あれは、いつものようにヤムさんと研究を進めていた時のことだった。控えめのノックがして、現在ビーカーしか見えていない彼女の代わりに扉を開けると、見覚えのない数人の女の子。私に用があると言うことで外へ出ると同時に、小声ながらすごい勢いで詰め寄られた。

「あの噂のことは事実なんですか、なまえさん!」
「えと…」
「ただの噂ですよね? ヤムライハ様と仲がよろしいから、その関係でジャーファル様と噂になってしまっただけですよね?」
「あの、それは…」

前のめりになって何度も何度も尋ねてくる人に噂ですよと言ってもなかなか信じてもらえず。結局、成功した!と喜び勇んで部屋から飛び出てきたヤムさんに助けてもらうまで離してもらえなかった。

「と、いうことがありまして」
「八人将ということもあって、ジャーファルさんは人気があるからな」
「そうなんですか?」
「あぁ。八人将はそれぞれ人気があるものだが、中でもあの人は人気があるように思う」
「八人将ということはスパルトスさんも?」

その質問には答えず、スパルトスさんはそっとティーカップをとった。そういえば、と宗教的な問題で彼はこういった話題はあまり好まなかったことを思い出す。二人でお茶をするのはいいのだろうか。そう思いつつ見つめても、相変わらず彼から視線は返ってこず、目は一向に合わなかった。

「そういえば、ジャーファルさんには渡せたらしいな」
「あ、はい。お陰様でなんとか。その節はお世話になりました」
「喜んでもらえたのか?」
「そうだったら、嬉しいんですけど…」

首を傾げているスパルトスさんに苦笑を返す。あの羽ペンは、私一人の力で買えたわけではない。頻繁に商船警護をしているスパルトスさんの協力の下いい羽ペンはないか調べてもらい、情報をもらう。そして男の人から逃げられない人混みを、ピスティの友達の鳥さんのおかげで切り抜けることができた。もちろんその場へ行ってお金を払ったのも選んだのも私だけど、二人には感謝してもし切れない。二人のおかげでとてもいい贈り物ができたと思う。

しかし、あれ以来ジャーファルさんには会えていないため使ってもらえているかわからなかった。誰が見ていたのか、あれ以来ますます噂が広まっているらしいことを考慮して。幸い男の人に呼び止められることはなかったけれど、噂が収まらないことには不安が残る。

「噂になるんだったらスパルトスさんとでもおかしくないのに、どうしてジャーファルさんなんでしょう?」
「自分自身のこと自分で気付くのは難しい。無理もないだろう」
「え?」

もちろん服のこともあるだろうが、と前置きして、手に持っていたカップを置く。珍しくスパルトスさんの綺麗な瞳と視線が重なり、突然のことに動揺して私の方が逸らしてしまった。
まるで悪戯が成功した子供のように笑う彼は、いつもより少しリラックスしているように見える。こうしてたまに垣間見る彼の優しい表情のおかげもあって、男性恐怖症がここまで和らいだのだろう。そう思えるほど、浮かべられた表情はあたたかく感じられた。

「なまえはジャーファルさんといる時が一番安心した顔しているんだ」
「それなら、ピスティやヤムさんの方が安心してると思いますけど」
「いや、彼女達といる時とはまた違う。穏やかというのか、信頼しているのがこちらにも伝わってくるんだ」
「そ、それは、何か恥ずかしいですね」

一番多く関わったことがあり、時間が長いからか、男の人でもジャーファルさんと話す時はほとんど身構えなくなっていることには気付いていた。というのも、彼は私に絶対触れようとしないし、近すぎずかといって遠すぎもしない丁度いい距離を理解して保ちながら話してくれるから。
もちろんスパルトスさんやシャルルカンさん、マスルールさんだってそうだ。シンドバッド様も毎回ジャーファルさんに窘められつつ、距離を測ってくださっている。それでも、ジャーファルさんといると明るい気持ちになれたり、他にない安らぎを感じていたのは事実だった。

「それに、ジャーファルさんは八人将以外の女性と話すところをあまり見ない。だから、なまえと話しているのが目立ってしまうんだろう」
「なるほど。だから、あの人達はあんな顔してたんですね」
「……なまえはその手のことに鈍いのか?」
「その手?」
「それは、だな」

訊き返すと、スパルトスさんは黙ってしまった。そんなに言い難いことなんだろうか。今までの流れを思い出す。彼の表情が曇らせ、言葉に詰まるような内容と言えば。

「もしかして、好きとかそういうことですか?」
「なんだ、わかっていたのか」
「わかるのかと訊かれると、少し難しいです。感情につける名前って、沢山あると思いますし」

ジャーファルさんのことは好きだけど、それは彼を尊敬して慕っているという意味が強い。でも第三者の目からすれば、噂のように私が異性として好いているようにも見て取れるかもしれない。すると、その人の中ではこの気持ちは愛情という名前に変わってしまう。自分の気持ちでも他人からすれば名前が違う。これといった基準がないから、よくわからない。

「よくわからないということは、昔の私も恋をしたことがなかったのかもしれませんね」
「今からすればいいさ。時間はあるんだ」

果たしてそうだろうか。本当に私には時間があるんだろうか。もしどこかで私を待っている人がいたら? もししなくてはならないことがあったら? もし私に持病があったりしたら? 普段は考えないようにしているけれど、一度考え出したらそれこそキリがない。

「私は記憶を失ってます。あれから月日が経つというのに、未だ何も手掛かりを掴めていません。何より、皆さん気にしてくださっているのに申し訳ないです」

ヤムさんも仕事や自分の研究の合間を使って解く方法を調べてくれている。ジャーファルさんやスパルトスさんは、東の大陸や国に関する貴重な書物を持ってきてくれる。ヒナホホさん、ドラコーンさんも声をかけてくれる。ピスティやシャルルカンさん、マスルールさんも外勤の時に東の方で変わったことがないか訊いてくれているらしい。さらには、シンドバッド様は視察に出れば私に関する情報がないか調べてくれているらしい。

こんなに協力して気にかけてもらっているのに、私の記憶は戻らない。魔法を解く方法どころか、どういった呪いをかけられているのかもわからないまま。記憶を封じられているという情報から発展していないのだ。もっと何か、方法を模索すべきではないだろうか。

「お前は、初めて会った時からあまり変わっていない」
「すみません…」
「謝ることはないさ、褒めてるんだ。変わってないと言ったのは姿勢――確実な何かを得られなくても諦めない、その姿勢のことだ。あと、周囲の人間を思い遣れるところもだな」

何も知らない私は他の人より不安は多いと思うし、情報が少ないことからも記憶を取り戻すのはそう簡単なことではないのだろう。でも、だからと言ってそれを理由に頑張ることは止められない。あの日、シンドバッド様に『食客にならないか』と問われた時、思い出したいと願ったのは他でもない私自身だ。

「ゼロから魔法や呪いについてヤムライハから聞き学んで、環境にも慣れ、周囲に溶け込めるよう積極的に人と関わって。私の目から見てなまえは時間を無駄にしてはいないと思うし、十分頑張っていると思うが? もしもそれで非難する者がいれば、それはお前を見ていない相手が悪い。尤も、そんな者はここにはいないと思うがな」
「……もしスパルトスさんが女の人なら抱き着いてます。というより、可能なら今すぐ抱き着きたい勢いで嬉しいです。ありがとうございます」
「今度は私と噂になるぞ?」
「それもそうですね」

笑いながらティーカップをとる。一口含み、温かさにほぅと息を吐く。外は快晴、気温的には暑いはずなのに、この温かさが心地よい。

「いいお天気ですね」
「あぁ、やはりこういう日も必要だな。平和な非番で何よりだ」

羽ペンの件でお礼をするつもりでお茶に誘ったわけだけど、思ったよりも満喫してもらえたようでほっとする。微笑み合い、また話に花を咲かせる。静かな時間はあっという間に過ぎ、日は海へと沈んでいった。
余談だが、この数刻後、私がピスティにお礼と称してスパルトスさんと一緒に再度酒場へ連行されるのは、また別の話である。



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