03


「んー、美味だ」

船内で温かいコーヒーを至極幸せそうな顔で飲んでいるヤヒロの顔をじっと見つめるミホークは、同一人物には見えんなと胸の内で思った。
無人島で見たヤヒロと今し方目の前にいるヤヒロの顔は、雰囲気からして一八〇度違う。流石の大剣豪であるミホークでさえも少し戸惑っていた。





無人島から出て数日の時が経った。
ヤヒロとミホークを乗せた船は大海原をのんびりと航行中だ。

「で、どこに向かってるんでしたっけ?」
「赤髪の船だ」

***

『赤髪の船にお前を連れて行く』

無人島から出港後、船内に案内されたヤヒロはソファに腰を下ろした。そして、テーブルを挟んで真向いにミホークは椅子を引いて腰を下ろした。
ヤヒロは無人島にいる以前の話を覚えている限り全て話した。対してミホークは黙って聞いてはいたが、怪訝な目を模している。

「ならば、お前は異世界から来たと言いたいのか?」
「そうなる。私だって夢であって欲しいと願うばかりだよ」

はァ……と、ヤヒロは溜息を吐いて力無く項垂れた。

「お前の描く世界地図は妙な世界だ」
「私からすればこっちの方が変な世界だ」

ヤヒロが描いた世界地図をミホークは興味深げに見つめている。その傍らでミホークが出した世界地図を目にしたヤヒロは、東西南北に分割された海って何だ!?と、ただただ茫然自失といったところだ。

「今はこの地図のどの辺りになるんだ?」
「ここだ」

ヤヒロの描いた世界地図から視線を外したミホークは、テーブルの上にある世界地図に指を差した。そこは『GRAND LINE』の文字が印字されている海の上で――。

ぐら…んど……らいん?
その文字に何か引っ掛かりを覚えたヤヒロは眉を顰める。
どこかで聞いたことがある名前だ。いや、聞いたことがあるというのは語弊だ。この名前を知っている。
ヤヒロはハッとして顔を上げた。ミホークは変わらずヤヒロが描いた世界地図を見つめている。だが、ヤヒロの視線に気付くと地図からヤヒロへと目を向けた。

「どうした?」
「ミホーク…さん」
「今更さん付けか」

片眉を上げたミホークは続けて「何だ?」と口にした。
ヤヒロは初っ端からミホークを呼び捨てにしていた。表情一つ変えずに受け答えをしていたミホークだったが、案外内心は穏やかではなかったのかもしれないとヤヒロは思った。

「え、えーと、つかぬ事をお聞きしますが」
「急に丁寧な物言いをされるとは…、おれは警戒すべきか?」
「意地悪だな」
「あァ、気にするな。ヤヒロだからだ」
「それ、どういう意味…?」

この男は何気にこの会話を楽しんでいるように見えるのは気のせいだろうか?
怪訝な顔をしながらヤヒロは気を取り直して口を開いた。

「特攻服の背中にある赤い龍と青い不死鳥を見て、あんたは驚いていたよな? 確か赤髪の者か白ひげの者かって言ってたけど」
「あァ」
「何か関係あんの?」

ヤヒロの問いにミホークは立ち上がると机の引き出しから紙の束を取り出してテーブルの上に置いた。そして、その中から三枚程引き抜いてヤヒロに見せた。
何だこれと眉を顰めるヤヒロに海軍が出した賞金首の手配書だとミホークは答えた。

「この男が赤髪だ」
「WANTED……DEAD OR ALIVE?」

写真よりも英字を見てポツリと呟くヤヒロは、えーっと…、んー…と少しだけ唸ってどういう意味なのかを考えた。
英語等とは縁の無い世界、否、そもそも真面目に勉学に励んだことなんて微塵も無いヤヒロにはそれを明確に理解することは少し難しい。

「DEAD OR……ALIVE……」
「……『生死を問わず』だ。読めないのか?」
「簡単なものなら読める。ただ意味を問われると何となくこうかな程度ぐらいでしかわからんから説明はできん」

片眉を上げたミホークは、ヤヒロが着ている特攻服にある文字を見て成程と合点がいった。

「これがお前の世界の文字か」
「あ、えっと、日本語って言うか漢字だな」
「ニホンゴ? カンジ…だと?」

少しだけ眉を顰めるミホークに苦笑したヤヒロはどう言えば良いかと思いながら口を開いた。

「私の国で使われる言語が日本語って言うんだ」

羽筆を持ったヤヒロは、自分の世界地図の描いた羊皮紙の空いた箇所にサラサラと文字を書いた。

「漢字と平仮名とカタカナを使ってる。こんな風に」

私の名前は真嶋八尋です。
八尋はヤヒロと読みます。
夜露死苦!


適当な自己紹介文をミホークに見せた。夜露死苦だけはご愛嬌だ。
そんで、こっちの文字は――と、手配書に書いている文字を指して「英語って言うんだ」と言った。

「私の世界では英語が共通言語となってはいるけど、世界に出るなんて全く縁の無い私には英語がわからなくても生活に何ら困ることが無かったからな。何となく発音できたとしても、それが何を意味するかまではわからん」
「言葉が通じるというのに、何とも不思議なものだな」
「だな。私もそれは思う」

アハハと軽く笑うヤヒロにフッと微笑を零したミホークは、改めて手配書の写真にトントンと指で軽く叩いた。話を逸らして悪かったとばかりにヤヒロは手配書の写真に目を向けた。あ…、と思わず声を上げそうになった。ヒュッと小さく息を吸ってゴクリと飲み込む。

「この男の名前だが」

ミホークの指先にある男が誰であるのかをヤヒロは否応なく理解した。

「「シャンクス」」

ヤヒロとミホークの声が揃った。途端にミホークが片眉を上げた。

「読めたのか? それとも」
「読めた」

写真を見つめたままヤヒロは即答したが、嘘だろ? マジか?と意識は別のところにあって眉間に皺を寄せた。
赤髪の手配書を手にして見つめる。そこに書かれている懸賞金額よりも通貨の文字に頭の中が真っ白になって眩暈を引き起こしそうになった。

円でもドルでもユーロでもない。
ベリー通貨。

マジだ。やっぱりそうだとヤヒロは心の中で呟いた。

『海賊』、『海軍』、『通貨』、『シャンクス』、『グランドライン』――頭の中に広がるバラバラのピースが繋がって一つの文字がそこに浮かび上がる。

『ONE PIECE』

咄嗟に「読めた」と答えた自分を褒めてやりたい気持ちになった。この世界を漫画で知っているなんてことは言えない。言ってはいけない気がした。
目の前にいるミホークも恐らくこの漫画の重要な登場人物に違いないと思ったからだ。そして、何よりも彼は生きている。生きているのだ。空想世界の人物だなんてとてもじゃないが思えない。

どう考えても現実リアルなんだ。
眉間に手を当てて溜息を吐いたヤヒロが思い出すのは、この世界に来る前の記憶だ。

―― きっと…、私は死んだ。

確証は無いが、あの衝撃は確実に死ぬレベルだった。過去に親しい人物が同じような事故を起こして死ぬ瞬間を目の当たりしていた経験があるからこそわかる。それでも、この手に触れる感触は生前と何ら変わらない。

生きているのだ。
間違い無く、ここで生きているのだ。
これもまた現実――。

「ヤヒロ」
「え……?」
「大丈夫か?」
「……」

顔を上げるとじっと見つめるミホークと目が合った。表情こそ変わらないが、その目はどこか温かみがあるような気がして、思わず喉がキュッと締まる感覚に襲われた。しかし、何でもないと小さく頭を振ってヤヒロは頷いた。

「こっちは? えっと、エド…わー……ど?」
「エドワード・ニューゲートだ」
「長い。わからん。覚えられねェっての」

ついつい愚痴っぽく零したヤヒロは不満気に唇を尖らせた。

「通称は『白ひげ』だ」
「あ、それで」
「何でも良い。この世界にいるなら覚えておけ」

コクンと頷いたヤヒロは、別の手配書を手に取った。

「で、これは……、ぺ…ぺ…お……にくす」

『Phoenix Marco』

「まァァるこ」

Rは巻いた方が良いのかと思ってヤヒロは発音した。途端にミホークは軽くコホッコホッと咳き込んだ。今、絶対に噴き出し笑いを我慢しただろとヤヒロはムッとした。

「何だその発音は」
「くっ……、う、五月蠅いな」

俄かにミホークの肩が揺れている。顔を赤くしたヤヒロは、笑うな! 学校なんざ碌に行ってねェんだからわかるわけねェだろ!?と、怒鳴りたくなるのをグッと我慢した。

「不死鳥マルコだ」
「不死鳥?」

あァフェニックスかと暢気に思ったヤヒロは、「あ、」と今度は声を漏らした。特攻服の背中にある不死鳥が脳裏に浮かんだからだ。
不死鳥と言えば赤い炎を纏う鳳凰の姿が通常なのだが――

『青い不死鳥なんて変わってますね』
『龍が赤いからな』
『青龍にすれば良かったんじゃないですか?』
『良いんだこれで。青龍は初代の代名詞だし、恐れ多いよ』

そんな経緯で青い不死鳥にしたわけで、特に深い意味は無いのだけども、青い不死鳥に敏感に反応したミホークや海賊達を思い出したヤヒロは質問した。

「まさか、青かったりする?」
「あァ、そのまさかだ」
「へ…へェ……」

だからすんなりと青い不死鳥を受け入れたのかとヤヒロは納得した。

「赤い龍は?」
「この男が関係していると言っても良い」
「シャンクスが?」
「この男が乗る船を見れば直ぐにわかる」
「……ふぅん」

全く記憶に無い。それは当然だろう。総長時代に泊まった後輩の家で、本棚にあったワンピースを偶々手に取って軽く目を通した程度でしか読んでいないのだから細かいところまで覚えていない。それに、もう五年も前の話だ。主要人物以外の登場人物まで覚えてなどいない。それは目の前にいるミホーク然りだ。

「あのさ、ひょっとしてミホークも名前が長かったりすんの?」
「……ジュラキュール・ミホークだ」
「こりゃまた大層な名前だな」
「おれのことを『鷹の目』と呼ぶ者が殆どだがな」
「鷹の目……」

ミホークの目を見て最初に浮かんだ『鷹』の文字。あれは強ち間違いじゃなかったかとヤヒロは思ったのも束の間、直ぐにハッとした。

待て……。
た、鷹の目!?

思わずヤヒロはマジマジとミホークを見つめた。

「何だ?」

急に興味深そうに見つめてくるヤヒロの反応にミホークは少しだけ眉を顰めた。徐々にヤヒロの表情が驚きへと変わって目を大きく見開いて固まった。
これは明らかに不自然だ。――そう思えば先程の『Shanks』が読めて『Phoenix Marco』が読めないというのも疑わしいとミホークは思った。

「何か…知っているな?」
「ハッ!? いや! え?」

明らかに動揺するヤヒロに、ミホークは僅かに口端を上げたが直ぐに真顔に戻した。

「赤髪の名を読めたというのは嘘だな」
「な、何でそう思えるんだ?」
「Phoenixが読めずにこれが読めるとは思えん」

『Shanks』

「ヤヒロならば大方『サンクス』辺りだろう」
「ぐぬっ!」

『鷹の目』でミホークの素性を漸く思い出したヤヒロは、流石は世界一の大剣豪だと思った。
緑髪の三刀流剣士(ゾロ)が目標とする男。
ミホークにぶった斬られてたとか、敵だったはずなのに師事を乞う場面があったとか。まるで走馬燈のように記憶が蘇る。
そんな男を前にして平気で生意気な口を利いていた自分をぶん殴ってやりたくなる。

「ヤヒロ」
「うっ……。は、白状…する」
「……」
「けど、これは胸の内に留めておいてくれ。助けてくれたのと、色々と教えてくれた御礼になるかはわかんねェけど、ミホークだから話すんだ」
「他言はせん。信用しろ。おれは口が固い方だ」
「……わかった」

ヤヒロは『ONE PIECE』という漫画の存在を話した。内容の細部までは覚えていないが、海賊、海軍、悪魔の実等々、この世界について大凡の知識があることを説明した。

「……」

予想外だったのだろう。流石に困惑の色を隠せないミホークは眉間に皺を寄せて天井を仰いだ。やっぱりショックだったのだろうかと心中穏やかで無いヤヒロは、堪らずに「その…ごめん」と言葉を漏らした。

「何故…お前が謝る」
「いや、だって、何と言うか……」

膝の上に置いた手をギュッと握ったヤヒロは頭を振ると声を張った。

「この世界のことを書いた本があって知識があるからってそれが何だってんだ。それ以上にこの世界にいるはずのない私の方がおかしい。私がここに存在しているということが一番おかしなことだ」
「……」
「本の中に私の存在は無い。それに元の世界での私は死んでいるかもしれない。いや、きっともう死んでいると思う」

はっきりと言い切るヤヒロに顔を向けたミホークは、僅かに唇を震わせていることに気付いた。
どのような経緯でこの世界に来たのかまでは聞いていない。元の世界で死んでいると語ることから命を落とす程の要因を経た末に起きたことなのだと容易に想像できる。

「何故そう思う」

ゆっくりとした口調でミホークは敢えて問い掛けた。

「事故だ」

答えたヤヒロは更に言葉を続けた。

「あんな事故を起こせば確実に死んでる。私の親しかった人も同じような事故を起こして死んだ。あれで生きてる方が逆におかしい」
「その事故とやらがどういうものだったのかはわからんが」

ミホークは真っ直ぐヤヒロを見つめて言った。

「少なくとも今目の前にいるヤヒロという女は確実に生きている」
「!」
「生きて存在する人物だとおれは思うが? でなければ、おれは誰とこんな話をしている」
「ッ!」

ミホークは僅かにくつりと笑った。思わず呼吸を止めて唇を引き結んだヤヒロは目頭が熱くなるのを感じた。

「あ、ありが…とう」
「涙とは似合わんな」
「ふっ…うっ…五月蝿ェ! こんなでも女だからな!」

零れ落ちる涙を腕で拭いながらヤヒロは声を荒げた。
畜生! 拭いても拭いても涙が止まらねェ!
俯いて何度も何度も涙を拭っていると頭にバサッと何かが落ちて来た。白地のタオルだ。目を丸くしたヤヒロは、それを手にして徐に顔を上げた。
元いた椅子に腰を下ろしたミホークは小窓に映る外界へと視線を向けている。

「泣き顔など人に見られるのは嫌いだろう」
「何で、そう…思う…?」
「お前の為人を見ていれば何となくわかる」
「ッ……!」

ミホークの心遣いに余計に涙が溢れる。気恥ずかしさも相俟って赤くした顔を隠すようにタオルに押し付けて、ヤヒロはボロボロと零れ落ちる涙を拭った。

「世界一の大剣豪……見誤った」

多少落ち付きを取り戻したヤヒロの声音にミホークは漸く顔を向けた。タオルで顔を隠したままのヤヒロにミホークは口端を上げて微笑を浮かべた。

「何をだ?」
「案外、優しいんだな」
「お前にだけだ」
「…………」

―― え?
白地のタオルによる真っ白な視界の中でヤヒロの思考が一時停止した。そして、タオルがバサリと顔から膝へと落ちた。

「それ……何て?」
「誤解するな。女として見ているわけではない。ヤヒロというお前が気に入った。ただそれだけのことだ」
「そ、そっか」

戸惑いながら頷いたヤヒロは、後頭部に手を当てて「アハハ、そうだよな」と照れ隠しで笑った。
しかし、僅かにニヤリと微笑を浮かべたミホークは言った。
「それとも、おれに気があるのか?」――と。

「なっ!? ち、違う!」

顔を真っ赤に染めるヤヒロに満足したのかミホークは冗談だとばかりに立ち上がった。

「さっさと涙を拭え。それから今から向かう先を決めた」
「へ?」
「赤髪の船にお前を連れて行く」
「……ええええっ!?」

予想外の展開にヤヒロは思わず声を上げた。『ONE PIECE』における最重要人物と言っても良い赤髪のシャンクスに会うなんて、俄か知識しかない自分には恐れ多いことで、更にガチファンの方々に大変申し訳無く感じた。そう言えば――後輩の中にシャンクスが大好きな奴がいたなァ――と、ヤヒロは少しだけ現実逃避した。

「お前なら十分に海賊としてやっていけよう」
「で、できればミホークのように個人で旅がしたい」
「この世界の海を知らぬ身でそれは無謀だ。赤髪の元で世界を学び、それでも一人旅に出たければそうすれば良い」
「ミホークが教えてくれたら良いんじゃねェの?」
「生憎そういう性分は持ち合わせていないんでな」

嘘だ。あんたは後々ゾロに剣を教えんだぞ? そこは覚えてんだぞ――と、口にはしなかったが、ヤヒロはジトッとした目でミホークを見つめた。それに対してミホークは片眉と口角を少し上げるとくつくつと笑った。
目を丸くしたヤヒロは直ぐに視線を逸らした。顔が熱い。鷹の目のミホークがまさかあんな笑みを見せるとは思っていなかった。
思わずドキンとしたなんて死んでも言いたくねェと、ヤヒロは赤面した顔を隠すように俯いて何も言えなくなった。

世界を知る

〆栞
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