こんなに緊張したのは、もしかしたら王子にお仕えすることになって初めて王宮へ上がった日、もしくは、母のことがあった時以来かもしれない。暴れる心臓を落ち着かせようと胸の上に手を置き、ゆっくり深呼吸して扉を開けた人物に向けて笑顔を作った。

「こんにちは」
「何か用?」
「このマエありがと、うございました。ヒメのトキ」
『ボクはナツキみたいに感覚的な理解はできないから、アグナパレス語で言い直してくれる?』

面倒くさそうにもどうでもよさそうにも見える無表情のアイアイさんに、「とりあえず入ったら?」と促され、お部屋へお邪魔する。実は二度目の訪問なのだが、迎えられる相手がナツキとアイアイさんとでは心持ちがまったく違う。
テーブルを挟んで座るアイアイさんの感情を見せない瞳と目が合う。けれど、その表情は早く本題を話せと言っているような気がした。

『アイアイさん、この前はありがとうございました。貴方が教えてくださったおかげで、姫様と――』
『あぁ、アレ。アレは単にあのやりとりをする時間が無駄だと思ったから、口を挟んだだけ。お礼を言われる筋合いないよ』
『それでも私は助かりました。本当に、ありがとうございました』
『……別に』

怪訝そうな顔をしてこちらを見るアイアイさんは、何を考えているのだろう。腕を組んで私を観察するようにジッと見据える彼。彼の澄み切ったペールアクアの奥底が見えず、グッと唇を噛み締める。
例えアイアイさんが何を考えているかわからなくても、どんな人か正確に理解できなくとも、色んな可能性を考えて到った結論は変わりはしない。それなら、私は実行するのみだ。

『実は、お礼とは別にアイアイさんにお願いがあってきました』
『それ、やめてくれる?』
『え?』
『ボクは美風藍。アイアイはレイジが勝手につけたあだ名だから、君もレイジが呼ぶよう言ったからって呼ばなくていい』

わかった?と無表情ながらどこか苛立っているようなアイさん。声に多少の棘が見え隠れしている。きっと呼ばなくてもいいではなく、呼んで欲しくないのだろう。

『アイさん、お願いがあります』
『一応聞いてあげるよ。何?』
『私に、日本語を教えていただけませんか?』
『いやだね』

今の状況を表すなら、一刀両断。取りつく島もないといったところか。思いきり面倒くさいとばかりに眉間に皺を寄せ、アイさんは不快そうにしている。この反応は予想外だったけれど、断られることは予想通りだったからあまり残念には思っていない。

しかし、断られたからと言って簡単に「仕方ありません、諦めます」とは言えないのだ。ここで引き下がっては、私が日本語をマスターするのに時間がかかってしまう。食い下がろうと口を開いた時、突然現れた人物によって遮られてしまった。

「あれ、従者ちゃんじゃん。どうしたの?」
「また面倒なのが面倒なタイミングで……。っていうかレイジ、無断で上がらないでよね」
「ぶー。せっかく今日はオフなアイアイのために、シャイニーさんから頼まれた書類持ってきてあげたのにつれないなーもう!」

従者ちゃんもそう思わない?と肩に手を乗せられた。よくわからないから首を傾げたけど、答えがほしかったわけではないらしく、レイさんはすぐにアイさんへ向き直った。

この人だけでなく、ここにいる人達はスキンシップが多いような気がする。もちろん全員ではないし特定の人物だけではあるけど。私は王子で慣れているが、これでは姫様は大変そうだ。もしも、こんな風に軽々しく姫様が触られていたとしたらよろしくない。今度それとなく悪い虫が付いていないか確かめてみなければ。

「彼女、日本語が得意じゃないからボクに教わりたいって言いだしてね」
「おぉ! 確かにアイアイは両方喋れるから最適じゃん!」
「ボクが彼女に教えることに対して何のメリットもない。それなのに、どうしてボクが教えなくちゃならないのさ。それに、意思疎通だけならナツキだって可能なのに」

賑やかなレイさんと静かなアイさん。正反対に見える二人だけど、意外に仲がいいのかもしれない。それはきっと、レイさんの性格が関係していると思われる。
まだ出会ったばかりで信頼関係を築けていないのもあるだろうけど、アイさんは淡々とした物言いで、感情や気持ちをなかなか見せてくれない人だと思う。でも、レイさんの明るい性格はそれをものともせず、どんなにあしらわれても気にした様子がないから。もしかしたら、正反対だからこそ何かしら引き合うものがあるのかもしれない。

『ねぇ、ボクが君に日本語を教えるとして、君はボクに何をくれる?』
『それは…』
『第一、どうしてボクなの。君の言いたいことなら感覚的にだけどナツキが把握しているようだし、仲もいいならナツキに頼む方が断られる可能性は確実に低い』
『ナツキは他の皆とアイドルになるための勉強中です。邪魔をしたくありません。それに、アイさんにお願いしたのはちゃんと理由があります』

教える側のアイさん、教わる側のナツキ。双方とても忙しいとは思うけど、それでもアイドルについて頑張って学んでいるナツキの邪魔をしたくないのが本音だ。ナツキには現時点でも色々お世話になっているし、これ以上迷惑をかけたくはなかった。

『ナツキはとても優しい。きっと、頼めば笑顔で教えてくれると思います。ただ、その優しさに甘えていてはなかなか上達しないでしょう。私は早く日本語を理解したい。何をするにしても言葉が伝わらなくては、王子の役に立ちたくても立てないのです』
『どうしてそこまでするの?』
『従者という立場も、今の家族も、王子が私に与えてくださったもの。私は、王子にそれ以上のものを返したい。恩返しがしたい。私は、王子のために一生を費やすのです。王子にこの身を尽くすのです。心を捧げるのです。そのために、アイさんにお願いしています』

よろしくお願いします、と頭を下げる。頭上からは何の反応も返ってこず、やっぱり駄目だったかと流石に肩を落としそうになった。もう頭を上げてしまおうかと思ったその時、小さな呟きが聞こえてきて反射的に頭を上げる。
呟きの内容が何だったのかは、あまりに小さすぎて聞きとれなかった。ただ、目の前のアイさんの雰囲気がどこか先程とは違っているような気がした。

『ボクも多忙な身だから、直接教えられる時間が短いよ』
『構いません』
『そう、なら今から君は日本人だ。アグナパレスの言語は忘れて』

それはつまり、教えてくれるということでいいのだろうか。瞬きも忘れて思わずアイさんを凝視していると、話を聞いていないととられたらしく不快そうにムッと表情を歪めてしまった。どうやらアイさんは、無表情が素でありながらも負の感情は出やすい人らしい。

「ありがとうございました、アイ」
「『ありがとうございます』の方が正しいと思うけど。ボクは君のその主人に対する姿勢、忠義っていうのかな。それがどれほどのものか、気になった。それだけだよ」

つまり、私の王子への忠誠心を試されているのか。アイさんの気になった部分がどこかはわからないが、それなら存分に知って欲しいと思った。王子への忠誠心なら誰にも、アグナパレス中探したって私以上にお慕いしている従者はいないと胸を張って言えるから。

「よくわからないけど、無事解決したみたいでよかったよかった! アイアイはスパルタだから頑張ってね、従者ちゃん」
「何、レイジまだいたの?」
「ひどーい! ね、従者ちゃんもそう思うよね?」
「え、んと……アイはヤサし」

まだミカゼアイという人物について、全てを理解したわけではない。マスターコース寮にいる人達の中では一番感情を見せない人。それでも結局は私に日本語を教えてくれるというのだから、私にとっては優しい人ということで違いないはず。

「アイアイが、優しい……だと…?」
「……とりあえずショウとナツキが戻ってくるまでに必要不可欠な言葉を教えるから。訊き洩らさずに覚えて」
「はい!」
「それと、レイジは書類渡すだけなら仕事終わったんだから部屋に戻ったら?」
「こうなったら、アイアイが従者ちゃん誑かしてたって噂流してやる!」

泣き真似をして出て行ったレイさんを引きとめた方がいいのかと伸ばした手は、アイさんに軽く叩かれて落とされてしまった。ここで甘やかすとつけ上がるから、と溜め息をついてみせる彼が言うのだから、恐らくその通りなのだろうと思った。


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