初夏の日差し、それは四季と隣り合って過ごす日本人からすれば暑くなる兆しとして嫌がられることもあるかもしれない。だが、アグナパレスの暑さは日本の比ではない。砂漠の国の気温に肌が馴染んでいるからか、今日の天気は私にとって過ごしやすいものだった。そのせいか、今日はやけに掃除が捗り、時間にかなりの余裕が出来た。

たまにはゆっくりするようにと王子にも言われているし、掃除も一段落ついたわけで。どうしようかと思った矢先、テーブルの上に置いてあった本に目が留まる。勉強用にアイちゃんが貸してくれた本だ。
せっかくの陽気だし、いつもは部屋で勉強するところを外にあるベンチに座って読むことにした。風に乗って時々鳥のさえずりが聞こえてくる中、日本語の列に目を通す。簡単な単語は覚えられてきたけど、スラスラ読むにはまだ程遠い。

「あれ、こんなところで読書とは珍しいね。休憩中かい?」
「レン。この本はアイちゃんがべんきょうにかしてくれた。そうじが終わったから読んでいる」
「へぇ。こっちは?」
「これはアイちゃんが作ったアグナパレスじてん。わからない時は、それを使う」
「あのアイミーがねぇ…」

隣に置いてあった簡単な作りの辞典をとり、興味深そうにパラパラ捲るレン。“あの”ということは、彼にとっても意外だったのだろうか。

文字の形から覚えなくてはならないライティングは、本当に辛かった。日本語にはひらがな、カタカナ、漢字があるけど、どれも数が多く、特に漢字なんて形も複雑で同じ読み方をするものがたくさんある。それも、アグナパレス語とは姿形が似ても似つかない。予備知識があるとはいえ、口頭で言われてすぐに覚えられるはずもなくて。涙目で必死に手と頭を動かす私を見かねたアイちゃんがくれたのが、このアグナパレス辞典。アイちゃんお手製で、私の苦手そうな単語や漢字を中心に構成されているらしい。日本にアグナの辞典等がないとはいえ、まさか辞典を作ってもらえるとは思わずとても驚いた。
あの時のことを思い出して目元が緩む。「いちいち人に聞かずに、少しは自分の力で調べたら?」と辛辣な言葉と共に渡されたが彼の言葉は尤もだし、それ以上に忙しい時間の中で作ってもらえたことが嬉しかった。アイちゃんお手製なので従来の辞典に比べれば厚みはない。まとめられている単語の数も多くない。でも、私が調べたいと思った言葉が的確に書かれていて不便に思うことは少ない。

やっぱり、アイちゃんは優しい人だと思う。毒舌だの辛辣だのとショウやレイちゃんは言っているけど、彼もまた素直に、ストレートに自分の心情を述べているだけ。
そんなことを考えながら文字の羅列を追っていると、すぐ耳元で名前を呼ばれて本を落としかけてしまった。

「レン、おどろかせないで」
「いつも思うんだけど、ガールはどれだけ俺が近付いても動揺しないんだね?」
「どう…?」
「照れたりしないんだなぁと思って」
「オウジも同じだから。オウジはもともときょりが近い。なれはすごい」

どうやら人――主に女性――との距離感が近いらしく、レンは気付けば距離を詰めていることが多い。だが、王子のこともあってスキンシップ慣れしている私からすれば問題ない範囲。むしろ、それを目撃したマサトが毎回いつかのように赤くなって憤慨していて、私からすればマサトの反応に驚かされることの方が多かったりする。

「それはそれは。レディに好きだと迫っているのに、ガールにも手を出すなんていけない王子様だね?」
「レン…!」
「おっと、気に触ったならいくらでも謝るよ。ガールの大切な王子様を侮辱したつもりはなかったんだ。ごめん」
「オウジへのぶじょくはゆるさない。次はねぇぞ」
「ガ、ガール? その口調はもしかして…」
「前にランマルちゃんが使っていたのおぼえた。つよそう。かっこいい」

あれは、レイちゃんがランマルちゃんと話していたのを見かけた時だった。何をしたのかはわからないけど、レイちゃんがすごく焦っていて、ランマルちゃんがすごく怒っていて。止めに入ろうかとも思ったけど、とにかくランマルちゃんが怒鳴っていて無理だった。しばらくすると怒りも鎮静化したらしく、ランマルちゃんが「次はねぇぞ。わかったな!」と吐き捨てて部屋へ戻っていったのだ。
その話をすると、最初は顔を引き攣らせたレンが何か言いたそうに私を見ていたけど、そのうち諦めたように小さく笑った。

