シェパード・トーン


「額のシワに頼りすぎじゃない?」
 私がそういうと、お姉ちゃんは、なにー、と少しかったるそうに台所からテレビを覗いた。明日のお弁当の仕込み中のようで、手には菜箸が握られている。
「上下どっちから見ても人の顔に見えるやつ。トリックアートみたいなの」
 ぴ、と画面を指さす。テレビは美術番組で、江戸時代に流行ったという騙し絵を特集していた。上下、どちらから見ても顔に見える絵だ。怒ったようにも驚いているようにも見える、そんな表情のおじさんの顔がいくつか並んでいる。
「それがなに?」
「だから、おでこのシワに頼りすぎだよねって」
「反対のとき口に見せなきゃいけないから……、ね、明日早いんじゃないの?」
 はやく寝なさいね、とお姉ちゃんは菜箸で私の顔を指す。行儀が悪いな、と思ったけれど、至極真っ当な指摘に私は素直に従った。
 明日は課外授業で、いつもより一時間ほどはやく家を出なくてはいけない。そして、学校が終わったら、美琴さんとレッスン。休んでる暇はないのだ。



「にちかちゃん。スタジオ、寄っていく?」
 汗ひとつかいていないような、すっきりした顔で美琴さんは微笑みかける。
 レッスン室のうしろが詰まっている時、美琴さんは頻繁に、知り合いのものだという例のスタジオに誘ってくれるようになった。良いステージを作るために。
 ただ、自室に招き入れられているような感覚にも近く、私は呼ばれるたびにすこし舞い上がってしまう。プロデューサーも、念のため場所は把握しているが、入ったことは数回しかないという。そういうのも、少し優越感だった。こんなことを思っているのがバレたら、恥ずかしい。私はつとめて平静に、いきます、と答えた。

「入って」
 重たい扉を開くと、スタジオは蒸すような暑さだった。地下だから熱がこもるのだろうか。美琴さんはエアコンをつける。
「部屋冷えるまで、休憩にしよう」美琴さんはそう言って、冷蔵庫からペットボトルを取り出した。「水しかないけど」
「あっ、ありがとうございます! でも、自分のあるので……!」
「冷えてるの、飲みたいでしょ」
「じゃあお言葉に甘えて……」
 いただきます、と言うと美琴さんは大袈裟、と微笑んだ。飲み始めてみると、自分で思っていたより、渇いていたようだった。するすると、冷えたボルヴィックが喉に流れ込んでいく。
「すごい勢い」
「あっ、すみません!」
「ううん、そんな」
 また、美琴さんは子どもを見るような顔で笑う。年齢差があるのは仕方ないけれど、もどかしい。自分が、誰の前よりも一番美琴さんの前で落ち着かないのは、よくないような気がするのだ。
 ごまかすように、あたりを見回す。音楽関係の本や雑誌、機材の数々は変わらない。もしかしたら、本は少し増えているかもしれない。ただ、それよりも小山のようになっている衣類たちのほうが増えていた。
「…………」
「……つい、ためちゃうね。あとで洗濯する」
「あ、いえ。不躾にすみません……」
 やっておきましょうか、と喉まででかかった言葉を飲み込む。そこまでするのは、ちょっと違うのかも、と思った。
 この前、スタジオを出た並びの部屋に、立派なドラム式洗濯機があるのを見かけた。シャワールームも隣接しているし、小さいながら冷蔵庫もある。
 スタジオ、とはいうけれど、おそらくここでの寝泊まりもかなり頻繁にあるだろうことは、衣類の山や毛布の存在から感じ取れた。そして、ちょっとだらしなめの生活を送っているらしいことも。それは生活を整えるより優先したいことがあるから、なのだろうけれど。
 冷蔵庫の中身だって、いくつかのペットボトルと、ヨーグルトしか入っていなかった。おかずの作り置きとかしたいけど、それもやり過ぎだよなあ、でも、美琴さんほっておいたら本当に食べないし。うーん、と考えこんでいると、ポーン、とピアノの音がする。美琴さんの白い指が、鍵盤をひとつ弾いた音だった。
「あ、はじめますか」
「ううん。もうちょっと休んでていいよ。少し、弾きたくて」
「そうですか……」
 そう、と返事すると同時に、美琴さんはピアノを弾きはじめる。聞いたことのない曲だった。私はソファに座ったまま、ピンと伸びた美琴さんの背中を眺めていた。
 似たようなメロディが繰り返し、走るような速さで奏でられていた。単純な繰り返しなようで、複雑に音の大小と高低が絡んでいく。そして、フレーズが繰り返されるたびに、音が高くなっていく。美琴さんの指は機械のような正確さと速さで以って、黒鍵と白鍵を行き来する。
 どんどん、どんどん、音が高くなっていく。無限に高くなっているような、そんな錯覚にとらわれる。音がどこまでも上昇しているように聞こえるのは、なぜなんだろう? 鍵盤の数は有限なのに。ただ、ぐるぐる繰り返される音の上昇に、耳を傾ける。美琴さんの表情は、こちらからは伺え得ない。なんて曲なんだろうーーそんなことを考えたまま、私は眠りに落ちてしまった。


