私を看てくださっていた女の子はピスティさんというらしい。涙を流し続ける私の名前を何度も呼び、頭を撫でてくれる。傍にあったお水を飲めば、申し訳ないという気持ちになった。

「ごめんなさい、私…」
「大丈夫だよ。漂流してたうえにそんなに傷だらけなんだもん。きっとすごく怖いことがあったんでしょ?」
「傷? 怖い?」

ピスティさんの言っている意味がわからない。けれど、言われてみれば肩だとか足だとか、身体の色々な部位が痛む気がしてきた。そして鼻につく消毒液の匂い。あぁ、怪我をしているんだ。でも怖いって何だろう。私は何をやって、どうなって怪我をしたんだろう。怖かったんだろうか。

――あれ?

「……よくわかりません」
「……名前はなまえでいいんだよね?」
「なまえはなまえ、です」

自分で喋っていても違和感がない。そう、私の名前はなまえに間違いない。誰かに呼ばれていたような気がする。なまえ、と。なまえさん、と。高い声や低い声、色々な人にそうやって声を掛けられた気がするから。

「どうやら、なまえさんは記憶が混乱しているようですね」

突然の声に身体が震える。思ったより近くから聞こえた声は、どうやら私の斜め後ろからしたものらしい。ピスティさんに身体を支えてもらいながら起き上がる。

「それだけ何か怖い思いをしたのか、悲しい思いをしたのかはわかりませんが……どちらにせよ、安静にしていた方がいいでしょう」
「ジャーファルさん、彼女ビックリしてるよ」
「あぁ、急にすみません」

私を見つめる瞳、少しだけ口元を緩めた笑い方はピスティさんと同じようにあたたかい。銀髪が室内の灯りに照らされ、神秘的な光を発していて美しい。けれど、彼女より低い声、彼女より大きな身体。私達とは違う作りをしている。この人は、男の人だ。

「申し遅れました。私はジャーファルといいます」
「――っ!」

コワイ。これが“怖い”というものだっただろうか。ううん、違う。この人は怖くなんてない。優しい顔をしているし、私を敵視していないことが伝わってくる。この人は私をどうこうしようなんて考えていないこともわかる。それなのに、身体が勝手に動いて近付いてきたジャーファルさんから勢いよく距離を取った。身体が痛いことなんて頭の隅に追いやり、目の前の彼しか意識できなかった。

「私、一応怪しい者は卒業したつもりだったんですけど…」

ジャーファルさんがほんの些細な動きを見せるだけで、反射的に身体がびくついた。反応を見せるたび、彼の表情が少しずつ曇っていく気がする。そう感じながらも、身体は彼を激しく拒絶していた。

「なまえ、ジャーファルさんは何もしないよ?」
「いやです! 男の人はコワイ! コワイコワイコワイコワイ!」

ピスティさんに抱き着く。異常な震えが治まらない。それどころか息の仕方さえもわからなくなって、涙がたくさん粒になって落ちていく。ピスティさんの綺麗な衣服へも染み込んでいる。
そう、コワイのはジャーファルさんじゃない。コワイのは男の人なのだ。何故ここまでコワイのかはわからない。ただひたすら、頭の中に『男の人はコワイもの。だから決して近付いてはならない』と警鐘が鳴り響いていた。

しばらく経ってようやく涙が治まった頃には、ジャーファルさんは離れた壁に寄りかかっていた。初対面相手に拒絶されて不快だったはずなのに、彼は相変わらず柔和な表情のまま。

「安心してください。君に触れたりはしませんよ」
「……すみません」
「どうぞ、冷めないうちに飲んでください。他に飲みやすいものがあればよかったんですけど……温かいものでも飲めば、少しは気持ちも落ち着くでしょう」

そう言って、ピスティさんを経由して渡されたマグカップ。中身は、スープだろうか。いつの間に用意していたのか、それもわからないくらい取り乱していた自分が恥ずかしい。失礼と思いつつも俯きながらお礼を言えば、彼は特に気にした様子もなくどういたしましてと微笑む。

