忙しそうに働く文官さん達が、私とすれ違うたびにギョッとした顔でこちらを見るのがわかる。きっと泣いて擦った目元が腫れているんだろう。
でも、今ここで足を止めたら決意が鈍る気がして、ひたすら白羊塔へ、ジャーファルさんの元へと急いだ。

「ジャーファルさん!」
「……どうされたのですか、そんな大きな声を出して。他の者が驚いていますよ」
「ジャーファルさん、少しお話しできますか?」
「すみませんが、まだやらなければならないことが残ってますから」
「なら、私が一方的にこの場で話します。聞いていただかなくても構いませんし、邪魔でしたら引っ張ってでも追い出してください」

こちらを見向きもしなったジャーファルさんが、一瞬ペンの動きを止める。敢えて「引っ張ってでも」と強調したのは、こうでも言わなければ追い払われてしまうと思ったから。優しいジャーファルさんが強引に触れることは想像がつかないし、きっと話に耳を傾けてくれると期待したから。

唾を呑んで見つめる。周囲の視線が集まる中、ジャーファルさんは無言でインクをつけ直し、再度ペンを動かし始めた。何を言うわけでも、追い出そうとするわけでもない。これは、話を聞いてくれると解釈をしていいんだろうか。

「私……ジャーファルさんに避けられるのが辛いです。お話しできないのが苦しいです。会っても目が合わないのが悲しいです。今までみたいに笑ってもらえないのが痛いです。もう二度と私の名前を呼んでくれないんじゃないかって思うと、怖くて、堪りません。だから――」

言葉が続かない。喉の奥から込み上げてくる嗚咽を抑えきれず、ついに涙が零れた。ぽたり、ぽたり、と床に丸い染みがいくつも出来上がる。

「ついてきて下さい。このまま、好奇の目に曝されたくないでしょう」

突然立ち上がり、背を向けて歩き出すジャーファルさん。私の前を行く彼は、やっぱり一度もこちらを見てくれなかった。






初めて通されたジャーファルさんの私室。机には執務のためらしい書簡が乗っていて、本棚にも本が綺麗に整頓されて並んでいる。必要最低限の物のみ置かれた部屋は、少し寂しく感じられた。

「どういうつもりです? 大勢の前であんなことを言うなんて、噂がまた広まってしまいますよ」
「構いません」
「……何かあったのですか?」
「もし今、また私の記憶がなくなったらって考えたんです。そうしたら、ジャーファルさんときちんと話しておかなきゃ絶対後悔すると思って」

それなら、今ぶつかっておかなければいけないと思った。結果がどうであっても、嫌われてしまったとしても私の気持ちを伝えるだけ伝えておきたかった。泣いているだけじゃ何も変わらないし、変えることはできないから。

「ジャーファルさん、この間のこと……すみませんでした」
「君のせいではないでしょう。気にしていませんし、これ以上私に近寄らないでください。また怖がらせるかもしれませんから」
「嫌です!」
「なまえさん…」
「だって、あの時のジャーファルさん傷ついてました。私が泣いて怖がったから、触られそうになって拒絶したからですよね?」

向かい合って立つジャーファルさんの様子に変化は見られない。あの時見た表情は、もしかしたら目の錯覚だったのかもしれない。本当はいつものように笑っていたのかもしれない。
でも、あの時に違和感を感じたのは事実だった。私にはジャーファルさんの表情がいつもよりどこかぎこちなくて、少し無理して笑顔を作っていたように見えた。

「私は君を怖がらせたくない、泣かせたくないんですよ。わかったら、放っておいてください」
「わかりません! だって私、貴方の傍にいたいんです!」
「……本気ですか?」
「自分から手を伸ばしたのも、触れてほしいと思ったのも、触れたいと思ったのも、ジャーファルさんだけです」

ここにきて、初めてジャーファルさんの表情が変わった。今の私は恥ずかしいとか羞恥心とか、そういう類の感情が抜け落ちているらしい。次から次へと、考える前に口が動いて声を発している。それくらい、今日まで伝えられずに呑み込んできた言葉が多かったということだろう。

「前にも言いましたが、君は本当に男に対して警戒心が薄いですね。例え本当に思っていたとしても、そういうことを軽々しく男に言ってはいけませんよ」
「ジャーファルさんだから大丈夫です」
「私のことが怖いのに?」
「コワく、ありません」

涙で霞む眼前。ようやくおさまったはずのまた涙が再び浮かび、流れていく。慌てて袖で拭おうとすれば、恐る恐る伸ばされたジャーファルさんの手が見えた。細い指先が目元に触れそうになって、そのままピタリと止まる。驚いて視線をあげれば、瞳の中にはひどい顔をした私が映っていた。

「ほら、こんなに震えている」

目元が腫れていますね。悲しそうに微笑むジャーファルさんを見ているだけで胸が痛む。誰のせいだと思ってるんですか、と言い返したくてもできない。元を正せば私のせいだ。

私を避けたのはジャーファルさんだけど、そうさせる原因を作ったのは他でもない私。優しいこの人に悲しい顔をさせてしまったのも、傷つけてしまったのも、避けさせてしまったのも全て私自身の行動が招いたこと。だけど、それでも私はジャーファルさんに笑っていて欲しい。笑い合っていたい。傍に、いたい。

「好きなんです、貴方のこと」

ドラコーンさんの言っていたこと、シャルルカンさんの言っていたこと、ピスティの言っていたこと、そして失恋して泣いていたヤムさんの気持ち。今なら、それが全部わかる気がする。それくらい、目の前で私を見つめてくれる男の人が特別な存在に想えた。

「私も好きですよ、君のこと」

パチリ。瞬きをすれば溢れた涙がまた頬を伝う。今日は泣いてばかりだなぁとどうでもいいことを考える端で、ジャーファルさんの言葉を反復させる。パチリ。パチリ。瞬きを繰り返すうち視界がクリアになり、ジャーファルさんの白い頬がほんのり赤みを帯びているのが見えた。

私と同じ意味だと、自惚れても構わないだろうか。私がジャーファルさんを特別だと想えるように、彼もまた私を特別だと感じてくれていると。愛おしい、そう私を想ってくれているのだと。

「だからこそ、距離を置かなくてはならないと思ったんです。私が触れたいと思う気持ちを堪え切れなくなって、脅えさせてしまわないように」
「そんなの、嬉しくありません…」
「私のことを自分勝手な男と思っても構いません。エゴだと、怨んでくれても結構です。ただ君を傷つけたくないから近付かなかった。私のため、君のため、私達のためにね。それだけです」

ジャーファルさんのことを自分勝手だと思わないし、怨んだりできるはずもない。ただ、その言い方は少し卑怯な気がした。私達のため、なんて言われたらそれ以上駄々を捏ねるわけにはいかなくて。やっぱり、私はこの人にはどうあっても敵いそうもない。

「ヤムさんが、記憶喪失と恐怖症は関係があるかもしれないって教えてくれました。だから……私、今まで以上に頑張って解く方法を見つけます」
「私も、陰ながら応援しています」

今までだって頑張っていたつもり。けど、それ以上に出来ることがある気はしていたから。今まで以上に頑張る。情けないことに、それが今の私に出来る唯一のことだ。

「だから……呪いを解いたら、一番に貴方に触れてもいいですか?」
「――愚問愚答という言葉をご存知ですか、なまえさん」

そうして切なげに微笑むジャーファルさんが、私の目にはとても綺麗に映る。今すぐにでもその頬へ手を伸ばしたくなって、それなのに伸ばせない葛藤を胸に仕舞い込み、私は精一杯の笑顔を浮かべた。



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