「にちかちゃん?」
「……はっ!? えっ、あっ、すみません……! 私、寝ちゃうなんて……!」なんて失態だ! 私はあわてて時計をさがす。「今何時ですか…!?」
「ううん、寝てたの、ほんの十分くらい。私が弾いてた間だから」
「いや、でも……」
「少し、疲れてるのかも」
 最近暑いし、と美琴さんは付け足す。ピアノ椅子に座ったまま、ソファで寝こけていた私を見て微笑んだ。たしかに、私がこんな様子じゃ子どもに見えても仕方がない。なんで寝ちゃったんだろう? せっかく、美琴さんがスタジオに呼んでくれたのに……。
「あんまり子守唄向きじゃないと思うけど、今の曲」
「う……。すみません」
「ああ、ううん。それだけ疲れてたんじゃない?」
「そんな……」
 そんなこと言ってる場合じゃないのに、と、まだ習得できていない複雑なターンを思い返す。美琴さんはいつだって完璧に決めるターン。回って、止まって、また回る。それだけのことなのに、私がやると決まらない。
 私の落ち込んだ声に、美琴さんもどうしたものか、という顔で眉根を下げた。また困らせてしまった! 私は慌てて別の話題を探す。
「……あっ、あれ、今の曲。なんて曲ですか」
「え?」
「どんどん音が高くなってて……。不思議でした。無限に上がっていくような感じがして」
「そう? ありがとう」
「えっ……ひょっとして、美琴さんのオリジナルですか?」
「そんな、大したものじゃないけどね。指遊び用に」
 美琴さんがふたたびピアノに向き合う。そして、私をピアノのそばに呼び寄せた。手元を見せてくれるだけ、と分かっているのに、なぜか私はちょっとどぎまぎしてしまう。
「上昇音階を変奏していくーーいくつかの音を、オクターブずらしたまま高くしていくの。で、低い音を小さく入れていくのね。真ん中の音を大きくして、高い音は小さくする」
 こんな感じ、と美琴さんは先ほどより少しゆったりとしたテンポで、再現してみせた。正直、指の動きを追うのに夢中で、言っていることの半分も理解できていない。ただ、嘆息してしまう。
「人の耳は騙されて、どんどん上がってるように聞こえるんだって」ぽん、と跳ねるように最後の音を弾きあげる。「……騙された?」
「はい! すごいです……」
「ふふ。じゃ、帰る支度。そこまで送るよ」
「え!? 練習……」
 美琴さんはうーん、と小首を傾げる。鳶色の眉が、困ったように寄った。
「にちかちゃん、疲れてる。すこし顔色も悪いし。しっかり寝た方がいいよ」
「で、でもそれじゃあ、スタジオせっかく来たのに……!」
「…………」
 黙り込む美琴さんを前に、あ、やってしまった、と思う。困らせている。疲れている時に練習しても、集中できないし、効率が悪い。分かっていることなのに、つい口をついて出てきてしまった。すみません、帰ります、と言おうとして、美琴さんがパッと顔を上げた。
「ーーあぁ、あれ、持って帰ったら?」ええっと、と思い出すようにふたたび小首を傾げる。「そう、スチームアイロン。この前言ってたでしょ?」
「あっ……」
夏フェスの打ち上げで、私が欲しいと言ったゲームの景品だ。使わないからあげるよと言われていたけれど、タイミングもなく、受け取れていなかった。
「ここに置いてあるはずだから」
「えっと……」
「今日はそれ持って帰るために寄った、で、いいじゃない?」
「…………」
 突然の提案に、思わず黙りこくってしまった私に、美琴さんは改めて向き直る。いつにも増して真剣な瞳で、私を捉えて、離さない。
「ゆっくり寝て、明日じっくり練習したほうが絶対いい」
「絶対、ですか」
「絶対。良いステージのためには」
 鬼気迫るほどの表情に、私はついたじろいでしまいそうになる。でも、気圧されていちゃダメなのだ。私は、私だって、SHHisなのだ。
「……わかりました!」
 私が、なるべく元気に聞こえるように答えると、美琴さんはやはり、子どもを見るような顔で笑った。ともかく、今は、これで良い。


「……ちょっと待って。あるはずだから」
 スタジオの横の部屋、どうやら物置となっているらしい部屋を五分ほど探索した美琴さんが出てきた。目当てのそれが見当たらないらしい。
「あの、……私も一緒に探します」
「ほんと? ありがとう。段ボールに入ってるはず。パナソニックの」
 これくらい、と大きさを手で示す。私は壁全面を見渡して、ちょうどよい大きさの、パナソニックの段ボールを探した。こういう作業は、結構得意だ。バイト先のバック業務では段ボールに囲まれた仕事もしている。
「あ、ありました!」
 指さすと、美琴さんが早いね、と微笑んだ。なんでもないことなのに、少し照れてしまう。誤魔化すように段ボールを取り出して、手前に置いてみせる。段ボールには「天地無用」とシールが貼られていて、けれど、上下逆さまに保管されていた。
「……思い切り反対にしちゃってた。ごめんね」
「いやいや……! 私こそ、いただいちゃって、その……」
「使わないから。頂き物なんだ、それも」
「はあ、あ、でも、本当にありがとうございます!」
 もう一度深いお辞儀してみせると、ほこりが舞い上がったのか、鼻がむず痒くなった。くしゅん、くしゅん、といくつかくしゃみが出る。
「……ふふ、余計疲れさせちゃったかも」
「こ、こんなのバイトで慣れっこですから!」
CDショップで働いてるんですけど、と付け足すと、美琴さんは知ってる、と頷いた。そうだった。ただ、私のことーーSHHis以外の私のことなら、何度伝えても伝わっていないかもしれない、なんて不安になってしまう。
「バイトもあるんだったね……、それは疲れるね」
「あ、いや今日は課外授業で、朝早くて」
「課外授業?」
 耳慣れない言葉を聞いたように、美琴さんは不思議そうな顔をした。倉庫からスタジオに戻り、美琴さんはふたたびピアノ椅子に腰掛けた。ピアノには背を向けて、私の顔を見ている。ちょっとどきっとしてしまう。私は、そんなの絶対バレないように、いつも通り話し続ける。
「はいー。班ごとに行き先決めるんですけど。工場見学とか、博物館とか美術館とか……。私達は海洋博物館に」
「水族館、みたいな」
「うーん、もうちょっと、お勉強って感じで。海底の生物環境? とか……」
「ああ、そういう……」
 会話が途切れたところで、見計らったように私と美琴さん、2人のスマホからポン、と音がした。プロデューサーから、明日のスケジュールをリマインドするLIMEだった。美琴さんは昼から講師とのダンスレッスンと、ボイストレーニング。
 私は、放課後にラジオ番組のゲスト出演。最近増え始めている、私だけが呼ばれている仕事だ。また、と少し喉が狭くなるような思いがあった。何を言おう、と迷っていると美琴さんが片頬を緩くあげて笑う。
「にちかちゃん、明日、ラジオあるんだ」TBSか、とLIME画面をスクロールする。「曲、流してもらえると良いな」
「あ、はい、それはたぶん……」
 あるはずです、と続けようとして、うまく言葉が出てこない。じゃあ、なぜ。二人の曲が流れるならば、なぜ。誰もそんなことを口にしていないのに、自分から溢れる疑問に息苦しくなって、話題を変えよう、とあたりを見渡す。衣類の山。機材。本。ピアノ。
「あっ! えっ、と。ダイバーさんが……あ、今日聞いた話なんですけど。博物館で……」
「え、うん?」
 私の急な話題転換に、美琴さんは少し驚いたように目を見開く。私は、とにかく話題を逸らそうと話を続ける。それしかできないのだ。
「深いところまで潜水すると、泳いでるうちに上下わからなくなることって、結構あるらしいんです。自分は海面に、上に上がっていってるつもりが、実は下がっていっちゃってた……っていう水難事故……っていうんですかね。そういうの、たくさんあるらしくって」
「ふうん……?」
 かわらず不思議そうな顔をする美琴さんに私は、誤魔化すように手をぱたぱたと振る。
「さっきのピアノの曲の話聞いて、思い出して!」えっと、えっと、と次の言葉を探す。「その話、こわいよね、って、盛り上がって……」
「ああ、……」美琴さんはやはりやさしく微笑みながら頷いた。私の顔を見ている。私の顔を見ているけれど、本当に見ているのは、ここではないどこかのような。そういう、表情だった。「深い海は、光が見えにくいから」
「あ。はい、そうなんですよ」
「本当に、怖い」
 濃い鳶色の瞳は、やはり美しくて、遠く深くを見つめている。美琴さんは先程のフレーズを一回だけ弾いて、そして、やめる。いこうかにちかちゃん、と笑った。私は、はい、と応える。夜は更けて、あたりはもう真っ暗だった。
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