一口、二口。熱すぎず、かと言ってぬるくもない心地よい温度。あたたかくて優しい味にまた涙が零れた。






スープを飲み終えると、さっきまでが嘘のように私は落ち着きを取り戻せていた。ジャーファルさんの言う通り、温かいものを飲んだら自然と緊張が解れたらしい。

「あの、取り乱してすみませんでした」
「大きな怪我を負い、知らない場所で気が付き、知らない人間に囲まれていたのです。混乱しても仕方がありませんよ」
「……ジャーファルさんは優しい人ですね」
「そんなこと、初めて言われましたよ」

クスリと微笑む彼は穏やかで、本当に優しそうに見える。けれど、隣のピスティさんはうんうん大きく頷いているから事実なのだろう。心なしか彼女の顔色が悪い気がするのは、気付かなかった振りをした方がいいのかもしれない。何となく、そう思った。

「あのね、なまえ。私達貴女のことが知りたいの。教えてもらえない?」
「……私のことをですか?」
「何でもいいの。話しづらいことなら無理に話さなくていいし、記憶が混乱してるみたいだから話せる範囲で話してもらいたいんだ」

話そうと口を開き、すぐに口を閉じる。ピスティさんは残念そうにしているけれど、これは話したくないからじゃない。助けてもらった恩人だし、こうなった理由は説明すべきだと思っている。それなのに、口が動いてくれない。声も出ない。どんなに考えても、わからない。

――何も思い出せない。

そこだけすっぽり抜けたような、穴の空いている感覚。考えるだけで苦しくて悲しくて痛いのに、どうしても思い出さなくちゃいけないことのような気がする。身体が震える。けれど、それが何からくるものなのか、理由もよくわからなかった。

「ごめんなさい、私……何も話せることがないみたいです」
「え?」
「……では、記憶喪失ということですね」
「ジャーファルさん、あっさり言いますね!」
「彼女は起きた時、自分の名前すらあやふやでした。まさか本当にそうだとは思いませんでしたが、可能性としては十分ありましたから。一時的なものかどうかは、詳しく診ないとわかりませんが」

自分のことを話しているけれど、どこか他人事のように聞こえる。記憶喪失という言葉には聞き覚えがあった。どういう症状なのかも知っている。それでも、まさかという考えが先立って、自分がその状況に陥ってしまったとは信じ難かった。

「君はこの危険な海域を漂流している所を、外勤のピスティ達に発見されました。彼女達が見つけた時、君は襲われていたらしい。しかし、その相手を不思議な力で倒していたとか」

覚えはありますか?
その問いかけに首を振るしかできず、また目頭が熱くなってくる。情けなくてジャーファルさんと目を合わせることができなかった。不思議な力とは何のことだろう。私を狙っている者がいるとは、本当だろうか。自分自身のことなのに、わからないこと続きで頭の中がぐるぐるしてすごく気持ちが悪い。

「シンには私から追加報告しておきます。ピスティはこのまま彼女の傍に。色々あって不安でしょうから」
「まかせてください!」
「なまえさん、ピスティの傍なら安全です。今日はゆっくり眠ってください」
「…ありがとうございます」
「我々の主が望んだことですから、君が気にする必要はありませんよ」

おやすみなさい、と部屋を出て行ったジャーファルさんを見送る。ぼんやりしているところをピスティさんに促され、ふかふかのベッドへ横になる。真綿に包まれたような優しい感触が心地よい。

「ねぇ、なまえ」
「何ですか?」
「私こう見えても結構強いの。だから安心してね」
「ありがとうございます。おやすみなさい、ピスティさん」

ピスティさんに頭を撫でられて目を閉じる。身体も相当疲れていたのだろう、それだけであっさり夢の中へ落ちていった。



『早く逃げろ!』

『港に船があるはずだわ……!』



『すまない、なまえ。どんなに離れていても愛しているよ』



響く声。燻れた匂い。それは鮮明に思い出されるのに、相手の顔は靄がかかっていてハッキリ見えない。思い出さなくちゃ、早く、早く。あの人達の顔を、あの人達のことを。そう思うのに、人影はすぐに消えて見えなくなってしまった。



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