「なまえ、起きなさい。寝坊なんて珍しいわね?」
「ん……母上? おはようございます」
「あの人に似て本当に寝付きがいいのね。もうすぐお祈りの時間ですよ」
「え、すみません…! あれ、父上はどうされたんですか?」
「表で鍛練中です。本当に剣が好きなんだから…。呼んできてもらえるかしら?」
「はい、わかりました」

母上は島の神子だった。“ルフの神子”と呼ばれる神子様には、ルフのお声を聞くことができると言われている。その神子に選ばれると、生涯神にお仕えする身として、その身と共に名前も捧げる。だから、私の母上には名前がない。というよりも、神子様と呼ばれている母上しか知らないから、あったはずの名前を知る術はなかった。

本来なら、それほど尊い神子様に子供や夫がいることは許されない。しかし、どういう経緯を経たのか母上は特例として結婚、出産を許されたらしい。そうして私は、次代の神子様になるべく教育を受けていた。
いつだか疑問に思って尋ねようとしたけれど、この話をすると父上も母上もあまりいい顔をしないので訊けたことはなかった。

「父上、お祈りの時間ですよ」
「ん……そうか。なまえ、前髪が跳ねてるぞ?」
「え!?」

慌てて手櫛で直そうとしても、一体どこがどう跳ねているのかもわからない。困っているのがわかったのか、父上は笑いながら私の前髪を優しく撫でた。その手つきが赤子にするような触り方のように思えて、少し照れ臭い。父上は未だ、私を子供扱いする癖が抜けていないのだ。

父上はこの島の出自ではなかった。長い間剣術を学びながら旅をしていて、この島へ漂流しているところを助けた母上が父上に一目惚れし、父上もまた母上に好意を抱いたらしい。二人は本当に仲睦ましく、娘の私から見てもお似合いの夫婦であり、優しい自慢の両親だった。

「もう…子供扱いはやめてください、父上。私、結婚だって出来る歳になったんですから」
「何を言う! お前はいつまでも私の可愛い娘だ。それにしても…」

結婚、か。そう呟いた父上の表情は、一瞬見たことがないほど険しくて。でも、次の瞬間には少し寂しそうな、悲しそうな顔をして私を見下ろしていた。心配になって父上、と呼べばいつもの笑顔で笑いかけてくれたので、私の気のせいだと思っていた。そう、今日もまたいつもと同じ穏やかな一日が始まると信じて疑わなかったのだ。
今思えば、父上は気付いていたのかもしれない。不吉なことが起こると、この島に危険が迫っていることに。

その日は、珍しく空一面が真っ赤に染まるほどの綺麗な夕暮れが印象的で。上手く比喩できず、この色を何に例えられるだろうと見上げていた時のことだった。
空から複数の炎が降ってきて一瞬にして家々に燃え広がり、緑に恵まれた島が空と同じように赤く染まる。逃げ惑う人々、痛みを訴える人の声。朝までの穏やかな日常は姿を消し、島は地獄絵図と化してしまった。

そして、太陽が完全に姿を消した頃、マントを羽織った怪しい集団が現れた。普通は淡く輝く綺麗なルフを、漆黒に染めた恐ろしい彼等。彼等の周囲にある生まれて初めて見る黒いルフが、私の目には何故か泣いているように映った。

「父上、母上! これは一体…!?」
「お前達は早く逃げろ!」

空から降ってきた仮面の男は忌々しいとばかりに父上を見ていた。その鋭い視線には確かな殺気が込められていて、恐怖から身体が震える。護身用にと持たされていた剣に手をかけようとしたのに、手も震えて思うように動かなかった。これでは何のために父上に身体を鍛えてもらってきたのかわからない。

「裏切り者めが。我等の目的、お前の役目を忘れたのか」
「私の娘と妻だ。貴様等に渡してたまるか!」
「フン。所詮は半端者か」

初めは圧していた父上も、倒しても倒しても増えてキリがない敵に体力が削られていく。私も剣や体術で、母上も魔法で抵抗していたけれど、元々身体の弱い母上が魔法を使い、攻撃を受け止め続けるのは無理な話だった。
強力な防壁魔法もついに破れ、胸を押さえて蹲る母上に敵の剣が向けられるのが見えて。庇うように間へ入り、剣の痛みに備えて強く目を瞑る。

肉を貫く生々しい音、血の滴る水音。でも、私の身体に痛みはない。剣が突き刺さった感覚すらもない。恐る恐る目を開ければ、そこには見覚えのある大きな背中があった。じわり、じわり。赤い染みが広がっていくのが見える。

「すまない、なまえ。どんなに離れていても愛しているよ」

そう言って私達を突き放した父上が、背を向けたまま小声で何かを呟いた。後ろにいた母上が息を呑むのがわかって、母上の名前を呼んだのだと気付く。そして、すでに息を切らして苦しそうな母上が立ち上がり、呆然と父上を見つめていた私の手を取って走り出した。父上をその場に残したまま、振り返ることもなく。

「船で他国へお逃げなさい!」
「で、でも父上……私の、母上の、父上が…っ」

瞼の裏には今でも一突きにされた父上の残像が強く残っている。溢れ出す真っ赤な血、別れを告げる震える声。目から、耳から、頭から消えてくれない。怖いと思った。血に濡れた父上が、血で濡れた剣を振るう姿が。いなくなってしまう。島の皆も、父上も、母上も、私の大切な人が皆死んでしまう。あの人達に殺されてしまう。

どうして、どうしてこうなったの。私達が何をしたというの。何もしていない、誰にも迷惑をかけていない。この小さな島で笑い合って過ごしてきただけなのに。なにがいけなかったの。誰がいけないの。

全てはこうなる運命だったの?

「なまえ、大丈夫。貴女は幸せになれる。いつか大切な人と出会って、恋をして、結婚をして、私とあの人の分も生きて幸せになる。いつでも、いつまでも父上と母上が見守っているから大丈夫。なまえを信じているわ」

涙でぐしゃぐしゃの顔を見て微笑んだ母上の淡く光る指先が私に触れ、背中に回された。あたたかいような、熱いようなその光。何をしようとしているのかはわからない。それでも、その光に恐怖を感じることはなかった。

「これで貴女は大丈夫よ。幸せにおなりなさい。さようなら」

綺麗に微笑む母上を呆然と見つめる。きっと母上は父上の元へ戻るつもりで、私と船員、生き残った島民を海へ送り出したのだろう。涙が止まらなくて、小さくなっていく母上の姿は霞んでよく見えなかった。

島を離れてからも数人の追手に襲われ、火を放たれ、結局船に乗っていた皆も殺されてしまった。弾き飛ばされて海へ落ちてしまった剣の代わりに、掌に魔力を集中させて、思いきり敵を吹き飛ばす。最後の一人を倒したところで、身体の力が一気に抜けてついに私も倒れた。

島に残った母上と目の前で胸を突かれてしまった父上を思い出しながら、私は死と人の気配を身近に感じて、そっと目を閉じた。



「――っ、なまえ! 聞こえますか!」



「じゃー……ふぁる…さ、ん?」

どこかから水滴が私の頬に落ちて、直後誰かに抱きあげられた。ぎゅうっと潰されてしまうんじゃないかと思うほどの強い力で抱き締められる。その反動で、涙とも水ともわからない液体が私の頬を伝ったのがわかった。



「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -