酒場から戻って来たはいいものの、なかなか寝付けず窓の外を眺める。
結局泥酔状態のヤムさんをマスルールさんが背負い、騒ぐシャルルカンさんをスパルトスさんが宥め、ほろ酔いで楽しそうなピスティと私は手を繋いで帰ってきた。その際、すぐ近くを通る男の人に反応はするものの、コワイと思うことはなかった。理由は私が訊きたいくらいで、まったく見当もつかない。

「なんで、どうして……突然…?」

男性恐怖症が改善されたかもしれない。けれど、心当たりは全くない。というより、その片鱗にすら気がつかなかった。
宮中では私が怖がるからか不用意に近付く人は少なく、また、男の人とぶつかるかもしれないからと市井へ行くこともなかった。出掛けるとしてもピスティやヤムさんと一緒に酒場へ連れて行かれるくらいのもので。今日まで一切男の人と触れ合うことはなかったし、むしろ向こうが避けてくれていたのだ。だから、さっきシャルルカンさんに触られそうになった時、初めて気がついた。

「もしかして私、男の人に……」

触れるかもしれない。条件反射で驚きはしても、今までみたいに避けて拒絶して、相手を傷つけなくても済むかもしれない。それは素直に嬉しい。
ただ、そうは言っても確かかと訊かれればわからない。それに、確認しなければ改善されたかどうか確証を得られないとはいえ、今まで逃げに逃げていた男の人を相手に自分から、なんて考えるだけで不安でいっぱいになる。だから、先程もあの場で皆にこの話をすることができなかった。

考えれば考えるほど眠気が遠ざかっていくばかり。ジャーファルさんのことといい、これ以上考え続けると私の頭は容量を超えてパンクしてしまいそうな気がする。気分転換に夜の散歩でもしてみようか。そう思い、扉を開くと同時に紫色の髪が目の前を過ぎった。

「あれ、シンドバッド様? そんなに急いでどうかされたのですか?」
「なまえ! そうか、ここは緑射塔か…!」

その正体は、息を切らし、髪も乱れさせたシンドバッド様だった。シンドリアへ来て以来、初めて見る焦った表情。顔色もひどく悪い。

「追手に追われていてな、逃げきろうにもなかなかしつこい。頼む! なまえの部屋に匿ってはもらえないだろうか!」
「私は構いませんが、それなら早く八人将の方に連絡を入れた方が…」
「ダメだ! 特にジャーファル! ジャーファルにだけは知らせないでくれ!」
「どうしてダメなんですか?」
「理由はあとで話すから! とにかく中へ入れてくれ…っ!」

鬼気迫った様子のシンドバッド様に、押されるようにして部屋へ戻る。青い顔をしているのか赤い顔をしているのかよくわからないシンドバッド様に水の入ったグラスを差し出せば、彼は勢いよく飲み干した。

「一体何があったんですか?」
「鬼――いいや、暗殺者に追われているというか…」
「暗殺者!?」
「正確には元暗殺者というか……と、とにかく死ぬ思いだったんだ。助かったよ!」

心底安心した様子のシンドバッド様から察するに、よほど怖い目に遭われたことがわかる。七海の覇王と呼ばれる彼をこうも追い詰めることは、決して容易くないはず。となると、敵はかなりの力を持っていると予想される。早く八人将に連絡をとり、シンドバッド様をお護りしなければ。

「シンドバッド様の命を狙おうなんて、とんでもございません! 私がヤムさん達に知らせてきます。ここに隠れていてください!」
「い、いや! 命は狙われ……ていないと思うのだが…」

頭を抱えながらぶつぶつ独り言を始めたシンドバッド様を部屋に残し、急いで部屋を出る。後ろで呼び止めるシンドバッド様の声が聞こえたような気がしたけれど、今は一刻も早くヤムさん達に知らせなければならない。

廊下の角を曲がったところで、緑色のクーフィーヤが見えた。私が袖を掴み引き止めてしまった日から、一方的な気まずさがある。しかし、今はシンドバッド様が追われていることの方がよほど大切。そう思い声をかけようとしたところで、ジャーファルさんには知らせないように言われていたことを思い出す。気付かれないうちに引き返そうとしたその時、タイミング悪くジャーファルさんが振り返ってしまった。

「あぁ、なまえさん。丁度良かった、シンを見かけませんでしたか?」
「え……」


――ジャーファルにだけは知らせないでくれ!


目の前にはとても綺麗に微笑んでおられるジャーファルさん、扉を隔てて隠れておられるのは青ざめたシンドバッド様。あぁ、貴方様は一体何をしてこの人を怒らせてしまったのですか。

「なまえさん」
「は、はい!」
「顔色が悪いですね?」
「そ、そ、そうでしょうか?」

一歩、また一歩とジャーファルさんが距離を縮めていく。前はジャーファルさん、後ろは壁。廊下は静まり返っており、人が通る気配は微塵もないため、助けは期待できそうもない。

「隠すと君のためにもなりません。私はなまえさんを怖がらせるようなことはしたくありませんが……どうでしょうか?」
「どう、と言われましても困ります…!」

壁際に追いやられ、本格的に逃げ道を失う。俯いている私にはわからないけれど、きっと今顔を上げればジャーファルさんの整った顔が目の前に現れるだろう。ただ、彼の足が離れたところにあるのを見て、私が取り乱さない最低限の距離をあけてくれていることがわかった。それは彼なりの、せめてもの良心なのだと気付く。

「なまえさん、シンの居場所をご存知でしょう? むしろ貴女が匿っている。そうですね」
「……はい」

当然、私などがジャーファルさんに敵うはずもない。室内に隠れているシンドバッド様に心の中で謝罪しつつ、満足そうに笑う彼に白旗を振ることしかできなかった。






「シン、こんな夜更けに女性の寝室を訪れるなんて何を考えているのですか!」
「お、お前が追いかけてくるからだろ!」
「その前に! アンタが仕事残ってるのに禁酒破って飲み歩いたのが原因でしょうが!」
「シャルルカン達が飲みに行ったって聞いて、つい…」
「なまえさんにまで迷惑かけて。いい大人なんですから少しは自重なさい!」

私の部屋の中央。ジャーファルさんと涙ながらにお説教を受けているシンドバッド様は、酒場でのマスルールさんとヤムさんを彷彿とさせた。これではどちらが年上なのか、まったくわかったものではない。さらに、小さく丸まっているシンドバッド様はまるで母親に叱られている子供のようで、自業自得とはいえ少し可哀想な気もする。

「見てないで助けてくれ、なまえ!」
「――っ!」
「なまえさん…!」

突然ぐるりと視界が一回転し、何故か私の目の前には慌てた表情のジャーファルさんが立っていた。先程まで、私の隣に立っていたはずなのに。状況についていけてない私は、ただ彼の顔を見つめることしかできなかった。

「シン、貴方がいくら酔っぱらいとはいえ、やって良いことと悪いことがありますよ! すぐなまえさんを離しなさい!」
「嫌だ! ジャーファルは怒るから絶対なまえから離れない!」
「この酔っぱらいは本当に……!」
「ジャーファルさん、あの、私大丈夫みたいですから」
「大丈夫なわけないでしょう! 近付いただけであんなに震えていたのに、触られるどころか抱、きつかれ……て…?」

尻すぼみになっていく言葉。徐々に見開かれる瞳。ジャーファルさんが驚くのも仕方ないと思う。私だってとても驚いているのだから。

「ほ、本当に、何ともないのですか?」
「ええと……驚きましたけど、今は何とも。震えもありません」
「おぉ! なまえは男性恐怖症が治ったのか、よかったな!」

治ったという言い方が正しいのかはわからないけれど、私は今、確かにシンドバッド様に抱きつかれている。どうやら、手を引かれて彼の腕の中に引き込まれてしまったらしい。
とりあえず、シンドバッド様に離れてもらいたい旨を伝えれば、駄々を捏ねていたのが嘘のようにアッサリ離してくれた。どうやら、怒り続けるジャーファルさんへの隠れ蓑にされていたらしく、驚きに染まり、怒気のなくなった彼を見て不要と判断されたようだ。

「それにしても、いつの間に?」
「わかりません。気付いたのは、ついさっきなんです。きっかけは、酒場でシャルルカンさんに触られそうになったことでした。いつもみたいな震えがなくて、もしかしてって思ってたんですけど」
「そうですか、よかったですね」

いつもの優しい顔をしたジャーファルさん。ゆっくりと伸ばされた手が、私の頭を撫でようとしてくれたのがわかった。



――男の人は、コワイ。コワイ。コワイ。



「ご、めんなさい…っ」

わかっていたのに、頭ではわかっているのに。彼がコワくなんてないことは十分にわかっているのに。触れてほしいとさえ、思っているのに。

突如として頭の中に声が響き、その手が届く前に私の身体は再び大きく震え出した。終いには涙まで滲み始めてしまい、それはジャーファルさんが離れるまで止まることはなかった。



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