「ガールが元気になったみたいで安心したよ」
「私はいつも元気です」
「体調のことじゃないってわかってるのに、そうやって誤魔化されると寂しいな。これでも、真面目に心配してるつもりなんだ」

本を読もうとするのに、一向に文字が頭に入ってこない。きっと、レンには私が本を読めていないことも気付かれているのだろう。
思い出すのは、先日の湖でのやりとり。表に出したつもりは一切なかったのに、レンに見抜かれてしまった気持ち。彼なりに私のことを気にかけてくれているとわかっている。でも、気付いてほしくなかったという気持ちの方がどうしても強くて。感謝を伝えるだけで、彼に本音を吐き出すことはできなかった。

「この前も言ったけど、ガールはもう少しワガママになってもいいと思うよ。レディにジェラシーを感じてもいいと思うし、寂しいなら寂しいって言ってもいい。セッシーも男だ、それくらい受け止められると思うよ?」
「ハルカちゃんに…?」
「セッシーのことを大切なら、あれだけ愛を囁かれてるレディに対してジェラシーを感じることはないのかい?」
「ジェラシー……私が?」

レンが心配していた理由はあのことだけではなかったのか。思わぬ問いかけに、一瞬にして頭の中が真っ白になった。ボイストレーニングに行く時間だからと背を向けたレンを見送り、読んでいた本に栞を挟んで閉じる。真っ白な頭に浮かんだのは、真っ直ぐ私を見据える感情の読めないペールアクアの瞳。






迎え入れてくれたアイちゃんは、怪訝そうに私を見つめた。それもそのはず、私がこの部屋に来たのはほんの数十分前のことだ。借りていた本を読んでしまっていたから別の本を借りに来て外へ出た。それがこんなに早く戻ってきたから、この反応も仕方ないだろう。

「アイちゃんにききたいことがあります」
「あのさ、区別できるようになったんだから、いい加減ちゃん付けやめてって言ってるでしょ」
「すみません。くせになったようです。レイちゃんもランマルちゃんもカミュちゃんも」
「もういい。それで、突然何。日向ぼっこしながら読書してたんじゃないの? 理解できない言葉でもあった?」

ソファーへ腰かけたアイちゃんが少し面倒臭そうに私を見やった。私がアイちゃんを訪ねる理由は決まっている。日本語を教えてもらう時、借りていた本を返しに来る時。そして、どうしてもわからないことがあった時。
このわからないことには、実は日本語以外のことも含まれている。アイちゃんは決して誰かを贔屓したり、偏った目線で意見を述べることがない。客観的に考察したうえで、私の望む答えを教えてくれる。普段から日本語を教わって尋ねる機会が多いためか、他の人には訊き難いことでもアイちゃんには話すことができた。

「私は、ハルカちゃんにジェラシーを感じないとおかしいのですか…? はじめて言われたから……自分ではよくわかりません」
「どうして? 君がセシルに従者としての愛情を抱いてるだけってことでしょ。別におかしくないよ」
「レンが大切ならすると言っていました」

私の一番で、私の唯一。王子は本当に大切な存在だ。

例えば、もし王子に他の従者がついたとしたら、私はとても悔しくて寂しい気持ちになるだろう。従者として王子にお仕えすることは私の最大の喜びであり、誇れる唯一のものだ。それだけじゃない。私が従者でいられなくなれば、王子の傍で、王子のために動くことも叶わない。恩を返すことも出来なくなる。新しい従者のことを相手の何を知っているわけでなくとも、恐らく憎んでしまうだろう。私の居場所を――存在意義を奪った奴、と。

なら、ハルカちゃんの場合はどうだろうか。
ハルカちゃんは王子の大切な想い人で、決して私のように従者でありたいと願っていない。王子だってハルカちゃんに従者になってほしいと望んでいない。ミューズに愛され、名前の通り暖かい春を思わせるような雰囲気を持つ心優しき女性。彼女がアグナパレスの姫になってくれれば、王子の隣にいてくれれば、きっと王子は誰よりも幸福を感じられるはず。

それをどうして、私が嫉妬してハルカちゃんを妬まなくてはいけないのだろう。

「一般論としてはそうだろうけど、大切の意味にもよると思う。この場合、レンの言う嫉妬は女としての嫉妬になるだろうね。君はセシルにどんな気持ちを向けてるの?」
「かけがえのない人です。いっしょうをかけてお仕えすると決めた、大切な人」
「また判断し難い表現だね。恋をしているか訊いてるんだけど」
「うそはない。私はれんあいはしないと決めているのです」

私は従者である。結婚をすれば従者をやめなければならないかもしれない。それなら、私は恋なんてしたくない。他の人のために時間を割かなければならないなら、私は恋人なんていらない。王子の傍にいられなくなってしまうなら、伴侶なんて必要ない。

思っていることをそのまま告げると、アイちゃんは綺麗な顔を少し歪ませて溜め息を吐く。この気持ちを恋と呼ぶには、生々しくてドロドロしていて重すぎる。きっと彼も、私と同じように感じたのだろう。

「まぁ、感情なんてそういう不明瞭なものを理解することは簡単じゃない。ナマエみたいに本人にもわからない部分があるものだし、ボクに訊かれてもわからないこともある。精々、考えすぎてオーバーヒートしないようにね。君、同時にたくさんのことを考えるの苦手みたいだから」

アイちゃんにもわからないことがある。その言葉に少しだけほっとしている自分がいる。私の中のアイちゃんは、とにかく何に関しても完璧な人だった。容姿端麗、色んな知識に聡くて頭脳明晰。欠点らしい欠点を挙げるなら、人を挑発するように毒を吐いてしまう点くらいだと思う。
痛いところを刺すように指摘されるけど、私が何も言わなければ自ら進んで奥へ奥へと深く入り込んでくることは少ない。私にというよりは他人にあまり興味がないのか、探ろうとしない。もしかしたら、そういう理由でアイちゃんには話してしまうのかもしれない。

「――さいきん、少し思うことがあるのです」
「まだ何かあるの?」
「はい。テレビにうつっているオウジを見てやもやしました。となりにオウジはいるのに、オウジがいないような気がしたのです」

幼い頃から、王子の傍には私がいて私の傍には王子がいた。王子自身もお望んでくれた。だから、この関係は変わらないと信じていた。でも、それはアグナパレスにいた頃の話だ。
今は徐々に変わりつつある。以前と違って、別行動をとっている時間の方が格段に長い。王子に関することで知らないことも増えた。アイドルの勉強の邪魔をすることはできないし、カミュちゃんからも言われていて、こればかりは仕方ないことだと理解もしている。

それなのに、テレビの向こうで王子が言葉を発するたび、動くたび、胸がきゅっと締め付けられるようだった。手を伸ばせばすぐ触れる距離に、王子はいるというのに。

「なるほど。身近にいた人間が遠く感じられるってやつだね。ナマエが彼に対してどんな感情を抱いているにしても、今まで従者として傍にいた。そのはずなのに、自分の知らない場所にいる彼の、知らない一面を見て戸惑ってるんじゃない? 寂しくて、彼に離れてほしくないんでしょ?」
「そ、んな…! それは私のワガママです!」
「そうだね、これは君のワガママ。人間としては当然の欲求なのかもしれないけど」

その事実を責めるでもなく、ただ肯定するだけのアイちゃんの瞳に怯み、唇を噛み締める。
指摘されたことによって、前よりも胸が苦しくなった気がする。王子に対する罪悪感、自分に対する嫌悪感。これから王子の傍にいる時は、いつもこの気持ちに苛まれなければならないのだろうか。

「アイちゃん、かいけつはできないのですか?」
「……君次第かな」
「私?」
「手段としては色々考えられる。でも、どれも緩和はできるとしても必ず解決できるとは限らない。それと、ボクが今考えている方法は、君にとってはデメリットにもなり得る。リスクを背負ってでも挑戦してみたい?」
「私は――オウジに対して、こんなきもちをもっていたくありません」

王子の前では、いつでも胸を張れる従者でいたい。従者として誇ってもらえる私でありたい。それが、王子の従者として仕えている私の願いだ。

「わかった。色々準備があるから、数日待ってくれる?」
「おねがいします」
「それから、この件について一度承諾したからには途中放棄はできないよ。いいね?」
「は、はい」

この時、自分のことで他に気が回らなかった私は、アイちゃんが珍しく微笑んでいたことに気付かなかった。

もしも気付くことが出来ていたらと思う自分と、気付かなくてよかったと思う自分。相反する気持ちを持ってしまった私が後々葛藤するようになるなんて、この時の私は当然ながらまだ知らない。


「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -