月に一度の審神者会議を終え、本丸へ帰りついた頃にはすっかり日も暮れ辺りは薄暗くなっていた。
本当は昼過ぎにでも帰るつもりだったのに偉い人というものはなぜあんなに話が長いんだろうか。内心うんざりしながらも、それを真面目な顔で聞いていなければいけないというのが更に面倒臭い。
なんだか表情筋が固まってしまったような気がして、軽くマッサージをしながら本丸の玄関を開く。
一歩足を踏み入れて、最初に覚えたのは違和感だった。
「ただいまー」と声をかけたにも関わらず、返ってきたのは静寂だけだ。
いつもなら出迎えに来てくれる短刀達の足音も、庭で誰かが稽古をしているような声も、多くの人物が暮していれば必然聞こえるはずの生活音すら聞こえない。
普段は騒がしいぐらいの本丸がやけに静まり返ったその様子は異質で、見慣れたはずの風景も不気味に映る。
初めは鶴丸辺りがサプライズでも仕込んでいるのかと疑ったけれど、ここまで大がかりなものは仕掛ける前におそらく一期一振辺りの常識人が止めるだろう。
「…ただいまー、帰ったよー…?」
ありえないとは思いながら、私が帰ってきたことに気づかなかった可能性も考慮して、もう一度気持ち大きめ声量でそう声をかけてみるも、やはり何の反応も得られない。
靴を脱いで、廊下を歩く私の足音だけがやけに大きく響き、それが更に恐怖心を煽る。
「おーい…みんなー…? …どこにいるのー?」
言い知れない不安を振り払うようにやたら声を上げながら、普段ならだれかしら居るはずの広間を覗いた私は、そこに広がる光景に言葉を失った。
中で争ったかのように荒れた室内。所々に飛び散るように広がる黒っぽい染み。審神者になるまで平穏な生活を送ってきた私ですら、一目でただごとではないと理解できるその光景に、さあ、と全身の血がおちていくのを感じる。
真っ先に頭に浮かんだのは、ごく稀におこるという、敵勢力からの急襲だった。その被害の多くは深夜と早朝に偏っているというが、ごく稀にだが昼間に襲撃された本丸もあるという。
最近多発をしているから各々気を付けるように、とは、今日の審神者会議で通達されたばかりの事で記憶にも新しい。
刀剣たちは破壊され発見されたものが大半だった、という報告を思い出し、全身の震えが止まらない。
嫌な想像ばかりが頭を駆け巡り茫然と立ち尽くしたのも束の間、皆を探さなければということに思い当り、私は誰も居ない広間を急いで後にした。
誰か、誰か誰か誰か誰か誰か!
生きている人は居ないのか。まだ息のあるものは。まだ救えるはずの子は、どこにも居ないのか。
縺れ、転びそうになる足を必死で動かし、手当たり次第に部屋の扉を見て回る。そのたびに視界に飛び込んでくるのは広間のような惨状だけで、人の姿はどこにも見えない。
「誰か!ねぇ、居るなら返事をして!!」
叫びながら、本丸の奥へ奥へと進んでいく。そうして最後に辿りついたのは、私の執務室と自室へ続く一枚の扉だけだった。
ここに来るまで、ただの一人として出会うことはなかった。この部屋はそこそこの広さはあるとはいえ、私の本丸に居る全刀剣男士たちが人型をとったまま全員入れるほどの広さはない。
それを思うとぎし、と心が軋む。けれど、せめて一人だけでも。一縷の望みをかけてガラリと扉を開いた先、薄暗い部屋に佇む人影に、安堵の息が漏れそうになり、しかしそれは室内の異様な雰囲気にすぐさま飲み込まれることとなった。
後ろを向いているため表情はわからないけれど、この立ち姿は長谷部のものだ。彼は、その手に抜身の刀を持っているように見えた。
ツン、と鼻を刺激する鉄錆の匂い。私が開いた扉から差し込んだ光を反射して、床で何かが鈍く輝いている。
それ以外に変わった点はなく、部屋の中は、今までが嘘だったかのように綺麗に片付いたままだった。それが逆に私の中で違和感を増大させる。
カラカラと乾く喉で絞り出した声は、自分でも笑えるほどに震えていた。
「はせ、べ」
「あぁ、主。おかえりなさいませ。出迎えが出来ず申し訳ありません」
私の声に振り返った長谷部はいつも通りに見えた。いや、この異質な状況の中で、いつも通りということ自体が既に可笑しいのだけれど、少なくとも表面上は、今日の朝、会議に私を送り出したときと同じように見えた。
けれど、その身体の前面はべっとりと汚れ、手に持っていた刀からは未だ赤黒い液体が滴り落ちていた。
私の視線に気づいたのか、長谷部が自分の姿を見下ろして、納得したように頷く。
「驚かせてしまったようですね…見苦しい所をお見せしてしまい申し訳ありません。もうすぐ全て終わりますので、今しばらくお待ちください、主」
何でもないような声音で、長谷部は私にそう告げた。全てというのが何をさしているのか、聞かなければと思うのに、恐怖心が私の口を縫い付けて開くことを許さない。
思わず視線を泳がせた私の目に、鈍色の光が入り込む。目を凝らし、それが何なのかを確認した瞬間、ガラガラと足元が崩れていくような感覚に立っていられなくなり、私は膝から崩れ落ちた。
床に散らばっているのは、嘗て私の大切な仲間であった者たちの、変わり果てた姿だった。
ぼろぼろと涙が頬を伝うのを止められない。目の前に広がる現実を受け入れることは、到底できそうにもなかった。
これは、夢だ。それかもしくは、ひどく性質の悪い、冗談にもならない悪戯に決まっている。そう自分に言い聞かせたいのに、頭の片隅で冷静な自分がそんな筈がないと邪魔をする。
混乱し、座り込んで動けない私の耳に、掠れた声が届いたのはその時だった。
「あ、るじ…?」
長谷部の影に隠れて姿は見えない。けれど他の誰よりも耳に馴染んだその声を、私が聞き間違える筈もない。
「清光!?」
まだ、生きているものがいた。しかも、それが他の誰でもなく清光だったことは少なからず私に希望を抱かせる。
腰をあげ、駆け寄りそうになった私を制したのは、他でもない清光の声だった。
「主、逃げてッ!」
大声に、びくりと身体が止まる。清光を冷たく見下ろした長谷部は、「全く騒がしい奴だ…死ね」と呟くように口にして、地に伏せたその身体に、ずぶりと手にした刀を突き刺した。
バキン、と硬質な音と共に、今までそこに在った筈の清光の姿が掻き消える。
「ッはは!いくら初期刀と言っても、やはり俺には敵わない。ねぇ主、俺が一番主の事を守って差し上げられるんですよ…」
楽しそうに笑う長谷部の姿が信じられない。いや、今まで見てきたもの全てが信じられない。
「さあ主、そんなところに座ったままでは身体を冷やしてしまいます」
長谷部の手が差し出される。身に着けた白い手袋までもが真っ赤に染まっているのを見て、私はようやくこの状況を受け入れた。
私は長谷部を力任せに押しのけて、真っ二つに分かれた清光の元へ向かう。長谷部が驚いたように息を呑んだのが分かった。私の一体どこにそんな力があったのか、自分でも不思議だった。
「あ、ああ…清光…」
「主、そのようなことをしては傷がついてしまいます」
清光を掻き抱いた私の後ろから長谷部が声をかける。心の底から私を心配していることが分かる声音に、かっと頭が沸騰するのが分かった。
振り返り長谷部を睨みつける。どうしてそんな目を向けられるのかわからない、とでも言いたげにきょとんと首を傾げる長谷部の姿に更に怒りが増していく。
「なんで…、なんでこんなこと」
「何故、とは、主も不思議なことを言いますね。主に仇なす不忠者を成敗しただけのことです」
「仇なすなんて、そんなこと!みんながするわけないじゃない!!」
「いいえ、こいつらは主にそのように庇われるべきものではありません」
長谷部はそう言って、床に散らばる破片を指示した。
「分不相応にも主に好意を寄せるような不届き者、主に相応しくはありません。
特に、その、加州清光。一番初めに出会ったからと、主に馴れ馴れしく接し、あまつさえ主から寵愛を賜ろうなどと、付けあがるにもほどがある。このようなものたちが傍に居ては、主にとって毒以外の何物にもなりません。
主には、俺が居れば他には何も必要ないでしょう?
だからそれを、渡してください。そんなものをいつまでも抱えていては、主の御手が汚れてしまいます」
さあ、とこちらに伸びる腕を払い、首を振りながら後退りする。私が下がったぶんだけ、長谷部は距離を詰めてきて、じりじりとその距離は縮まるばかりだ。
そしてついに、「主っ!」と長谷部が私の手首を掴んだ。反射的に「っ離して!」と声を上げ、腕をめちゃくちゃに振り回す。
そうするうちに、私のもつ清光の刃先が掠ったのか、ぴっ、と長谷部のしていた手袋の甲が破れ、一本の赤い線がそこに走った。
「っ!?」
「あっ…」
長谷部が怯んだ隙に、掴まれた手首を振り払う。愕然と見開かれた瞳には、既に私は映っていないようだった。
「あるじ、が…俺に…傷をつけ、た…?俺は…拒絶、されたのか…?」
ぶつぶつと呟く長谷部の様相に、逃げ出すこともできないまま、私はただそれを見つめることしかできない。
耳が痛くなるようなしじまを破り、出し抜けに長谷部が大声を上げた。
「ああああっ!どうして、どうして分かってくれないんですか!俺は、俺はこんなにっ…!」
激昂した長谷部が私の身体を畳へと押しつける。見上げた長谷部の表情は見えないけれど、ぽたぽたと、温かなものが頬へと振ってきた。
「主…主……っ!」
長谷部の両手がそっと私の首へ添えられる。私はここで死ぬのかと、諦めにも似た気持ちで目を閉じたとき、徐々に力が加わっていた長谷部の動きがぴたりと止まった。
「く、そっ……どうして、俺の、邪魔を…」
「……?」
恨めしそうな呻きに恐る恐る目を開く。暗闇に慣れたのか、今度はぼんやりと見ることのできた長谷部の顔は苦悶に満ちていた。
ピシ、と固い物が罅割れる音がやけに響くなか、先ほどとは比べようもないほどの、熱い液体が落ちてくる。
抵抗が無いことを確認して、ずりずりと長谷部の下から抜け出した私は、そこで初めて長谷部に何が起きたのかを知った。
私の腕にしっかりと抱かれていたはずの清光の刀身が、いつのまにか私の手を離れ、長谷部の背へと突き立っている。
どうしてそうなったのか、露程もわからない。何か神懸かり的な力が働いたとしか思えなかった。
何もできずただ成り行きを見届けるだけの私を、今度は長谷部が見上げてくる。その頬には涙の跡が光っていた。
「はせべ、」
「…あるじ、おれは…あなたの……こと、が……」
長谷部が言い終えるよりも早く、バキンと一際大きな音が響き、長谷部の姿が闇に溶けて消えていく。
そしてその後ろ、薄く透けた清光が、折れた自身を手に立っていた。
驚いてその顔を見詰めると、それに気づいたのか清光は困ったように、悲しむように、眉を下げて笑った。そして何もかもが幻だったのだと言わんばかりに、その姿も次の瞬間にはふっと消え去っていた。
清光が、助けてくれたのか。こんな姿になってまでも。再びその刀身を拾い上げても、冷えた鉄の温度しか伝わってはこない。
「う、ううっ…うああああぁああぁぁあああ!!」
誰も居なくなってしまった部屋の真ん中で、私は蹲り声を上げ続けた。
―――数日後、仕事熱心なこんのすけにせっつかれ、私は鍛刀部屋を訪れていた。
事の顛末を報告した私に政府から返ってきたのは数枚の通達書で、無駄に長ったらしいその文章を要約すれば書いているのはただ一つ。
『全ての刀剣を失ったことは非常に残念であるが、できるだけ早急に戦力を整え通常業務へと復帰すること』
審神者界は慢性的に人材不足だとは聞いていたが、まさか喪に服す時間すら与えられないのかと、失望を通り越して乾いた笑いさえ漏れる。
辞めたいと思っても辞めることが出来ない。許されない。この通達を拒否すれば、違約金やそれによって生じる損失その他諸々は残した家族へ請求される。
そんな脅迫めいたことまで書かれてしまっては、一般市民に逆らうことなど出来るはずもない。
通達書と共に送られてきた新しいこんのすけと、鍛刀用の幾何かの資材。
汚れ荒れた部屋も全て綺麗に修復され、外見だけ見れば今までと何も変わらないのに、そこに私とこんのすけ以外が居ないという事実が、私の心へ重く圧し掛かった。
晴れない気持ちを抱えながら、鍛冶師へ依頼札と資材を渡す。
一刻も早くお役目を果たすため、これをお使いください!とこんのすけに渡されていた手伝い札も一緒に差し出した。
煌々と燃える炎をぼんやり見詰めながら、私は誰が来てくれるのかと、そればかりを考えていた。
出来れば、今まで会ったことのない刀剣が良い。そうでないと、どんな顔をして出迎えればいいのかわからない。場合によっては顔を見た途端に泣き出してしまうかもしれなくて、そんなことになれば事情も分からないその彼を困らせてしまうに決まっている。
それは嫌だな、なんて考えていると「出来上がったようですよ!」とこんのすけから声をかけられ、慌てて意識をこちらに向ける。
そして差し出された刀を見て、私は息を呑んだ。
顕現する、長身の影。カソックに似た衣装とひらひら揺れる布と甲冑。光を受け鈍色に輝く短い髪。狂気を孕んだ青紫の瞳が私を射抜く。
「ああ、主。そんなにやつれて…やはり俺が居ないと駄目なんですね。大丈夫です、これからもずっと、俺は主だけのもの。離れることはあり得ません」
硬直する私に向かって長谷部は優しく微笑みかける。
「だから、安心して下さい。ね、主」
ゆっくりとその腕に抱かれながら、もう逃げられないのだと、私は涙を流した。
(私は待っている、この夢から覚めるのを)