曇り一つないガラスに満足し、次の窓を拭こうとバケツを持つ。長い廊下の窓ガラスを拭くのもそろそろ慣れたもので、短時間でこの廊下一帯のガラスをピカピカにするなど造作もなくなっていた。
綺麗になったガラスがキュッと鳴り、その気持ちいい音に口元が綻ぶ。大きな箱を抱えたオトヤに声をかけられたのは、そんな時だった。

「名字! これよかったら来て!」
「えっと、バザー?」
「うん!」

『バザー アーンド おばけやしき』と書かれた紙。ポスターやスーパーなどで見るものと違って、絵は何が描かれているかいまいちわからず、文字はお世辞にも綺麗とは言いづらい。もしかして子供が描いたものだろうか、それなら納得できる。

しかし、何故オトヤがバザーの勧誘などしているのか。もしもアイドルがこういった仕事もするのだとしたら、カミュさんは怒るかもしれないが、私が代わりを努めるので王子にはしてほしくない仕事だと思う。
話が逸れてしまったが、今はこの紙のことだ。そもそも私には、どうしてもわからないことがあった。

「オトヤ、バザーとは何?」
「え? うーん……不要になったものを安く売ったりすることかな。今回はお化け屋敷もやるんだ!」
「バザー? おばけやしき? それはたのしいのですか?」
「楽しいよ! っていうか俺達が楽しくするから!」

やることがあるからまたね、と早々に去っていくオトヤ。その様子に忙しないと思いつつも、彼がいかに楽しみにしている気持ちが伝わってきた。それほどバザーが楽しいものなら、せっかく誘ってもらったのだし行ってみるのもいいかもしれない。オウジやハルカちゃん、ナツキ達にも訊いてみようと貰った紙をポケットへ仕舞った。

それからしばらくして、窓拭き掃除を終えて廊下を歩いていると、空き部屋でオトヤとトキヤを除くメンバー全員が真剣な表情で話をしているのを見つけた。邪魔をしないように顔だけ覗かせて様子を伺ってみたものの、呆気なくナツキに発見されてしまった。

「あ、ナマエちゃん。お掃除終わったんですか?」
「はい。みんな、あつまってどうかしたのですか?」
「名字は音也からチラシ貰ったか?」
「チラシ……さっき紙をもらった。バザーはたのしいから来てほしいと言われたけど、一人ではばしょがわからない」

オトヤがあれだけ楽しいと言っていたのに、この場に集まっている皆はあまり明るい表情はしていない。何か問題でも起きたのだろうか。そう思い王子へ視線を向けると、予想以上に真剣な表情を浮かべられた。

「ナマエは……行かない方がいいかもしれません」
「オウジ?」
「セシル君、どうしてですか?」

徐に立ち上がった王子に手を引かれ、部屋を後にする。どこへ行くのかと思えば、部屋からそう離れていない廊下の隅で立ち止まった。今の王子は少し様子がおかしい。朝はそんなことなかったのに、と思い返すも心当たりはない。

『バザーが行われるのは、児童養護施設です。ナマエにとって、あまりいい思い出のある場所ではありませんよね』

突然王子の口から出たアグナパレス語、それよりも驚いたのは話の内容だった。児童養護施設といえば、引き取り手のいない子供が預けられる場所のはず。私の育った場所と、同じ意味合いを持つ場所だ。
そんな場所で行われるバザーの勧誘を、何故オトヤがするのか。仲のいい友人がいるとか、家が近くて子供と仲がいいとか。本来なら理由は色々想像できるだろうに、今の私には一つの答えしか見つけることが出来なかった。あの明るいオトヤが、あんなに笑っているオトヤが、まさか。

『児童養護施設ということは、オトヤは……私と同じということでしょうか?』
『詳しい話は聞いていませんが、母を早くに亡くしてそこで育ったと聞きました。さっき皆で集まっていたのはその話をしていたからです』
『そう、ですか』
『子供もたくさんいるでしょう。だから、ナマエは行かない方がいいと思います。きっと昔のことを思い出してしまう。ナマエには聞かせたくない話だったのですが…』

王子が私を気遣ってくれていることはわかっている。だからこそ、言葉が出てこなかった。王子の言う通り、王子と出会う前のことはあまり思い出したくない。
心配そうに背を支えてくれる王子に甘えているとわかっていながら、なかなか力の入らない足を震わせることしかできなくて。謝ると、むっとした表情で余計なことを気にするなと叱られてしまった。今ばかりはその優しさがあたたかすぎて、縋りたくなる手を強く握り締める。

