寮で過ごすようになって数ヶ月、私が事務所へ呼び出されたのは今朝が初めてだった。ここへ来た当初、カミュちゃんに呼び出しは絶対と説明されていたことを思い出し、すぐに事務所へ向かった。
ただ、思い返しても呼び出しの心当たりは全くなかった。というか、それも当然だと思う。私が事務所へ行くのは今回が二度目。私からも事務所からも、お互いへの接触は今日まで一切なかったのだから。

『今週末、彼等に休暇を与えるつもりなのデース!』

到着して早々社長室へ通されたと思えば、唐突にそう告げられた。マスターコースの全員が休暇をとり、休暇中はシャイニング事務所の保養所で過ごす。その間利用するコテージは元々管理されているもので、行けばすぐに使用できるようになっているらしい。

正直、王子と離れることは考えられない。アグナパレスと日本のように距離は遠くないし、所在は以前と違ってはっきりしている。それでも、従者として仕えるべき方と離れて過ごすなんて、何のために来たのかわからなくなってしまう。
そう思う反面、当然だと考える冷静な自分もいた。私はマスターコース寮の管理を任されている身。例え王子から仰せつかった従者としての仕事でなくても、一度任されたことをセシル王子の従者の誇りにかけて完璧にこなさなくては。いくら本末転倒になったとしても、ここで私までついていって寮に人がいなくなっては意味がない。

『わかりました。皆が戻るまでるすばんをすればいいのですね?』
『ノンノン! YOUにも一緒に行ってもらいマース!』
『なぜ? 私はオウジにつきそえるのでうれしいけど、それではりょうに人がいなくなります。私は、あなたからまかされているのに』
『ニンゲンたるもの、休息は大大大事デース! それは管理を“手伝ってくれている”Miss.名字も同じコト!』

つまり、早い話が私にまで休暇をくれるということだろう。短期間であれば代理はきくということで、ほっと胸を撫で下ろす。これで、王子について保養所へ行ける。そんな私の心中など察しているらしいサイトメさんは、ふっと笑って一枚の紙を差し出した。
受け取って見れば、保養所の場所と設備一覧が見やすくまとめてある。首を傾げながらサオトメさんを見れば、「一足先に保養所へ行ってみたいと考えていることなど、ミーにはまるっとスケスケのお見通しのすけデース!」と返されてしまった。まさに図星である。

いくら従業員がいて管理しているとしても、私は王子に関することは一目自分の目で見ておかなければ納得できない性分だ。一泊どころか数日でも滞在するのなら、快適に過ごしてほしいし、不備があってはならない。ほんの数回話しただけでそんなところまで見抜かれているとは、サオトメさんはすごいというか不思議というか、謎が多い。

『それと覚えておいてクダサーイ。YOUは寮母さんでも管理人でもアリマセーン!』
『え、はい…?』

確認するまでもなく、私は従者である。王子のお傍にいるために必要な仕事として、マスターコース寮を代理で管理や掃除を“お手伝い”しているだけで、決して寮母になった覚えはない。戸惑いつつも肯定すれば、満足気に大きく頷いたサオトメさんは取材の仕事があるとかで颯爽と部屋から出て行った。本当に、よくわからない人だ。






こうして、週末の休暇に向けて突然ショッピングへ出かけることになった私の現状を簡単に説明するとしたら、迷子になった。この一言で済んでしまう。

言い訳しておくと、私は決して方向音痴には属されないと自負している。自分が方向音痴と認識できていない人は、ひどい方向音痴のことが多いと聞く。だが、私の場合は本当に方向音痴ではないのだ。これは自称ではなく、王子による他称でもある。
それでも今回の事態に陥る原因があったとすれば、たった一つ思い当たることがあった。不慣れな場所へ、ふらふらと一人で出かけてしまったことだけ。また一緒に行こうと約束していたナツキに予定があったとはいえ、せめて場所を確認してから寮を出ればよかったのに。

不用意に出かけてしまうとは自分もまだまだだと角を曲がった瞬間、前から人が走ってきて思い切りぶつかってしまった。正面からの衝撃に私は反射的に壁へ手をつくことで倒れることを回避したが、相手はふらついて尻餅をついてしまった。次いでカシャン、と乾いた音がして、慌てて相手へ駆け寄る。

「大丈夫ですか?」
「うわっ…!?」
「どうぞ、サングラスがおちてしまいました」

地面に落ちていたサングラスを差し出せば、その人は慌ててかけた。大切なサングラスなのか、だとしたら傷が付いていないにしても悪いことをしてしまった。どこか気まずそうにしている相手――サングラス――を眺めていると、不意にその人がふっと私を見上げて視線が交わる。

