※2章序前に書き始めたのでもろもろの矛盾には目を瞑ってください


これほどまでに台所の似合わない男も珍しいなあ、と紅茶を淹れる後ろ姿をぼんやりと眺めてそんなことを思う。
ふんふんとなにやら鼻唄を歌っているマーリンは嫌に上機嫌で、「なんだか楽しそうだね」と聞くと、「こんなことするのは久しぶりだからね、懐かしい気分なんだ」と返された。
懐かしい、ということは以前にも、眠れない誰かに温かい飲み物を用意してあげたことがあるんだろう。相手はアルトリアかな、なんて考えながら、いつまでもじっと見ているのは悪いだろうと周囲に視線を逸らした。
深夜2時の食堂には私達以外には誰もいない。昼間ならサーヴァントや職員の誰かしらが食事や歓談をしている空間は、ガランとしていると途端に全く知らない場所のような印象で、少し居心地が悪かった。
とはいえ、ここが賑やかだったのも以前の話。サーヴァント達の退去は恙無く進行中で、この食堂も日に日に空席が目立つようになっていた。また明日も、誰かが此処を去るのだろう。
そう考えると、上る朝日が少し恨めしいような気もした。

「よし、出来た!」

その声に、ハッと意識を引き戻す。こちらへ振り返ったマーリンの手にはカップが2つ。そのうち片方を私の方へ差し出して、マーリンは微笑んだ。

「さあ、花のお兄さん特製ホットミルクだよ」
「ありがとう」

冷えた指先にカップの温かさがじわりと沁みる。この役目は前までエミヤだったな、と睡眠不足は体に悪いと小言を言いながらも面倒見の良い赤い弓兵を思いだし、ちくりと胸が痛んだ。
彼ももう、此処には居ない。彼ら英霊は人理を守るという目的のためにカルデアに滞在していてくれたからに過ぎなくて、目的が果たされたその時、在るべき場所に還るのは当然といえば当然の話だ。ならば、容姿も言動もふわふわとした掴み所のないこの男は、一体いつまで居てくれるんだろう?

「マーリンは帰らないの?」

そう聞くと、問われた彼はきょとんとした顔で首を傾げた。
「帰って欲しいのかい?」
「いや、そういう訳じゃないけど」
「そうか、それは良かった」

言葉通り、マーリンは安心したかのように微笑む。その顔を見て、確かに誤解を与える言い方だったなと反省した。
椅子を引き、私の向かいに座った彼は私の言葉の続きを待つように、何も言わずただじっと見つめてくる。失言だと自覚して、言わなきゃ良かったと思っていることを態々掘り返そうとでも言うのだろうか。そのまま流してくれれば良いのに、と思ったがそういえば彼はそれほど大人ではないのだった。追求の気配から逃げたくて、目を合わせることなく誤魔化すように手にしたカップに口をつけた。
「甘っ」
「そりゃそうさ、蜂蜜をたっぷり入れたからね」

口に広がる後を引くほどの甘さに驚く私を余所に、マーリンはどこか得意気だ。

「入れるにしたって、限度ってものがあるでしょ…」
「おや、キミは甘いものが嫌いではないだろう?」
「確かに甘いものは好きだけど!」

そこは事実なのでしっかりと肯定しておいた。そうだろうそうだろう、と頷いて、マーリンはカップの中身を一口飲むなり、

「うん、甘すぎるなこれは」
「だからそういったじゃん!」

自分で作ったくせに何を言ってるんだ。呆れる私とは対照的に、マーリンは楽しそうだ。
とはいえ、飲めないほどの甘さというわけでもないし、好意で淹れてもらったものを無下にするわけにもいかない。ちびちびと口をつけて中身を減らす私の姿を、にこにこ見つめるマーリンをカップ越しに睨んだ。
そもそも、いくら外界との通信が復活したとはいえ、地理的に資源調達を輸送に頼らざるを得ない(その上それが容易ではない)カルデアにとって、蜂蜜は貴重物資だ。それをたかが紅茶一杯に大量に使うなんて、勿体ないにもほどがある。キッチンを支配、もとい管理しているサーヴァントが見たら卒倒しかねないーーと考えて、ああいや、そんな心配はしなくてもいいんだったかと思い返した。いやでも、職員の皆が困るから駄目だろうやっぱり。
私の表情からそれを読み取ったのか、まあまあと宥める身振りで手を振ってマーリンはカップを指差した。

「甘いものは疲れを取るというし、まさしくキミにぴったりの飲み物じゃないか。キミのためだと説明すれば、彼らだってきっと許してくれる……だろう!きっと!!」

後半自分に言い聞かせる口調になったのには敢えて目を瞑っておこう、下手につつくと私にも火の粉が飛んできかねない。それよりも、前半の内容に驚いて、私は目を瞬かせた。

「……私、疲れてるように見える?」
「それは勿論。むしろ以前より消耗しているように見える。隠せているつもりだとしたら、キミは少し私たちを侮りすぎだよ」

誰も何も言わないのは、キミがそこに触れることを拒んでいるからさ。皆心配しているよ。
続いた言葉に図星をつかれ、視線が落ちた。カップの中のミルクに映った自分の顔は、確かに疲労の色が見てとれる。

「思うにキミは少し働きすぎだ。とりあえず、脅威の一つは去ったというのに一体何に追われているんだい?」

歌うかのようにマーリンが問う。私は何から逃げているのか、考えるまでもなく答えはすぐに出てきた。


ゲーティアを倒して、人理は守られた。たくさんの物を得て、失って、我武者羅に走り続けた日々が嘘のように、今このカルデアには平和で安穏とした時間が流れている。
私のために力を貸してくれたサーヴァントのみんなも、既に半数以上が座へ還り、何かと騒がしかった施設内も随分と静かになった。
それを仕方のないことだと理解しつつも、幾ばくかの寂しさを感じてしまうのはきっと、私が大分欲張りになってしまったからだろう。
それでも昼間は、マシュと一緒に特訓をしたり、残ってくれたサーヴァントと素材を集めに行ったり、事務処理に追われるダ・ヴィンチちゃんを手伝ったりして、何となく今まで通りのような日々を過ごしているけれど。
ふと立ち止まるそのとき――そう、例えば夜ベッドに入って暗闇を見つめたときに――否応なしに、ぽっかりとあいた空白が目についてしまうのだ。
今まで当然のように在ったモノが消えてできた穴を、人はどうやって埋めていくのだろう。大きな喪失を経験しないままに成長してきた私には、まだその答えを見つけることができていない。
私にできることはただ、それを見なくていいように、目を瞑ってひたすら走り抜けることぐらいだ。


口に出すと認めてしまうような、それに押し潰されてしまうような、前に進めなくなるような。そんな気がしてしまって、黙りこんでしまった私の返答を、マーリンは根気よく待っている。これはもう、話さなければ解放してはくれないんだろう。私は深呼吸でもするかのように、大きく息を吸ってから、観念して口を開いた。

「私、立ち止まるのが怖いんだと思う」
「怖い?何が?」
「だって、止まってしまったら、どうしても後ろを振り返ってしまうから」

振り向いた先には何が残っているのか。自分が通ってきた道筋の途中で落とした、もしくは喪った、それとも気づかないフリで見過ごした、そんなあれこれが恨めしそうに私を見ているとしたら。一度その視線に射ぬかれてしまったら最後、足下からがらがらと崩れ落ちて、私はきっと二度と立ち上がれない。立てなくなった私を、みんなはどう思うだろう。もうここには居ない、それでもあの時共に過ごしたたくさんの顔を思い浮かべる。
人理に名を遺した英雄たち。こんな場所でなければ関わることもできなかったはずの、素晴らしい戦友たち。歴史を駆け抜け、その生き様を、背中を、鮮烈なまでに私に刻みつけていった彼等は、私のことを嗤うだろうか。臆病風に吹かれた私に失望するだろうか。そんな筈は無いと、言い切ることができるほど私は自分に自信があるわけではない。それに、マシュ。私はマシュに誇れる、頼り甲斐のある先輩でなければならないのに。そうでなければ、犠牲となった人たちにも顔向けができない。胸を張って、背筋を伸ばして、堂々と立っていなければいけないのに。
考えるな、とそう思えば思うほど、背後から伸びるどす黒い手に絡め取られていくようで。漠然とした不安は、形がないくせにやたら重く体にまとわりついて、いつまでも私を離してくれないのだ。
ぽつりぽつり、上手くまとめることもできないままに吐き出されたそんな弱音を、マーリンは最後まで聞いてから、ふっと息を吐いた。苦笑が、抑えきれずに溢れたような吐息だった。

「なぁんだ、そんなことか」
「そんなことって…マーリンにとっては大したことないかもしれないけど、私にはそれなりに真剣な悩みなんだけどなあ」

軽い調子で笑われて、なんだか拍子抜けしてしまった。怒る気にもならなくて、手慰みにカップを両手で包んでみる。
それなりの時間が経ったせいで、中身はすっかり冷えてしまっていて、これでは安眠効果は薄そうだ。せっかくの好意を無駄にしてしまったな、と沈んでいた気持ちに追い打ちをかけられる。

「いやいや、別にキミの悩みを馬鹿にしているわけじゃないよ。見当違いなんじゃないかな、とは思うけど」
「見当違い?」
「マシュにしても、他の英霊にしても、キミの知る彼ら彼女らはそんなことでキミを見捨てたりはしないんじゃないかな、と、そう思うだけさ。…まあ私が、私以外の英霊に関してどうこう言ってもそれは想像に過ぎないし、キミが信じることができないというのならそれは仕方ないことだ。だから、一つだけ、私がキミに伝えられる真実を教えてあげよう」
「真実って?」

お得意の、勿体ぶった言い方だった。まるでおとぎ話をせがむ子供のように、私は続きを促す。

「それはね、名前。キミがここにいる限り、私はここを離れるつもりはないということさ」
「つまり、アヴァロンに帰るつもりはないってこと?ここに居たって、もう何も起こらない、それこそ退屈な日常だけしか残っていないかもしれないのに?」

まあ、そういうことだね。と、マーリンはこともなげに同意した。

「いつかキミに言っただろう。私はね、キミの紡ぐ物語のファンなんだ。その物語の内容が、輝かしい英雄譚であろうとなかろうと関係ない。重要なのは、主人公がキミだということ、ただそれだけだ。それを最前列で鑑賞できるこの機会を、私がみすみす手放すわけがないと思わないかい?」

なんだそれは。得意げに語る内容はどこまでも馬鹿げていて、自分勝手で、呆れて物も言えない。

「私はキミの傍に居る、例えキミがそれを望まないとしてもね。もし他の英雄たちがキミのことを見捨てたとしても、私だけは最後まで、キミの味方であり続けることを約束しよう」
「…なにそれ、マーリンは私のこと甘やかしすぎじゃない?」
「可愛い可愛いマスターくんを、甘やかしたくて仕方がないのさ。なんてったって僕はキミのファンだからね」

言葉とともにぱちり、とウインクをひとつ。無駄に造形の良い顔でそんなことをされて、絵にならないわけがない。いや、この男はそれをわかってやっているのだから性質が悪いだけなんだけど。それなりに長い付き合いで、マーリンがろくでもない男だとわかっているのに、その言動に少しだけ照れてしまった自分がいることが癪に障った。

「さあ、それを全部飲んで今日はもう眠るといい。不安も、恐怖も、何も感じることはない。夢なんて見ずに熟睡できるさ――私が保証しよう」

夢魔である彼の言葉は保証というより確約だ。ここのところ、悪夢を見がちだったことも、きっとマーリンは知っているんだろう。
「気づいてたの?」と問えば「なんのことかな?」とはぐらかされた。私が言う気がないのを知って、聞かないでいる。私は、マーリンに甘やかされている。
この甘さはきっと毒だ。慣れてしまえば離れられない、じわじわ浸食していく恐ろしい毒。どろりと舌に絡みつくようだと思ったミルクも、こうやって平気で飲み干してしまえるように。それが私にとって良いことなのか、悪いことなのか、それは今の私にはまだ分からないけれど。

「…ご馳走さま。じゃあ、おやすみ、マーリン」
「ああ、おやすみ。名前」

空になったカップを置いて、私は立ち上がった。見送るマーリンに手を振って、食堂を後にする。
自室に戻ると、すぐにベッドに潜り込んだ。冷えていた布団が、体温で暖かくなるにつれて瞼がどんどん重くなってくる。ここ最近は訪れることのなかった穏やかな微睡みに身を委ね、私は目を閉じた。
――ああ、きっと今日は朝までぐっすり眠れるだろう。



(オフィーリアの光を浴びて)