室内はまだ明るく、窓の外を見れば日はまだ高い位置にある。どうやら、眠ってからそんなに時間は経っていないらしい。それでも少し寝られたおかげか、頭がスッキリしている。招き入れたジャーファルさんにお茶を淹れると言えば、安静にしていなさいと叱られてしまった。

「ジャーファルさん、お仕事は大丈夫なんですか?」
「えぇ、むしろ少しは休憩して来てくれと追い出されてしまいましたよ」

いつだかジャーファルさんの趣味が仕事だと聞いたことがある。きっと周りの文官さん達も一心不乱に執務する彼を見て、休むに休めなかったのだろう。その現場を直接見たわけではないけれど、何となく想像できてしまって思わず込み上げてきた笑いを堪えた。

「話は廊下でお会いしたドラコーン殿から聞きました。体調の方はどうです?」
「今回の体調不良は寝不足が原因だと思うので、寝ていれば大丈夫だと思います」
「また悪い夢でも?」
「いえ、さっき見た夢は多分……良い夢でしたから、違うと思います」

向かい合うように座るジャーファルさんは、安心したように微笑んだ。パッと見て、謝肉宴以前と変わった様子はない。
それなのに、やっぱり私はどこかおかしい。どうおかしいかは上手く説明できそうにないけれど、まず彼の目を見て話すことができなかった。目が合うと、何故かすぐに逸らしてしまう。そして、彼が笑えば嬉しくなると同時に頭が痛くなり、動揺してしまう。これではまるで、保護してもらった当初に逆戻りしてしまったようだ。

「では、何が原因なのでしょうね?」
「え…?」
「確かに、調べ物や仕事に熱中して睡眠を疎かにすることもあるでしょう。しかし、ドラコーン殿に、1日2日の徹夜したくらいの顔色ではなかったと聞きました。君は無理をしすぎる節がありますから、何かあったんじゃないんですか?」
「う、ええと……」

心配してくれているジャーファルさんに嘘をつくのは忍びないし出来るならしたくない。また、誤魔化しが通用しないのも経験済み。かと言って、あの謝肉宴の夜を思い出しているのが原因だとは、まさか口が裂けても言えない。もし本人に知られてしまったら、恥ずかしくて二度と面と向かって話すことができなくなってしまうような気がする。

「それが、自分でも整理がついていなくて……何て言えばいいのかわかりません」

これでジャーファルさんが納得してくれるかどうかは不安が残る。それでも、今の私にはこう答えるしかできなかった。

「辛くはありませんか…?」
「私自身のことよりも、私のことを心配してくださる皆さんに申し訳なくて。皆さんお忙しいのに、色々な方に迷惑かけてしまっていることが一番辛いです。ジャーファルさんにもまた迷惑おかけてしまって、本当にすみません」
「私がいつ迷惑をかけられたのですか?」

普段より低い声。驚いて声の主を見ると、いつかのように眉間に皺を寄せた険しい表情をしていて、思わず背筋が伸びた。
この背中がひんやりする空気は、以前一度だけ感じたことがある。あれは、私が余計な心配をかけまいとして、大丈夫だと言い張った時のこと。あの時は黙って出て行ったジャーファルさんが、今回はさらに不機嫌さを露にし、目を細めてこちらを見つめている。

「私が、なまえさんのことを迷惑だと言ったことがありましたか?」
「あ、いえ、ありません、けど。あの、もしかしてジャーファルさん、怒ってます…?」
「皆心配したくてしているんです。好きでしているのですから、勝手に好きなだけ心配させておきなさい。気遣って落ち込むくらいなら、早く元気になって顔を出して安心させてあげる方がずっといいですよ」

まったくの正論に返す言葉もなく項垂れるしかない。慌てて頭を下げて謝ると、空気が少し戻ってくれた気がした。

「それと、どうやら私は君の世話を焼くのが嫌いではないようですので。心配くらいさせてください」

少し照れ臭そうに、けれど真っ直ぐ伝えてくれたジャーファルさんの言葉に胸が苦しくなる。
保護されてから今まで、彼には本当にたくさんお世話になってしまったのに、政務官としての執務と両立するなんてきっと大変だったはずなのに。それでも彼はこうして微笑みかけてくれる。優しい言葉をくれる。そしていつも、こんな風に私の中にある負の感情をいとも簡単に拭い去ってくれる。