少年とも少女ともわからない中性的な幼い顔立ち。桃色がかったふわふわの髪。サングラスの色は薄くて透けて見える瞳は、くるりと大きくパッチリしていて睫毛も長い。身長は私より大分低くて、そのせいでぶつかった時の反動は向こうの方が大きかったのだろう。まだ幼い少年もしく少女にぶつかってしまうなんて、ケガをさせてはいないだろうか。

「ぶつかってすみませんでした。ケガは?」
「――もしかして、ボクのこと知らないとか?」
「よくわかりませんが、きっと人ちがいです。私はニホンに知り合いが少ないから」
「いや、そういう意味じゃないんだけど。まぁ、いいや」

一瞬呆れたように目を細めた彼もしくは彼女は、小さく笑うと帽子をかぶり直して私の横を擦り抜ける。このまま行ってしまうのだろうと見送っていたら、何を思ったのかその子は「あ、そうだ」とこちらを振り返った。

「オネーサンはもう少しテレビとか雑誌とか、見た方がいいんじゃない? サングラスどうも。じゃあね!」

ビルの裏道を走り去っていく。一人称がボクということは、あの子は少年だったのだろうか。ともかく、ぶつかった時にケガをした様子はなかったし、走れる元気があれば大丈夫そうだ。次から曲がる時は気をつけなくては。

ゆっくり覗きこむようにして人がいないか確認すると、正面から複数の女性達が慌てて走ってきた。キョロキョロと何かを探している様子で、もしかしたら彼女達も私と同じで迷子なのかとも考えたけど、それにしてはとても楽しそうに見える。何を探しているのかわからないが、とりあえず邪魔にならないように隅を通って目的地を探すことに専念しよう。

しかし、やっぱり誰かに道を訊いた方がいいだろうか。アイちゃんに習って言葉が上達した今なら話しかけても通じるだろうし、何よりこのままでは辿り着けそうにない。

「もしかしてナマエちゃん?」
「えっと……リンゴ、さん?」

正真正銘リンゴさんだった。いつもおろしている髪は二つに結んであって、サングラスをかけている。日焼けを気にしているのか、縁の大きな帽子を目深にかぶっていた。傍から見れば怪しくも思えるが、その恰好をしているのが彼女となると不思議と似合っているから驚く。

「また困った顔してたわよ。迷子になっちゃった?」
「う……なぜわかったのですか?」
「誰かに声をかけようとキョロキョロしてたから、かしら」

ふふ、と笑うリンゴさん。初めて日本へ来た時もお世話になったけど、もしかして迷子になるたびリンゴさんに発見されるのだろうか。容易に浮かんでしまった脳内像を消し、恥ずかしさを笑って誤魔化す。
それにしても、最近はサングラスをかけている人が多い気がする。もしかすると、私が知らないだけで流行っているのかもしれない。

「それにしても驚いたわ。まさか、短期間でこんなに日本語が上手になってるなんてビックリ!」
「これは、アイちゃんのスパルタのおかげです」
「アイちゃんって……マスターコースの美風藍ちゃん?」
「そのアイちゃんです。いっしゅうかんに一回は、ニホンゴこうざがあります」

最近は徐々に回数も少なくなりつつある、アイちゃんの日本語講座。少し寂しい気持ちはあるものの、それ以上に上達しているという事実が嬉しかった。回数を重ねずとも十分だと、アイちゃんに思ってもらえるということだから。

「へぇ、あの藍ちゃんがナマエちゃんにね」
「なぜ皆同じはんのうをするのでしょう。アイちゃんが私におしえることは、そんなにおかしいですか?」
「おかしくはないけど、意外なのよ。あの藍ちゃんがお願いされて素直に教えることが」
「スパルタだけど、やさしいですよ」
「そうね。あの子は思ったことをすぐ口に出しちゃうだけで、ナマエちゃんの言うように優しい部分もあるのよね。そっか、アイちゃんが優しいかぁ」

そう言うと、リンゴさんはゆっくりと口元に弧を描かせ、小さく微笑んだ。

アイちゃんは優しい。それは、私が何度となく繰り返し言ってきた言葉だ。今までこの話をした人は、説明しても信じられないという気持ちの方が大きかったのか訊き返してきたりしたのに。
彼女は、違う。
アイちゃんの優しい部分を知っていて、そのうえで彼の変化を喜んでいるように見えた。慈愛、と呼ぶのだろうか。リンゴさんの微笑みはとても柔らかくて、まるで親が子供を可愛がるような優しい表情に思える。

「コラ、急に走り出したかと思ったら何ナンパしてんだ」
「そんなんじゃないわよーだ」

突然リンゴさんの背後から現れた男性が、彼女の頭を軽く叩く。女性の頭を叩くなんて、と思う前に、その身長に驚かされた。今まで会った人の中で高い。ナツキも背が高いと思っていたが、ここまで見上げた男性はこの人が初めて。思わず凝視していると、私に視線を移したその人と目が合ってしまった。

「龍也、この子がナマエちゃんよ。ほら、セシルちゃんを追ってきた情熱的な女の子!」
「脚色すんな。愛島の従者だろ?」
「言い方一つでロマンチックにもなるのに、つまんないの」
「そんな顔しても可愛くねぇよ」

頬をぷくっと膨らませているリンゴさんは、同性の私から見ても可愛らしい。それなのに、リュウヤと呼ばれた彼には通用しないようで、彼女はますますつまらないとばかりにそっぽを向いてしまった。彼は慣れた様子でそんな彼女を見やり、やれやれと首を振って私に向き直った。

「俺は日向龍也。シャイニング事務所に所属しているアイドルだ。取締役や、早乙女学園の教師も兼ねている。よろしくな」
「よろしくおねがいします。もしかして、あなたがあのヒュウガ先生ですか?」
「あの?」
「ショウが言っていました。あなたは男の中の男だと」

ショウの言葉をそのまま伝えれば、ヒュウガさんは照れ臭そうに頬を掻く。そんな仕草は少し可愛いと思えるが、真正面から見た彼は、なるほど凛々しい顔つきをしている。ショウが男らしい人として挙げた人だけあって、体格はよく顔も整っているし、低い声は耳に心地よい。
あまり見ては失礼かと思い、ヒュウガさんの隣でまだツンとしているリンゴさんへ視線を移す。すると、目が合った彼女に「そういえば、どこへ行こうとして迷子になってたの?」と尋ねられた。事情を察したらしいヒュウガさんの視線が気恥ずかしく、何もない地面を見つめながら事情を説明する。

「サオトメさんから、皆がきゅうかをもらうことを聞きました。それで、今日はそのじゅんびをするためかいものに来ました」
「あ、なるほど。それなら三つ向こうの通りがいいわ」
「そうなのですか?」
「あぁ、こっちはテレビ局へ行く道でな。カフェやレストランなら色々あるが、買い物には向かねぇぞ」

ヒュウガさんの視線の先にはテレビ局が建っていた。道理で探しても見つからないはずだ。ここで二人に会えなかったら本当に辿り着けなかったかもしれない。

「ありがとうございます。それでは、失礼いたします」
「あ、待って待って!」

よかったら、私達と一緒にランチしない?と言うが早いか、腕を掴まれて近くに会ったレストランに引きずり込まれてしまった。思ったより強引なリンゴさんに戸惑いながら苦笑するヒュウガさんを見ると、顔に「いつものことだから諦めろ」と書かれていた。新しい事実だが、どうやら彼女はこういう性格のようだ。

連れてこられた落ち着いた雰囲気のレストランの個室へ入り、二人と向かい合って座る。ただ買い物に来ただけだったのに、どうしてこうなったのかいまいち理解が追いつけていない。頬杖をついて楽しそうにこちらを見つめるリンゴさんと、携帯を見ているヒュウガさんを見比べて、気付かれないように小さく息を吐いた。

「で、皆の調子はどう?」
「ええと、すごくがんばっています。初めはオウジも色々言っていましたが、今はすすんでべんきょうしているところを見かけるようになりました。きっと、アイドルにひかれているのだと思います」

ハルカちゃんの傍にいるために日本へ残ることにした王子。それが、今はどうだろう。カミュちゃんからアイドルのいろはを教わり、テレビ出演もして、現場を知って。そして、ナツキの撮影を見に行きたいと言われた時、確信した。

王子は、ハルカちゃんや彼女の曲だけでなく、純粋にアイドルという仕事に惹かれているのだと。

カミュちゃんから出された課題もこなし、最近は朝訪ねてもスケジュールに合わせてすでに起床していることが増えた。寮へ入ったばかりの王子に話しても、恐らくありえないと一蹴されてしまうほどの変わり様。
王子にとって、その変化がいいものか悪いものか、私個人では判断がつかない。ただ、王子が苦悩されるなら一緒に悩みたいし、頑張りたいと望まれるなら応援したい。もし逃げ出したいと頼まれれば、その手筈を整える。王子の望むように、叶えるために行動する。それだけだ。

