水平線に太陽がゆっくりと姿を消していき、すでに空は赤く染まっている。ここへ来てからどのくらいの時間が経ったろう。ジャーファルさんの私室を前に、いざノックをしようとしてもなかなか勇気が出ない。

かと言って、いつまでも人様の部屋の前に立っているわけにもいかない。誰かに見られれば、また事実を捻じ曲げられた噂が流れる可能性もある。意を決して数回ノックすれば、すぐに笑顔のジャーファルさんは出迎えてくれた。

「いつまで経ってもノックしてくれないので、紅茶が冷めてしまう前に私の方から開けようかと思いましたよ」
「気付いてたんですか?」
「長いことドアの前に立っていましたね」
「何だか緊張してしまいまして…」

男の人の部屋へ自分から訪ねる機会なんて早々ないことだ。それに、ジャーファルさんの部屋へ入るのが実質二度目でも、前回は想いを告げることに必死で意識する余裕もなかった。

「私も、こんな風に私室へ女性を招くのは初めてのことで少し緊張しています」
「じゃあ……お揃い、ですね」
「えぇ、お揃いですよ」

緊張を誤魔化そうと笑いかければ、ジャーファルさんも微笑み返してくれた。心臓が今にも爆発してしまいそうなほど音を立てて動悸を繰り返す。
じりじりと熱くなる顔を意識しないよう、テーブルに置かれていたカップを取る。一口飲んで、それがジャーファルさんの淹れてくれたものだとわかった。私の大好きなミルクの優しい味が口に広がって、少しだけ緊張が解れた気がする。

「ミルクティー、とっても美味しいです」
「それは良かった」

呼ばれた本題については私から切り出した方がいいのか、それともジャーファルさんのタイミングに任せた方がいいのか。難しい考えを顔に出さないように気をつけながらもう一度ミルクティーを飲めば、その温かさに自然と目が細まる。やっぱり私好みでとても美味しい。
ふと視線を感じて顔を上げると、とても優しい目をしてこちらを見ていたジャーファルさんと目が合ってしまった。

「初めてなまえさんがシンドリアへ来た日のことを覚えていますか?」
「はい。漂流していたところをピスティとスパルトスさん達に助けていただいて、目が覚めたらピスティがいて、知らない部屋で驚きました」
「泣き止んでスープを飲んだ時の君の安心した顔、今でも思い出せますよ」

あれから半年以上が経った。もしあの日、あの時見つけてもらえていなかったら。そう考えるとゾッとする。
漂流していた時の私の運命は、複数の道に分岐していただろう。他の誰かに発見される道、シンドリア以外のどこかへ流れ着く道、そして直接死へ繋がる道ももちろんあった。だけど、私は心から思う。この道――シンドリアの皆と出会える運命を選べて良かったと。

「なまえさんが魘されていた日、涙を流し震えながら大丈夫だと言われた時は脳天チョップを喰らわせようかと思いました。もちろん、実行はしませんでしたが」
「う……その節はすみませんでした」
「ですが、あの夜がなければ今の関係はなかったかもしれませんね」

静かにカップを置いたジャーファルさんの表情は、いつものように穏やかに見える。ただ、どこか落ち着かない様子で声は固いし、目は微かに泳いでいる気がした。

「私は初め、君を信用していませんでした。漂流者が記憶喪失の上男性恐怖症。しかもよくわからない不思議な力を使って、交戦していたというではありませんか。不審人物にも程がありますよ」
「仰る通りです…」
「でも、君が悪い人間でないことはすぐにわかりました。あの夜見た涙に嘘はなかった。それに、知らなかったとはいえ、元暗殺者であるこの私を優しいなどと褒めるくらいのお人好しでしたから、疑う気も殺がれたのかもしれませんね」

そこでようやく、今まで泳いでいた視線がちゃんと交わる。その目は、ジッと私の反応を窺っていた。サラリと告げられた暗殺者だったという衝撃の事実。きっと、ジャーファルさんにとって重要な過去で、とても言い難いことのはず。それでも話してくれたのは、私を信じてくれているからだと思う。だから、私はその気持ちをきちんと受け止めて応えたい。私を受け入れてくれた彼が、そうしてくれていたように。

「私の知ってるジャーファルさんは、初めて会った時からずっと優しかった。暗殺者だった時のジャーファルさんのことはわかりませんけど、それでも私は貴方が好きです。この気持ちは変わりません」
「……物好きですね」
「そんなの、こんなややこしい私を好きになったジャーファルさんの方が物好きだと思いますけど?」

からかうようにジャーファルさんにそう言うと、虚をつかれたとばかりに目を丸めて静止してしまった。あまりにも珍しい表情に思わず笑えば、我に返った様子でジャーファルさんもクスリと笑ってくれた。

元暗殺者と漂流者兼記憶喪失者兼男性恐怖症、こうして比べてみればどちらが物好きかなんて一目瞭然だと思う。私は過去のジャーファルさんを知らないけれど、それはジャーファルさんだって同じこと。私の場合は、私自身すらどんな過去を持っているのかがわかっていない。もしかしたら人を殺めたこともあるかもしれないし、何か悪行を働いていた可能性だってある。

そんな私のことを、ジャーファルさんはどうして好きになってくれたんだろう。こんなにも素敵な人が、何故。今は怖くて聞く勇気がないけれど、いつか聞いてみたいと思う。

「そうですね、今の私にとってなまえさんはとても大切な存在になりました。だからこそ、もう一度問います。島の状況から言って、取り戻そうとしている記憶はとても辛いもののはずです。それでも、島へ行きますか? 思い出したいのですか?」

ヤムさんと同じ内容の問いかけも、相手がジャーファルさんだと言葉の重みも威圧感も違って感じられた。緊張から、一瞬にして乾いてしまった喉を潤そうと唾を呑み、真っ直ぐ彼を見据える。

「辛くても、それが私の記憶であるなら……受け入れたい。どんなに悲しいものであっても、大切な私の一部ですから」
「……漂流時に襲ってきた、君の命を狙っているかもしれない者達にまた襲われる可能性があっても揺るぎませんね?」
「死にたくはありませんから、生き残れるように頑張ります」

きっと、ジャーファルさんは質問する前から私が何て答えるかわかっていたと思う。
それでも私に尋ねたのは本当に心配してくれているから。そして、それ以上に私の決意を応援してくれているからだと知っている。

「やっぱり、ジャーファルさんは優しいです」
「誰にでもこうなわけではありませんよ。君は特別です」
「あ、りがとうございます」
「私がしたくてしてることです。お礼はいりません」

しれっとそんなことを言われること数回、何度聞いても慣れることはなかった。余裕の表情でカップに口をつけるジャーファルさんは、自分の言葉がどれほど私の心臓に負荷をかけているか、気付いているんだろうか。ドキドキを抑えるように胸に手を当てて息を吐く。

「前から思ってたんですけど、ジャーファルさんってストレートですよね」
「君も大概だと思いますが…」
「そうでしょうか?」
「えぇ。なまえさんの場合は顔に全て出ていますから。例えば、今は『私と2人きりで嬉しい』と書いてあります」
「えぇ!?」
「冗談ですよ。半分は」

半分は本気ですか。楽しそうに笑うジャーファルさんに訊いても自滅しそうだったため、その質問はミルクティーと一緒に飲み込んだ。






すごい速さでペンを動かしていたシンドバッド様が顔を上げ、大きく溜め息を吐いた。どうやら一段落ついたらしいけれど、積み重なった紙の山を見て国王の仕事というものは大変なんだなぁと漠然と思う。これを手伝うジャーファルさんもきっと大変なはず。彼が徹夜に慣れているのも仕方がないのかもしれないと頷けてしまった。

「覚悟は決まったのか、なまえ」
「はい!」
「ジャーファルもいいんだな?」
「……どうして私に訊くんですか。あと、そのニヤニヤした気持ち悪い笑顔はやめてください。不愉快です」
「いや、過保護で心配性のお前がよく許したと思って」

破局説が広がる中でも、シンドバッド様は気付いているのかもしれない。というより恐らく気付いている、私とジャーファルさんの気持ちの変化に。そう感じると少し恥ずかしくて、つい目を逸らしてしまった。

「出発の準備には多少時間がかかる。それまでになまえも準備を済ませておいてくれ」
「はい。あの、シンドバッド様」
「ん?」
「本当にありがとうございます。私、シンドバッド様にはいくらお礼を言っても言い足りないほど感謝しております」

行き場のない私をシンドリアの食客として置いたくださった。役目を与えてくださった。与えられてばかりでこの方に何も返せていないのにも関わらず、だ。

「大袈裟だな。礼なら記憶を取り戻してからにしてくれ」

太陽みたいに眩しい笑顔に目が眩みそうになる。私は、何をすればこの方に今までの恩を返すことができるだろうか。この人のために、この国のために何かしたい。記憶を取り戻すまでという約束だったけれど、このご恩を返すまでは私がこのあたたかい国にいることを許してもらえるだろうか。



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