「ジャーファルさんは……謝肉宴でのことを覚えていますか?」
「えぇ、あの夜はシンとシャルルカンが酔っぱらって面倒でしたね。まったく、いい大人だと言うのにあの人達には困ったものです」

あの夜、飲み比べをしていたシンドバッド様もシャルルカンさんも随分酔っていた。呆れたジャーファルさんが騒ぎ続けるシンドバッド様にお説教、そしてシャルルカンさんに鉄槌を下した瞬間のことは、なかなか衝撃的でしばらく忘れられそうもない。

その時の様子を思い出して苦笑しながら、内心寂しく思う。確かにあの二人のことは印象的ではあったけれど、私が訊きたかったのはその前の出来事で。やっぱりジャーファルさんにとって私と月を見たことは、あまり記憶に残らない何気ないことだったということだろう。それもそのはず。だって、私達はあの夜、ただ二人で月を眺めていただけなのだから。

「それから、もちろん君と見た青い月も覚えていますよ」
「あ…」
「寂しそうな顔をしていましたが、まさか私が忘れているとでも?」

からかうような瞳に覗きこまれ、一気に顔が熱くなった。図星だったこともだけれど、それ以上に寂しい気持ちが顔に出ていたことが恥ずかしい。この分だと、私は一生ジャーファルさんに隠し事が出来そうにない。隠したとしても、きっと彼には私の考えはお見通しだろう。

「わ、私はすごく楽しかったのに、ジャーファルさんがつまらなくて覚えてなかったら悲しいじゃないですか…」
「そうですね。ですが、それは杞憂なので安心してください。私もなまえさんと話せて、とても楽しかったですから」
「……よかった」

その言葉を聞いて頬が緩むのは仕方ないと思う。にやつく顔を見られたくなくて俯いていた私は、この小さな呟きを拾ったジャーファルさんがどんな顔をしていたのか知らない。ただ、クスクス笑う彼から嫌な気はしてないことがわかって、密かに胸を撫で下ろした。

「さて、噂に尾ひれがつく前に白羊塔へ戻ることにしましょう。ご自分の中で整理がついたら、話していただけたら嬉しいです。どうしてもまとまらなかったら、その時は相談してください。一緒に考えましょう」
「ジャーファルさん…。はい、その時は是非。お見舞い、本当にありがとうございました」

優しいを通り越して優しすぎる。いつかジャーファルさん自身とピスティが否定していたけれど、やっぱり私から見ればこの人は優しい人だ。そう言えば、彼は「私にそんなことを言うのは君だけですよ」と苦笑いした。

廊下まで出て見送ろうとした私を手で制し、お大事にと告げて離れていく背中を見つめる。本当はもう少し話していたかった。でも、ジャーファルさんには大切な仕事が残っているし、伝えれば必ず困らせてしまう。

「なまえ、さん?」
「え?」

突然振り返ったジャーファルさんは戸惑ったように私の名前を呼び、目を丸めて私を見つめる。理由がわからず小首を傾げると、彼も同じように首を傾げた。そして訪れる沈黙。どうしたのか尋ねようとしたその時、彼の視線が下を向いているのに気付き、私も下を見る。

「え、え? 私…?」

見えたのは、私の手が何かを掴んでいる光景だった。混乱する頭を働かせて気付いたのは、握り締めているのが官服の袖だということ。そして、この場には私とジャーファルさんしかいないので、この官服が誰のものかなんて言うまでもない。

「ジャーファルさん、ごめんなさい!」
「え?」

勢いよく扉を閉め、その場に蹲る。顔から火が出るほど、身体の水分が全て蒸発しているんじゃないかと思うほど、身体中が熱い。遅れて襲ってきた震えに苦笑する。その震えを抑え込むように手を握り締め、大きく深呼吸を繰り返す。
今までこんなことはなかった。シンドバッド様にも、他の八人将の皆にも。自分から男の人へ手を伸ばしたことなんて、一度もなかったのに。信じられない出来事だけど、指先に残る官服の感触が夢でなかったことを証明している。

「どうしちゃったの?」

私一人しかいない部屋の中、当然その疑問に対して答えを教えてくれる人は誰もいなかった。



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -