それを見かけたのは、偶然だった。
反逆軍の砦にある、一番高い物見櫓。高いところへ行けば行くほど吹き付ける風が強くなるのは自然の摂理で、つまり砦の中で一番寒い場所である。
そこへ向かったのは見回りの役目が回ってきたからだ。裏を返せば、そんな理由でなければ誰も好き好んで訪れたりはしない場所。
そんな場所にわざわざ訪れるのだから、やはり旧種の考えることはよくわからない。
最初にパツシィの胸をよぎったのはそんな感想だった。
吹き付ける吹雪にその身をさらしながら、旧種の娘――名前はそこに立っていた。
向ける視線は遥か彼方。吹雪の合間に何か見えるのかとその視線を追ってみたが、ヤガであるパツシィの視力をもってさえも何も見えず、旧種であれば猶更だろう。
もしかしたら、魔術師という生き物にはヤガにも見えないものが見えるのかもしれない。
だが、いつだったか、自分はそういったことには疎いのだと名前本人が言っていたのを思い出し、それも違うだろうなと否定する。
名前は一人だった。いつもは誰かしら―それはマシュだったりアヴィケブロンだったりビリーだったり、その時によってさまざまだが―が傍についている印象があったので珍しいなと思う。
その珍しさが違和感となるのか、一人佇む名前の横顔を見ているとなんだかもやもやとしたものが心の中に広がる気がして、それが気持ち悪くて、パツシィは思わず声をかけた。

「何してるんだ」

そこで初めてその存在に気付いたのだろう、名前は驚いたように肩をびくりと震わせて、それからパツシィの姿を見て、へにゃりと顔を緩ませた。

「パツシィさんだ。見回り?」
「ああ」

名前はパツシィの問いには答えなかった。仕方がないので名前の傍に行って、先ほどまで視線を投げていた方を見やる。やはり、パツシィには何も見えない。

「何か見てるのか」
「ううん、何も見えないよ。ちょっと考え事をしてただけ」

会話が終わってしまった。
はぐらかされたような気もしたが、これ以上踏み込む気にはなれず、とはいえ無言の空間は少し気まずくて何か会話の糸口を探す。

「一人でいるの、珍しいな。俺にはよくわからんが、サーヴァント?ってやつはお前といつでも一緒にいるもんじゃないのか?」
「うーん…絶対そうじゃないといけないって決まってるわけじゃないよ。誰だってたまには一人になりたいときもあるだろうし」

お前にとって今がその時なのか、とは聞けなかった。もしかしたら、自分もここにはいない方がいいのかもしれない。
そう思って、じゃあな、とパツシィはその場を離れようとしたその時、ふいに名前が口を開いた。

「パツシィさん、ここは寒いね」
「…そうか?まあどこだって寒いは寒いだろうけどよ」

確かにロシアは寒い。それでも今日は普段に比べればまだまだマシな方だ。
そもそも寒いと思うならこんな外じゃなく、砦の中にいればいいんじゃないか。
そんなことを考えて怪訝そうな声音になったパツシィに名前はくすくすと笑った。

「パツシィさんには毛皮があるから、寒くないのかもしれないな」

私はほら、こんなだから!と名前が自分の頬に手を当てる。毛皮のない、つるりとしたその皮膚は寒さのせいか少し赤くなっていた。
確かにこれは寒そうだ、とパツシィは深く考えず名前の頬に手を伸ばした。
つるつるしていて柔らかいそれにパツシィの手が触れる。ふにゃりと押し潰れた頬は、パツシィが少しでも力を入れてしまえばすぐにでも引き裂けてしまいそうなぐらい、心もとない。
旧種というものは、名前は、こんなにも脆いのか。
頭では理解していたことだが、実感を伴ってしまえばそれはただただ恐ろしく感じた。弱いということは、この国ではそれだけで悪だ。そんなものが、自分の目の前に普通に存在していることが恐ろしい。
パツシィが本能的に手を引くそれよりも少し早く、パツシィの手の上に名前が自分の手を重ねた。

「パツシィさん、温かい」

柔らかいものに、自分の手を挟まれる。下手に動けば怪我をさせてしまいそうで振りほどくこともできず、パツシィはただただ固まるしかなかった。
名前にとって、パツシィの手は恐ろしいもののはずだ。自分を簡単に壊してしまうことのできる凶器に近い、そのはずだ。それなのにどうして自分からそれに触れることができるのか。どうしてそれを恐れないのか。ヤガよりも遥かに弱っちろい生き物のはずなのに、どうしてそんなに強く在ることができるのか。ヤガにはできないことを、軽々とやってのけるのか。どうして、そんな幸せそうに笑っていられるのか。
パツシィにはそれが理解できなかった。理解できないものは恐ろしい。だから、パツシィは名前が恐ろしい。クリチャーチや、ジャヴォル・トローンや、オプリチニキよりも、苗字名前という小さなヒトが。
恐ろしいはずなのに、もっと知りたいとも思う。へらりと笑う皮の下に隠されてしまった弱さを、暴いて晒したい。一人で立っていた名前の横顔にその片鱗を見つけてしまった以上、そうせずにはいられない。
――弱いくせに強がっているこの娘を、自分たちと同じところまで引き摺り下ろしてしまいたい。
そうすればきっと、証明することができるのだ。ヤガもヒトも本質は変わらないのだと、自分たちは間違っていたんじゃないんだと。
さきほどに感じたもやもやの正体は、恐怖と好奇心と、ほんの少しの哀れみだ。
パツシィの内心など知るよしもなく、名前は未だにパツシィの手に頬を寄せふわふわだーなどと呟いている。その小さな体を見下ろして、ざわざわと沸き立つ感情に一体なんと名付けるべきなのか、パツシィは答えを出せないままだった。



(足元にあるちっぽけな足)