を七つも攻略し窮地にも立たされてきた貴方ならもっと長時間頭を動かしペンを動かし座り続けることなど造作もないことでしょうわかったらさっさと続きをしてくださいでないと今日も徹夜ですよ」
「息継ぎする時間くらいあるだろう! 怖い!」
「あるわけないでしょうが! 仕事しろ!」

恐らく、この扉の向こう側は所謂修羅場と呼ばれる状態なのだろう。シンドバッド様が難民を連れ帰られ、その処理に追われること早数日。ようやく落ち着いてきたと聞くけど、シンドバッド様とジャーファルさんはろくに休息もとられていない様子。
いくら大切な仕事といえど、身体を壊しては元も子もない。少しくらい休憩をとってほしいのだけど、今私が持っている書簡はヤムさんから彼等へ提出するよう頼まれたもの。これ以上仕事を増やしたくない、でも提出しないわけにはいかない。悩んでいる内に、入るには入れなくなってしまった。

「ジャーファルの馬鹿野郎!」

ぼんやり大きな扉を目の前で見上げていたのがまずかった。勢いよく中から開いた扉が、乾いた音を立てて私の額に激突。
その衝撃で、私はその場に書簡をばら撒いてしまったけど、正直それどころではなくて。座り込んで、じんじんと痛みを主張する額を押さえる。よほど当たりどころが悪かったのか、ぶつかった個所は熱くなって膨れていた。

「名前!?」
「名前さん、大丈夫ですか…!?」
「だ、大丈夫、です」

生理的に涙が滲み始める。幸い血は出ていないようだし、ぶつけた部分以外は問題ない。立ち上がって大丈夫だと証明したつもりが、眩暈でよろめいてしまって。危うく倒れ込んでしまうところをシンドバッド様に支えてもらい難を逃れた。

「悪い、名前。扉の前に人がいるとは思わなかったんだ」
「私の方こそ、扉の前でジッとしていたのがいけなかったんです。すみません」
「とにかく、シンは名前さんを部屋の中へ。私は何か冷やすものを持ってきます」

慌てて駆け出したジャーファルさんは、引き止める前に姿を消していた。普段は政務官として机に向かっているのに、どうすればあんなに早く走れるのだろう。呆然と見送っていた私の肩を抱き、シンドバッド様は室内の大きなソファーへ丁寧に座らせてくれた。

「あ、ありがとうございます」
「これくらいはな。元々は俺が勢いよく開けすぎたせいだ」
「そんなことありません。その、仕事に追われてお疲れなのでしょう?」
「何だ、聞いていたのか?」

外まで漏れていたとは、と小さく苦笑するシンドバッド様の顔色はあまり優れない。ジャーファルさんは一瞬しか見ていないからわからない。
でも、目の前の彼は確かにいつもより少し青白い顔をしている気がする。王様として彼にしかできない仕事はたくさんあるだろうから、仕方がないと言えばそうなのかもしれないけれど。

「失礼します。紅茶と、名前さんに冷やすものをお持ちいたしました」
「ジャーファルはどうした?」
「ジャーファル様は文官に呼ばれて白羊塔へ。少ししたら戻られるそうです」
「そうか。アイツも忙しい奴だからな」

恭しく礼をした侍女さんが出ていき、お盆に乗せられていた布を額に当てる。ひんやりした気持ちよさに自然と瞼が下りて小さな吐息が漏れた。

「ジャーファルさんは大丈夫でしょうか」
「ん?」
「あ、いえ、シンドバッド様とジャーファルさんは特にお忙しそうだったので、少し気になって」
「まぁ、アイツは仕事が趣味だから暇よりは忙しい方が好きだぞ?」
「それも、すごいですけど…」

4徹したこともあると聞いた時は、本当にジャーファルさんの身体が心配になったものだ。いくら仕事が趣味で苦でなかったとしても、仕事中毒という病気もあるし、いつか本当に身体を壊してしまいそうで時々不安になってしまう。意図せず零れる大きな溜め息を耳に留めたシンドバッド様は、キョトンと目を丸めて小さく笑った。

「だが、最近のジャーファルは変わったと思うよ。仕事よりも気になることがあるらしくてね」
「そうなんですか?」
「俺は名前のことじゃないかと思ってるんだが、どうだろう?」
「わ、私…?」

そうだ、額のお詫びに少しだけジャーファルの昔話でもしようか。そう言って、シンドバッド様はカップを置いて楽しそうに微笑んだ。
額のことなら私に非があるのにと思ったけれど、私の知らないジャーファルさんの昔話を聞いてみたい気持ちもあって。本人以外の口から彼の話を聞いてみたい。膨れていくそんな好奇心に負けてしまい、少しだけならと誘惑に乗ってしまった。

「ジャーファルの昔のことをどれくらい知っている?」
「ええと……暗殺者だったことはジャーファルさん自身から伺ってます」
「そうか、聞いたか」

どこか嬉しそうな声に思わず首を傾げる。宝石みたいに綺麗な瞳は遠い昔を思い出しているのか、窓の外を見つめたままふっと優しく細められて。シンドバッド様の横顔を見つめてから、私も同じように窓の方へ視線を向けてみる。数羽の鳥が滑空しているのが見え、少しだけ肩の力が抜けた。どうやら、自分も知らない内に少し身構えてしまっていたらしい。

「ジャーファルはな、人の脆さも醜さも汚なさも知っている。そのせいか他人に対して異常なくらいの警戒心を持っていたし、周りとの距離の作り方が秀逸で、人の表情を読み取り、感情を察することも上手かった。暗殺業というものがどういうものかは、俺にはわからない。だが、そうしてアイツは生き抜いてきた。信頼できる者を得たおかげか今では大分それも薄れたが、そう簡単にその癖が抜けることはない」

初めて会った時のジャーファルさんは私を不審人物として警戒していたと聞いた。ジャーファルさんはいつも私に『もっと警戒心を持つように』と諭してくれる。それは、彼が過去に経験した出来事から来ている言葉なのかもしれない。

私には、シンドバッド様以上に暗殺業がどんなものなのか想像もつかない。ただ、人の命を奪う、人を傷つける仕事はその人自身の心を蝕んでいく仕事だと思う。
いくら人を殺めることに慣れて何も感じなくなったとしても、本人が気付かない内にたくさん傷ついていたはず。傷つきたくないから、何も感じたくないと防衛本能が働く。そして、何も感じなくなり、周囲の人間を信じられなくなる。辛い、辛い仕事だ。

でも、だからこそジャーファルさんは優しいんだと思う。自分が傷ついて、苦しんで、悲しんだから。あんなにも柔らかい表情を出来るようになったのではないだろうか。もちろん傍で見守っていたシンドバッド様達の力がとても大きいこともわかる。シンドバッド様に忠誠を誓う彼を見ていればすぐに気付けたから。

「ジャーファルさんは、初めて会った時からずっと優しかったですよ。きっと、シンドバッド様達が傍にいたからですね」
「初対面でそう感じたのはきっと名前だからだろう。会って少ししか経たない内にアイツが名前を気遣うようになっていた時には、俺も驚いたよ。まさかこんなに簡単に厚いはずの壁を壊してしまう奴がいるなんて、と」
「少し大袈裟ではありませんか、シンドバッド様」
「いや、そんなことはないさ。名前の傍は心地よい。空気が澄んでいるというのかな、とても穏やかな気持ちになれる。それが一番の理由なのかもしれないな」

シンドバッド様の言葉一つ一つを受け取るたび、胸のあたりがあたたかみを帯びていく。本当にそうだったらいい、私に少しでもシンドリアやシンドバッド様、ジャーファルさんや皆の力になれることがあればいい。恩返し色々を抜きにしても、心からそう願える。もしも私がジャーファルさんに良い意味で変化をもたらすことができたのなら、これ以上の幸せはないだろう。

「そんな……私は何もしていません」
「そう、何もしていないからジャーファルが変わった。名前本人が言うのだから、本当に何もしていないのだろう。しかし、だからこそアイツは自分から歩み寄ろうとしたんだ。惹かれている名前のことが知りたくて、距離を縮めたくて、自分のことを知って欲しいと思うくらいに」

耳まで熱くなるのを感じて、シンドバッド様の賛美から逃げるように俯く。さっきまでは確かに冷たかったはずの布が、今はすっかり熱が移ってしまったようで温く感じられる。

「俺は、ジャーファルの隣に名前がいてよかったと思うよ。他でもない君が、ね」
「で、ですが、私はジャーファルさんに助けていただいてばかりで、お役に立てることも少ないですし」
「今までだって、ジャーファルの傍に誰もいなかったわけじゃない。だが、“女”としてアイツの隣に立ち、変えることができたのは名前だけだったよ。あんなに優しい顔をするジャーファルは初めて見たぞ」

にっこり。整ったお顔で含みのない笑顔を向けられては、これ以上何も言えなくなって押し黙るしかない。嬉しくないわけではない、決して嬉しくないわけではないのだけど。だけど――

「仲睦まじい二人を見てるだけで俺まで幸せな気持ちになれる。名前もジャーファルも良い顔をしていて、お互いを大切に想っているのが伝わってくるんだ。あぁ、結婚が決まったら俺に一番最初に教えてくれよ?」
「ああああの、シンドバッド様、お願いですからもう許してください…! 心臓が、今にも爆発してしまいそうです!」
「おっと。本当に爆発したら、俺がジャーファルに殺されてしまいそうだなぁ」

ジャーファルさんの昔話を聞いていたはずが、いつの間にかシンドバッド様にからかわれる形になっていて。これ以上は本当に堪らないと羞恥から涙が滲みそうになった時、タイミング良く扉が開いてジャーファルさんが入ってくる。そして、何とか顔を隠そうと格闘してる私と笑顔のシンドバッド様の顔を見比べ、不思議そうに小首を傾げたのだった。


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