最近溜まり気味になっていた公務のせいで、ついに今日シンは机から離れられない状態になってしまった。あとで痛い目に遭うのは自分なのだからと口を酸っぱくして言っても、この人は隙を見て一度は脱走してしまう。その度、こうして私が手伝ってはいるのだが、反省する気配はあまり見られなかった。

「なぁジャーファル、なまえを泣かせたんだって? 噂では、文官達の前で情熱的な告白をされたとか。いや、なまえは受身ばかりと思っていたが、良い意味で期待を裏切られたよ」
「……本当に、人の噂とは厄介なものです」

ある程度のことは覚悟していたのだが、いざ話が広まれば突き刺さる視線が随分増えた。嫉妬めいた恨めしげな、非難するような、好奇心たっぷりのそれ。
以前の噂は消え、『なまえさんが私を好いていたのに、どうやらフラれたらしい』という噂へ、一夜にして姿を変えていた。それにしても噂が広がるのが早い。あの現場にいた者はそう思うだろうし、あの後二人して白羊塔から姿を消したのだから、仕方ないと言えばそうかもしれないが。

まさか、あの場でなまえさんがあんなことを言ったうえ泣き出すなんて思いもしなかった。普段冷静に私の言うことを頷き聞いていたなまえさんとは思えない、感情に突き動かされるがままの直情的な行動。そんな行動をさせるまで彼女を追いつめていた自分に、その時ようやく気付いたのだから情けない話だ。

「ふっ…」
「シン、何を笑ってるんです?」
「俺が酔ってなまえのところへ行った夜を思い出していたんだ」

反射的に眉間に皺が寄ったのがわかる。今思い出しても、不愉快な夜だった。自分の仕事が終わり、公務に追われているだろう主の元を訪れてみれば、部屋はもぬけの殻。しかも禁酒を破って飲みに行ったのだから、堪忍袋の緒が切れてしまったのも無理はない。そう、あの日の私はとにかく機嫌が悪かった。
さらには酔っぱらったシンが逃げ回り、なまえさんに匿われ、酔った勢いで抱きついたのだからもう救いようがない。彼女に触れることを躊躇っていた私の目の前で、簡単に触れてしまったシンを見た時、どうしようもなく腹が立った。彼にも、抱き着かせた彼女にも。そして、あの夜触れてしまわなかった私自身と、拒絶されて傷ついた自分自身にも。

「部屋を出た後のジャーファルの顔、なまえに見せてやりたかったぞ。俺を追いかけている時とはまた違った怖さがあったからな」
「口を動かす暇があるなら手を動かしなさい」
「照れなくてもいいじゃないか。それで、なまえとはどうなんだ?」
「別に、何もありませんが」

嘘は吐いていない。楽しそうに訊いてくるシンには悪いが、私となまえさんの関係につける名前は恐らく変わっていないだろう。好きだと告げ、告げられて。お互いの気持ちを伝え合っただけ。

ふと思い出す、潤んだ瞳で私に一生懸命想いを告げる彼女。どうしようもなく愛しく感じられて。涙を拭ってあげたくて無意識のうちに伸ばした手は、どうあっても届くこと叶わない。私が触れることは許されないのだから、どれだけ考えても仕方がないことだというのに。持っていたペンが軋む音で我に返り、慌ててペンを放した。

「しかし、放っていていいのか? 破局が濃厚になったせいで、最近なまえは武官や文官、色んな奴に言い寄られているらしいぞ」
「何ですか、アンタ。私に一体どんな反応をして欲しいんですか」
「もっとこう、『俺のなまえに手を出すなー!』という珍しいジャーファルを見られるんじゃないかと思ったんだ」
「それ以上ふざけたことを仰るなら、この仕事の山は貴方一人でやっていただくことになりますが…」

私自身にも想像つかない私を想像しないでほしい。そんなことを考える余裕がどこにあるのかと移した視線の先には、いつの間に終わらせたらしい書簡が積み重なっている。あれだけ積み重なっていたのに、ほんの少し会話をしている間に反対側へ綺麗サッパリ移っている。

「シン……初めから真面目にやってください」
「なら、少し真面目な話といこう」

普段より数段低く真面目な声色、そして一瞬にしてピリリと張り詰めた空気。あまりいい話ではなさそうだ。最後のサインを書きながら、小さな胸騒ぎを覚えた。






何だってシンの周りにはこうも頭の痛いことばかりが起こるのか。いや、この程度のことで疲れていては彼の従者を務めることはできない。今までだって何度も大変な事態に陥ったことはあって、おかげでそれなりのことには冷静に対処できる。
しかし、そこになまえさんが関係してくると話が変わってくる。好意を抱いているからだろうか、彼女に関しては感情が前に出てきてしまう。だからこそ、今回のことだって――

不意に足を止める。廊下の先に、重そうな本を抱えたなまえさん。その隣には笑顔を浮かべて何かを一生懸命話しかけている文官が見えた。

「どうかしましたか?」
「あ、ジャーファルさん。お疲れ様です」
「お疲れ様です。その本……ヤムライハにですか?」
「はい。でも、数の割に分厚くて。一人でも大丈夫だと思っていたんですけど…」
「お、お一人では大変そうでしたので…」

歯切れが悪く、私の目を見て話をしない文官の言動や表情からは確かな下心が見える。しかし、なまえさんは人の善行を掘り下げ、裏を読むことをしない人だから気付かない。おそらく、自分も仕事があるのに手伝ってくれる親切な人としか思っていないはず。彼女に言わせてしまえば、誰もが優しい人だろう。

「では、私が変わりましょう。丁度ヤムライハのところへ行くところです」
「いいんですか?」
「えぇ。同じ場所へ向かうのですから、その方が効率もいいでしょう」

私の提案に少し表情を曇らせた文官に心の中で謝りながら、厚めの本を受け取る。嬉しそうに笑うなまえさんに自然と緩む頬。この状況をシンに見られたら、なんだやっぱりと思うだろうか。それとも、もっと感情的にならないと面白くないとダメ出しされるだろうか。
ただ、私とて男であり人間だ。シンの言っていたような感情を持っているし、思い入れのある“もの”に対しては特別な独占欲だって持ち合わせている。

隣を歩くなまえさんとは先程の文官より離れていて、その距離がもどかしい。彼女に触れない私が不用意に近付くことは許されないとは言え、傍にいたい・触れたいと思う気持ちはあの夜から大きくなっていくばかり。
謝肉宴の夜、並んで月を見た。たったそれだけのことだったはずが、真っ白な彼女と見た蒼い月が頭から離れなくなって。仕事こそ条件反射のようにこなしてはいたが、溜め息が多いと指摘されることが増え、窓の外を眺める時間も増えた。

そういえば、あの頃はまだ怖がられていなかった。彼女が私に対して脅えるようになったのは、果たしていつからだっただろうか。

『なまえのことなのだが…』
『何かわかったんですか?』
『あぁ、なまえのいたと思われる国がわかった』

風に靡くなまえさんの髪を視界の隅に捉えながら、先程のシンとの会話を思い出す。
なまえさんを保護してから、密かに探していたが一向に見つからなかった。それが半年経った今、ようやく判明したらしい。しかし、見つかったにしてはシンの表情が硬い。吉報か、凶報か。捉え方は人によって多少違うだろうが、話を最後まで聞き、私は素直に喜ぶことができなかった。

「本当にありがとうございました」
「ついでですから。どうやら、ヤムライハはいないようですね」
「私でよければ伝言をお預かりしますけど、どうしますか?」
「いえ、大丈夫です。……なまえさん、あまり無理はしないようにしてくださいね」
「もう、それはジャーファルさんの方じゃないですか。隈、消えてません」

たまにはしっかり休んでください、と眉を下げたなまえさんが心配そうに私を見上げる。徹夜なんて慣れたものだと言っても、きっと彼女は私を心配するだろう。私が無条件にこの人を気にかけ、心配してしまうように。

『彼女のいた国は――』

願わくば彼女の笑顔が消えてしまいませんように。現状、今の私が彼女に対してしてあげられることは祈ることのみ。近くにいても抱き締めることも、支えることだって満足にできはしない。その歯痒さを噛み締めながら、ヤムライハを探すため部屋を後にした。



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