三人が訪ねてきたあの夜から、あまり眠れない日が続いていた。習慣になったホットミルクを飲んでも落ち着かず、またすぐ忘れる夢を見る。そして、夢を見てもどうせ記憶は戻らない。何も思い出すことはない。
たまに様子を見に来てくれるピスティさんもヤムライハさんもジャーファルさんも、こんな私を気にしてくれているのに。申し訳ない気持ちに拍車がかかる。

『なまえには魔法がかかっていて、恐らくそのせいで記憶がないの。だからそれを解かないと…』
『それじゃあ、私の記憶は――』

直接戻らないのか問うことが出来なくて、項垂れるしかなかった。私を気遣ってくださる三人の声も遠く聞こえて、何とか笑いを返した覚えはある。でも、気付いたら三人はいなくなっていて、いつの間にか朝が来ていた。

これで記憶が戻らない、思い出せないと焦らなくていい。思い出すことに対する不安も解消されると前向きに考えればいい。

――でも、本当にこのままでいいの?

自分にそう問い直すたび、どうしようもない現実を突きつけられる。思い出せないものは思い出せないのだから。ヤムライハさんは絶対に戻らないわけじゃないし、逆をいえば魔法が解ければ記憶を取り戻せると教えてくれた。ただ、その方法を知るための手段が私にはない。

徐に窓の外を眺める。活気に溢れるシンドリア、空も海も蒼く、気持ち良さそうに鳥が旋回していた。平和、とはこういうことを言うのだろうか。不意にコンコンコン、と叩かれる木の音がし、あの鳥の名前は何だっけ、とぼんやりしながら声を返した。

「やぁなまえ、なかなか見舞いにも来れなくて悪かったな」
「え!? シ、シンドバッド様!」
「ジャーファル達から話は聞いていたが……ふむ、怪我は大丈夫そうだ」

シンドバッド様は敢えて『怪我』を主張しているように思えた。今の私はちょっとした言葉の端にでも過敏に反応してしまうというか、単に気にしすぎているだけかもしれないけれど。動揺を悟られないように笑顔を作り、向かい合うようにソファーへ座った。
何か用事があってここへ来られたと思ったのに、シンドバッド様は黙って私を見つめるだけ。どれだけ沈黙が続いても、一向に喋り始める気配は見られなかった。

「えっと…シンドバッド様、今日はどういったご用でしょうか?」
「ん? 用はないよ」
「え?」
「用はないんだ」

シンドバッド様の笑顔を見つめながら、相変わらず掴みどころのない人だと思う。
そういえば、初めて会った時も不思議な人だった。あの時、私はシンドバッド様をフレンドリーな人だと思った。それなのに、今の彼はどうだろう。足を組み、堂々とした面持ちで向かいに座っているこの方を前に、私は初めて会った時よりも緊張している。

「ただ、ピスティやヤムライハだけでなく、ジャーファルまで気にかけている君がどんな子なのか気になってね。もっと話してみたくなったのさ」

愉快だとばかりに笑うシンドバッド様に返す言葉が思い付かず、自然と眉間に皺が寄る。

「そういえば、記憶の件について話を聞いたそうじゃないか」
「はい。でも、思い出せないなら仕方ありませんよね」
「――君は、嘘を吐くのがとても下手なようだね?」

目元と口元が引きつるのがわかる。以前ジャーファルさんに気付かれたこともあるし、どうやら私は彼等の言う通り嘘を吐けない人間らしい。
良く言えば素直、悪く言えば馬鹿正直と言ったところだろうか。嘘が上手いと言われるよりいいと思うけれど、心中は複雑だった。

「シンドバッド様。こういう時は、気付かない振りしていただかないと困ります」
「生憎と、俺は女性を一人泣かせるようなことはしたくないんだ」
「私は泣いてません」
「本当に?」

話を聞いてから、本当に泣いていなかった。泣きたいと思うことはある、というより今だって泣きたいくらいだし、夢を見て朝起きれば泣いていることはある。
それでも、記憶に関することで誰かの前で泣くことはもうしたくない。泣いて心配かけて、迷惑かけて、これ以上誰かの手を煩わせたくなかった。

「今、ヤムライハにこの件を調べてもらっている。ジャーファル達には別方向から、君のことを調べてもらっているよ。もしかしたら、何かがきっかけで解けるかもしれないからな」
「どうして、そこまでしてくださるのですか?」

私を保護したところでシンドバッド様側に何の利益もないし、それどころか厄介事を連れてくるかもしれない存在なのに。
出自もわからない私、何者かに襲われていた私、正体不明の“不思議な力”を持っているらしい私。どんな思惑があるにせよ、間違いなくシンドバッド様は奇特な方に分類されるはずだ。流石、七つの迷宮を攻略した方の思考は簡単に読み取れそうにない。

「俺が“不思議な力”に興味あるのは事実だが、漂流して困っている少女を放っておけなかったのもまた事実。そして、一度保護したのだから俺には君に対する責任がある。いくら俺が自由奔放と言われようと、無責任な人間になるつもりはない。何より、アイツ等に怒られてしまう」



「だから、記憶が戻るまででいい。我が国の食客になる気はないか?」



「食客って……私、シンドリアのために出来ることなんて…」

この身一つでシンドリアへ保護された私が、この国のために出来ることがあるとは思えない。強いて挙げるなら、きっと侍女や使用人くらいだ。それすら、きちんと熟せるか不安が残る。

「ヤムライハの助手を務めてほしい。その魔法を解ければ、それは彼女の知識となり、延いては国の技術となる。そして君には記憶が戻る。当然だが、なまえの協力が不可欠なのだよ。君にとっては悪い条件ではないと思うが、どうだろうか?」
「で、でも、私には魔法や呪いに関する知識はありません」
「これから学べばいい。ヤムライハなら喜んで教えてくれるさ」

この人は、本当に不思議な方だ。私はさっきまであんなに沈んでいたのに、希望もやる気も失いかけて途方に暮れていたのに。こんなにも簡単に、前向きな気持ちにしてくれるなんて。シンドバッド様が何故民に慕われているのか、今なら理由がよくわかる。

にっこり笑うシンドバッド様には、問うまでもなく私が何と答えるかわかっているはずだ。だって、どの道今の私にはシンドリアにしか居場所がないのだから。そして、怖くても不安でも、やっぱり昔のことを思い出したいと願ったから。
差し伸ばされた手を見つめる。残念ながら、直接その手を掴むことは相変わらず出来ない。代わりに、私は精一杯の気持ちを込めて礼をとった。



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