あれから2週間。どうやら私は、あんなに悩まされていた男性恐怖症をほぼ克服できたようだった。八人将の皆さん、官吏の人達、酒場のお客さん達。男の人が近付くだけでビクビクしていたことが嘘のように、震えは治まり、触られても泣くことがなくなった。つい過剰に驚いてしまうのは名残として、私は間違いなく“ほぼ”克服したのだ。

そう、たった一人の男の人を除いて。

「何でだろうねぇ。ジャーファルさんはなまえがここに来た時から一緒にいるのに」
「……わかりません」
「そんな深刻な顔しなくても大丈夫よ」
「そうは言っても、ジャーファルさんだけダメなんて…」

何度かジャーファルさんの元を訪ねたけれど、忙しくて時間が取れないとゆっくり話すこともできていない。廊下で会っても挨拶だけで、この間のことを話そうとしたらすぐどこかへ行ってしまうし、話すきっかけすら与えてもらえないようになってきた。私が近づこうとするだけで、避けるように姿を消してしまうのだ。そのせいで、最近は姿を見ることすらほとんどなくなってしまった。

「嫌われちゃった、のかな」
「え?」
「だって、あの時悲しそうな顔してたし……考えてみれば私いつもジャーファルさんにお世話になってたのに。それなのにジャーファルさんがコワイなんて、そんな失礼なことがあったらいくら優しいジャーファルさんだって嫌になっても仕方ないもん。だから忙しいって言って会ってくれないんだよ」
「ち、ちょっとなまえ、落ち着きなさいって。貴女自身、急に男の人が怖くなくなってまだ混乱してるのよ」
「ピスティ、ヤムさん、嫌われちゃったらどうしよう…。もう二度と話してくれなかったら、なまえさんって呼んでくれなかったら、笑ってくれなかったらどうしよう!」

あの人の優しい声を聞けなくなったら、笑顔を見られなくなったら。私はどうするだろう。どうすればいいだろう。ジャーファルさんって呼んでも私のことを見てくれなかったら、悲しくて、苦しくて、想像するだけで心臓が潰れてしまいそうになる。

例えば、私が幼子ならば情けなく大声をあげて泣いてしまいたいくらいだ。許されるならそうしたい。涙が溢れて、溢れ続けて、私の身体中の水分が失われていると錯覚させられるほどに流れる涙。泣きすぎて息は苦しいし、酸欠で頭痛もする。このまま泣き続ければ、きっと酸素不足で死んでしまうに違いない。そうなったら、ジャーファルさんは少しでも悲しんでくれるだろうか。

「知らなかったわ、なまえって実はこんなにネガティブだったのね…」
「それだけジャーファルさんが例外だったの気にしてるのかも」

私を挟んでこそこそ話す二人の会話を耳にしながらも、頭の中はぐちゃぐちゃで、ジャーファルさんのことでいっぱいだった。どうしよう、何で、どうして。そんな疑問を投げかけても当然誰にもわからなくて、私自身にもわからない。

ぐずぐずと鼻を啜り、服の袖で涙を拭い続ける。そういえば、この服もジャーファルさんにお願いしていただいたものだった。そのことを思い出すだけで、また涙が浮かんだ。

「あのね、なまえ。貴女の記憶がないのは魔法のせい。その魔法、男性恐怖症とも関係があるかもしれないと思うの」
「そんなことあるの?」
「通常、魔法は掛けた本人にしか解けないはずなの。だから、確証がないから話すのはどうかと思ってたんだけど……こんなに泣いてるなまえを見てたらそんなこと言ってられないわ」
「魔法が、男性恐怖症と関係あるって、本当ですか…?」

嗚咽に邪魔されながら、少しの希望を求めてヤムさんを見つめる。彼女は難しい顔をしながらも小さく、しかし力強く頷いてくれた。

「ジャーファルさんに触られそうになった時、頭の中に声が響いたのよね?」
「は、はい。知らない声でしたけど…」
「それはきっと、貴女に魔法をかけた相手の声。そして、ジャーファルさん以外の男が平気になったのは、きっと呪いの力が弱まり始めているからよ」
「でも、男の人とどういう関係が?」
「推測になるけど……」

ヤムさんの話によれば、魔法にも色々な種類・方法がある。その中でも私にかけられている呪いは“男の人”と関連付けられてかけられているものではないかということだった。
あくまで記憶を封じるだけの殺意のない魔法、しかし私にかけられているものは持続させなければならない。それ故、かけた相手自身の力以外の、何か他の力が必要だったのではないか。そして今のところ、考えられる可能性として、あれだけ怖がっていた男の人に関係している可能性が高いらしい。

「どうしてジャーファルさんだけ怖いのかは、残念だけどわからないわ」
「このまま、魔法の力が弱って消えることはないんですか?」
「それはないわね。そうならないよう、今回みたいな事態になっているはずだから。そして、魔法が解ければジャーファルさんのことも解決すると思う。……力になれなくてごめんなさい」
「そんなことありません。本当に、ヤムさんには感謝してもしきないくらいたくさんのことを教えていただきましたから」

悲しそうに俯いてしまったヤムさんに慌ててそう告げれば、微かに微笑んでくれた。そう、今日のことも相談に乗ってほしいと頼んだら二つ返事で了承してくれたうえ、ピスティも呼んでくれた。何度お礼を言っても伝えきれないくらい、彼女への感謝の気持ちは大きい。尤も、それはお世話になった全員に言えることだけれど。

よしよしと頭を撫でて慰めてくれていたピスティが、「あっ!」と徐に声をあげる。今まで黙って話を聞いていただけに、驚いて彼女を見れば、閃いたとばかりに明るい顔をしていた。

「ねぇねぇ、いっそジャーファルさんに触ってみたら? 案外簡単に解けちゃわない?」
「可能性としてはあり得るけど……あまりオススメしないわ。最悪の場合、今の記憶すらなくしかねないかも」

もしも、今の記憶がなくなったら。この国のことも、学んだことも全て忘れてしまうということだ。この国で過ごした半年の記憶を、すべて。

ヒナホホさんのたくさんいらっしゃるお子さんを紹介してもらったことも、ドラコーンさんの奥様がとてもお綺麗でお似合いの夫婦だったことも、スパルトスさんと二人でのんびりお茶をしたことも、ヤムさんと色々試行錯誤しながら魔法を研究したことも、マスルールさんの表情が少しだけ読めるようになったことも、シャルルカンさんに強引に飲まされた時のことも、シンドバッド様が不慣れな私を明るい笑顔で迎え入れてくれたことも、ピスティと初めて空の散歩したことも、ジャーファルさんと並んで見上げた青い月の夜のことも。全部、全部。

綺麗に忘れて、また思い出すこともできなくなって。そうして傷つけてしまうんだろうか、この優しい人達のことを。
ジャーファルさんのことも、忘れてしまったら色々なことが中途半端で終わってしまう。思い浮かべたあの人はいつも笑顔で、優しく瞳を細めて私を見つめている。彼に対する色んな気持ちが消えて、このあたたかい気持ちがどこにも残らないなんて、絶対に嫌だ。

「私、ジャーファルさんのところに行ってきます」
「なまえ?」
「今の時間ならまだ白羊塔にいらっしゃいますよね、きっと。行ってきます。行って、今の気持ちを話してきます。拒絶されるのは怖いけど、行かなくちゃ」

このままだと、私はきっと一生後悔してしまうから。そう言うと、引き止めようとしていたヤムさんも苦笑いしながら手を放してくれて、ピスティと二人で「いってらっしゃい」と笑顔で送り出してくれた。



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