「うんうん。ナマエちゃんも日本語頑張ってるみたいだし、皆偉いわね!」
「皆は本当にすごいです。でも、私はとうぜんのことをしているだけ。じゅうしゃとして、オウジの役に立つためならどんなことでもマスターしてみせます」
「いやーん! 一途で可愛い!」

突然立ち上がったリンゴさんにハグをされる。王子やナツキから時々されるのでハグに抵抗はないし慣れているけれど、まさかリンゴさんにされるとは思わなかった。彼女が動いたことよって生まれた風に乗って、ふんわり甘い香りが鼻孔をくすぐる。きつすぎない香水は嗅ぐには心地よい甘さで、自然と目が細まった。

「林檎、離れろ。名字が驚いてるぞ」
「だって可愛いんだもの。龍也ったら女の子同士仲良くしてて寂しいのはわかるけど、邪魔しないでよ」
「だーれが女の子同士だ。ったく、時々思うんだが、お前自分の性別忘れてないだろうな?」
「失礼しちゃうわ。アタシはれっきとした男よ、男」

性別なんて訊く必要もなく、リンゴさんは見た目から女性そのものだ。ヒュウガさんの質問は女性に対してとても失礼なものだと思う。そもそも、こんなに可愛らしい女性を見て男性と思うなんて――

「お、とことは、男性…?」
「ウフフ。アタシも改めて自己紹介するわ。月宮林檎、シャイニング事務所の女装アイドルなの! 女の格好をしているだけで、中身はお・と・こ! あとは、龍也と一緒で先生もやってるんだけどね」
「じょ、そう…?」

一見して女性にしか見えないリンゴさんが、彼女ではなく彼。ありえない。一瞬、二人で私をからかっているのではないだろうと思った。でも、そんな様子は微塵も感じられず。このありえない発言が事実であるということを、受け入れるしかないのだとを悟る。

「で、では、ヒュウガさんは女性なのですか?」

私の質問に、コーヒーを飲んでいたヒュウガさんが思い切り噎せた。その隣でリンゴさんはキョトンと目を丸めている。ありえないことがあったから、まさかヒュウガさんもそうなのではないかと思って訊いたのだが、当の本人に真っ青な顔のまま否定される。そうか、ヒュウガさんは見た目通り男性でいいのか。よくわからない安堵感が胸に広がり、無性にほっとしてしまう。

「俺は男だ…!」
「そうよねぇ、龍也が女は無理があるもの。だってそのガタイでワンピースなんて着たら……アハハ!」
「おい、想像すんじゃねーよ。鳥肌立ったぜ…」

お腹を抱えて笑うリンゴさんに、ヒュウガさんは眉間に皺を作り頭を抱えている。彼には悪いことをしてしまったけど、事実を確かめられてよかった。

そんな波乱はあったものの、二人とのランチはとても楽しいものだった。リンゴさんもヒュウガさんもアイドルだけあって話術が上手い。リンゴさんがふざければ、ヒュウガさんが口を挟んで。そうやって食べ終わるまで、会話が途切れることがなかった。
余談だけど、リンゴさんに薦められたデザートが大変絶品で。絶賛していると、ヒュウガさんが自分の分を譲ってくれた。私は精一杯遠慮したのだが「お前があんまり美味そうに食うから、俺が名字に食ってほしいと思っちまったんだよ」と言われ、結局いただいてしまった。どうやらヒュウガさんは面倒見がいいタイプらしい。さすがショウの尊敬する男の中の男の人。帰ったらショウに報告しようと思う、彼は実に優しく男らしい人だったと。

「それじゃ、ナマエちゃん。今度は二人でガールズトークしましょうね!」
「女は名字だけだろ…」
「もう、余計なこと言わないでよ!」

ショッピングモールへの道順を丁寧に説明してくれた二人は、これからまだ仕事があるらしく、テレビ局へ戻っていく。二人並んで歩く後ろ姿は、どう見ても恋人同士。時折ふざけたリンゴさんがヒュウガさんの腕に抱きつきじゃれついていて、それも恋人に見える理由の一端だろう。

「オウジ、アイちゃん。私はまだまだべんきょうぶそくだったようです」

完全に女性だと思い込んでいた人が、まさか男性だったなんて。それも、あんなに女らしくて可愛らしいとは。そこまで考えてハッと思い出したのは、あのぶつかった少年だった。もしかしたら、あの少年も本当は少女なのかもしれない。これで本当に少女だったら、私は自分の目が信じられなくなってしまう気がする。

そんなよくわからないショックを受けたまま、私は当初の目的通り買い物へ向かうのだった。


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