「何かあったのか?」
「ガール、大丈夫かい? あまり顔色が良くないみたいだけど…」
「ナマエちゃん、大丈夫ですか?」
「はい、だいじょうぶです。どうやら、そうじでつかれてしまったみたいです」

全員が眉を下げて私の様子を窺っているところをみると、レンの言う通り私の顔色は優れていないのだろう。気遣わしげに優しく背中を撫でられたところで、私はようやくいつも通りの笑顔を浮かべることができた。


私の初めの記憶は、小さな孤児院からの出来事だった。親を失ったもの同士、初めのうちは子供ながらに仲良くしていたと思う。そっけない態度をとられるようになったのは、成長するにつれ、自分の肌の色が人と違うということに気付いた頃。髪色もアグナでは珍しい金に近い茶色だったし、元々生まれながらに色素が薄かったのだろう。
中には今まで通り接してくれる子もいたけど、そうでない人の方が多く、人からの視線を気にするように肌を隠して生活していた。自分と異なる人間は怖い、そう感じても仕方がないのだと自分に言い聞かせて。

アグナパレスでは、小さなオアシスが人々の生活を支えている。そこへ、私はほぼ毎日足を向けていた。水に入る行為は苦手だけど、太陽の光を浴びて輝く水を見るのは好きだった。私にとって、唯一の癒しと言ってもいい。
今日も今日とて建物の隙間を縫い歩き、入り組んだ路地を抜け、私と同じ身長くらいの段差を上から下へ飛び降りる。すると、そこには人が立っていた。慌てて声をかけたけど、結局私はその相手に覆い被さるようにして衝突してしまった。

『綺麗ですね。白い肌に、色素の薄い髪がよく似合っていて。一瞬、ミューズが降りてきたのかと思いました』

叱られると身構えていたのに、聞こえてきたのは透明感のある綺麗な声で。私の方が、天使に出会ったのかと思った。私より幼いだろう少年は、きっとまだ恐怖を抱いたことがないのだろう。それでも、そんな風に私の容姿を褒めてくれたのはこの少年が初めてだった。嬉しかった。上辺だけでなく、心からそう思っていてくれるのだと、少年の優しい微笑みから伝わってきたから。

そうして今の私が在る。
あぁそうだ、今の私はあの頃のままの私ではない。


「オウジ、やっぱりバザーには私も行きたいです。じゅうしゃのつとめを果たしたいですし、オトヤもさそってくれました。だいじょうぶ、あのころの私ではありません。私もいっしょに行きます」
「わかりました。ナマエが望むなら、ワタシが止める理由はない。でも、無理だと思ったらすぐに言ってください」
「ありがとうございます。せっかく私のためを思ってのことだったのに、すみません」
「ナマエは、きっとそう言うと思っていましたから」

苦笑する王子は、きっとまだ心配してくれているのだろう。確かに昔のことに関しては、思い出したくないことの方が多いかもしれない。昔の嫌な思い出は消えないし、なかったことにはできない。

しかし、昔と比べて変わった部分はいくつもある。
一人ぼっちの夢を見ることはなくなった。人の視線を気にすることが少なくなった。他人を信じられるようになった。たくさん笑えるようになった。
私は、もう昔のことから逃げる必要はないのだ。だって、一人ぼっちなんかじゃない。笑ってくれる人がいる。必要としてくれる人がいる。認めてくれる人がいるじゃないか。心から信頼できる人を得ることが出来たのだから、私は頑張れるはずだ。






バザーの会場であるそこは、以前私がいた場所とは色々な意味でまったく異なっていて。明るくて雰囲気はいいし、綺麗な建物だった。それでも、建物の中から元気な子供の声が複数聞こえてくれば足が止まり。尻込みする私に気付いた王子にぽんっと背中を押され、ようやく敷地内へ一歩足を踏み入れることが出来た。

「あ、音也兄ちゃん! 姉ちゃんと昨日の兄ちゃんもいる!」
「春ちゃんだー!」
「おお、外人の姉ちゃんもいるぞ!」
「外人さんだ! すごいすごい! お人形さんみたい!」

わらわらと駆け寄ってくる子供達の人数は思っていたより多く、どうしても引け腰になってしまう。子供を見れば、否が応でも昔のことを連想させられてしまうから。いくら変われたといっても、子供に対する苦手意識まで完全に改善されたかと言えば、残念ながらそんなことはなかったらしい。
もちろん子供達が悪いことをしているわけではないので、何とか克服したいとは思っているわけだが、なかなか難しそうだ。

「オ、オウジ、昨日も来ていたのですか?」
「Yes。手伝いと、念のために下調べをしにきました。ナマエのいた場所とは似ても似つかなくて安心しました」

えへん、と冗談混じりに胸を張って見せる王子。それを見て少しだけ気分が落ち着いた気がする。そうだった、私は決して一人じゃない。主にフォローしてもらう従者なんて情けない話だが、この方にお仕えできて私は本当に幸せ者なのだと何度目かもわからない再確認をする。

「ありがとうございます、オウジ」
「これくらいは当然です。ナマエの悲しむ顔は見たくありませんから」
「オウジ…」
「なぁなぁ、外人の姉ちゃん! 向こうで一緒に品物並べようぜ!」
「え、あ……私は…」
「それならワタシもいきます。皆でバザーを成功させましょう!」

不意に子供達に手を引かれて戸惑っていれば、王子が反対側の手を引いてくれた。子供達がグイグイと強引に引っ張るのに対し、こっちへおいでと誘導するような優しい手つき。いつだってそう、幼い頃から私を救いあげてくれるのは、この手だった。昔と違って随分大きくて男らしい手にはなったけど、あたたかさは変わらないまま、蕩けそうなほど心地よい。

「ねぇ、名前なんていうの?」
「ナマエです。あ、オウジ! オウジがそんなことしなくても、私がやります!」
「お兄ちゃん、王子様なの?」
「アグナパレスという国のプリンスです」
「じゃあ、本物の王子様なの!? すっごーい!」

王子、王子、と子供達に懐かれている王子。すでに王子という呼称があだ名のようになっている気がするけど、王子は嬉しそうにしているし、流石に子供相手に「無礼な!」なんて気持ちは湧いてこなかった。

途中で何度か挫けそうになりながらも、王子のフォローもあって子供達と一緒の準備は無事に終了。あとはお客さんが来るのを待つだけなのだが、そのお客さんが一向に現れなかった。人影も見えない。流石におかしいと様子を見に行ったハルカちゃんが血相を変えて戻ってきたことで、その理由が判明した。駅の反対側で、大きなフリーマーケットが行われているらしい。

子供達はさっきまでの楽しそうな様子が嘘のように意気消沈してしまい、大きな溜め息を吐く。苦手とはいえ、笑顔が消えてしまった子供達を見るのは心苦しい。何とかならないものかと思案を巡らせていると、出し抜けに場の雰囲気にそぐわないオトヤの一層明るい歌声が響いた。

初めて聴くST☆RISH――オトヤの歌は、まるで自分の元気を他人に与えているようだと思った。
「元気を出して! 絶対大丈夫!」
そんなオトヤの気持ちが直接伝わってくる、笑顔を生み出していく歌。子供達も自然と笑顔になり、雰囲気も一転して明るくなった。例えるなら、太陽。オトヤは歌うことで、陽だまりを作り出しているのかもしれない。

「これがオトヤの歌…」
「ナマエは、彼等――オトヤの歌を聴くのは初めてでしたよね?」
「は、い。とてもおどろきました。オトヤのうたはすごい。人々をえがおにする、どんな場所でも陽だまりを作る力を持っていると思います。それから、ハルカちゃんもすごいです。こんな曲をつくれるなんて…」

思ったままを伝えると、王子は同意しながらもいつかのように複雑そうな表情を浮かべた。王子は音楽を愛している。そんな王子が誰かの歌を聴き、こんな表情を浮かべるなんて今までなかったこと。
やっぱり、最近の王子はどこかおかしい。悩みも解決した様子はないし、このまま放っておいてもいいのだろうか。本人から相談されない限り口を挟みたくないのが本音ではあるが、元気のない王子を見たくないのも本音なのだ。

「セシルくーん! ナマエちゃーん!」

聞き知った声に名前を呼ばれて振り返れば、子供に群がられている色鮮やかなクマが並んで立っていた。正確には、クマの着ぐるみを着ているトキヤ、マサト、ショウ、ナツキ、レンなのだが。バザーの手伝いのつもりなのか、黄色い着ぐるみに身を包んだナツキが、こちらに向かって大きく手を振っている。私達の名前を呼んだのも、どうやら彼らしい。

「ナツキ、かわいい! かわいい! ショウも小さくてかわいい! みんなかわいい!」
「わあ、ありがとうございますー!」
「名字は一言余計だ! 絶対お前の身長越えてやるから覚悟しとけよ!」

ナツキとショウに交互に抱き着く。その場にいる全員が愛くるしくて可愛らしいのだが、やっぱり大きさからいえばショウが一番可愛いと思った。可愛くて可愛くて仕方がない。ショウがずっとこの着ぐるみを着ていてくれたら、私はとても仲良くできそうだと思う。尤も、彼が真っ赤になって断固拒否するだろう。心底残念だ。

「ナマエ姉ちゃん、あっちで一緒にもっとたくさんお客さん呼ぼうぜ!」
「行こう行こう!」
「あ、私と……ですか?」
「お前達、名字を困らせちゃダメだろ」
「困らせてないって。一緒にお客さん呼ぼうと思ってさ! 姉ちゃんいたら、男の人とか寄ってくるだろ?」
「こ、コラ! ごめんね、名字!」

オトヤに叱られて逃げるように散っていく子供達は、すっかり笑顔を取り戻している。もう、と彼等を叱るオトヤも楽しそうに見えるし、彼の歌が引き寄せたのかいつの間にかたくさんのお客さんが楽しそうに品物を見ていて。なんだか、見ているこちらまでつられて笑顔になってしまいそうだ。

「名字、大丈夫? セシルから子供が苦手って聞いたけど」
「だいじょうぶ。……ここはすてきなばしょですね、オトヤ」
「そうかな? そう言ってもらえると嬉しいよ」
「私のいたしせつとは、ぜんぜんちがう。みんなとちがう私のことも受け入れてくれている。オトヤが少しだけうらやましい」
「え、もしかして名字も…?」

ゆっくり頷いて肯定すれば、オトヤは申し訳なさそうに眉を下げる。そんなに深刻な顔をしなくてもいいのに、と苦笑すれば、彼も小さく笑顔を作った。きっと、今の私と同じように思ったことがあったのだろう。
あの場所にいたからこそ、私には今大切にしたいと思う存在が出来た。オトヤも同じで、ここにいたからこんな風に大切にする存在が出来たはず。

「オトヤのうた、とてもすてきだった」
「あ、ありがと!」
「私をすくってくれたうたごえのように、げんきをくれた。あの時のことを思い出しました、ありがとう」
「名字を救った歌?」
「あなたは少しだけにている気がする。オウジと」

アグナパレスでは一日中音楽が流れているため、色んな曲を聴く機会がある。それなのに、まだ幼い少年の神秘的で、透明感のある歌声を聴いただけで涙してしまったことは、目を瞑れば未だ鮮明に甦る。

深夜のオアシスで月を背にし、彼の瞳と同じ色の淡い光の粒が浮かぶ中、微笑みながら私を見つめて歌う姿。世界中に二人しかいないような静かな空間に響きわたる、優しくて、真綿で包み込んでくれるような甘い歌声。それはスッと胸の奥に入り込んできて、私の中にあった暗い気持ちを消し去ってくれた。
心の底から感情を露わにしたのは、いつ以来のことだったろうか。歌い終わった少年は、泣きじゃくる私を見て困ったように微笑みながら、笑ってほしいと頬を伝った涙を拭う。何とか浮かべた笑顔はきっと不器用に歪んでいたのに、嬉しそうに笑い返してくれた時の笑顔が瞼に焼き付いている。

あの頃の、一人ぼっちだった私を救ってくれたのは、他でもない少年――セシル王子だった。

「もちろん、オウジにはかなわないけど」
「ハハッ、本当にセシルのことが大好きなんだね」
「オトヤがここの人を大切にするように、私もオウジがとても大切なのです!」
「……うん。そっか、そうだね!」

笑顔でキッパリと言い切れば、オトヤは大きく頷いて笑った。この眩しい笑顔と歌に、この先元気をもらう人がどれほどいるのだろうか。恐らく、これからもっと増えていくのだろう。だって、彼の笑顔が曇るなんて想像できないから。そう告げると、オトヤは一瞬で赤くなってあたふたしていたけど、最終的にはありがとう!と今日一番の笑顔を見せてくれた。


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