川が至る先は海


 樋口円香にとって自分自身かもしれなかった女の子が死んだのは、小学校六年生、十一歳の夏のことだった。この年の夏はやたら雨が降り、いつにもまして蒸す陽気だった。つい二日前にも彼女の住む町に流れる川が、氾濫の寸前まで及んだ大雨が降ったばかりだった。
 三日後に一学期の終業式を控え誰もが浮足立っていた日の帰りの会で、担任はいつものように平坦な口調で話し始めた。隣の学区で、小学生の女の子が遊具から落ちて亡くなってしまった。あなたたちも充分に気を付けて遊ぶように。この話題はそれだけで終わり、担任は夏休み中のプール開放日へと話題を変えた。
 円香はランドセルに差し込んだソプラノリコーダー袋の白い縁をなぞって、その女の子がどんなふうに、どうして死んでしまったのかばかりを考えていた。そのことはもうずっと、十七歳になった今だって彼女の頭から離れないでいた。




 白紙の進路希望調査書を二枚並べ、樋口は一枚に自分の名前と、実家から通える距離の大学をいくつか書き記す。もう一枚は彼女のものではないので裏返して伏せた。そうしたところで、ノックの音が二回響く。はい、と彼女が応えると透の母がおぼんを片手に入ってきた。いつもありがとね。そう言ってからジュースがなみなみ注がれたグラスをふたつ、少し危なっかしい手つきで部屋のローテーブルへ移した。ピンク色のそれとブルーのそれは、昔から浅倉家で使われているグラスだった。
「外暑かったでしょ。日が長いから」
「ありがとうございます」
 円香はピンクの方を手に取って口をつける。グラスの中身はカルピスだった。ひさびさに飲んだそれはどこか懐かしい味に思われた。透の母は空いたお盆を脇に抱えて、正座を崩さない。
「久しぶりです、これ」
「ほかにもあるの。ぶどう味とか」
 お中元の時期だから、と付け足して透の母は手をつけられていないもうひとつの、ブルーのグラスを見つめている。円香はグラスを手に抱えたまま言葉を探していた。
「透、掃除当番?」
「事務所、だと思います」
 そうなの、と続けて透の母は視線を先ほどまで円香が記していたそれにやった。それからもう一度グラスに目を移す。円香は、高校は掃除当番がないことを言うべきか迷っていた。業者がやってますよ。そして、やはり言わずに彼女はカルピスをもう一口飲んだ。
「円香ちゃんは?」
「今日はなんか、あれなんで」
「そう」
「……おばさんは、飲まないの?」
 テーブルに置かれたグラスを指して彼女が言うと、透の母はゆっくりと首を振った。おとなだから。そう呟いておぼんを抱えなおして部屋を出ていく。大人だから、という言葉をかみしめながら円香はもう一度手付かずのブルーのグラスに目をやる。誰も手を付けていないそれは、当然なみなみと注がれたままだった。
 円香は先ほど書きあげたばかりの希望調査票をふたたび手に取った。高校二年の七月上旬、だんだんと進路の話題が出ることが増えてきている。一学期修了前の進路希望調査。これをもとに来週には進路指導担当との面談が行われる。
 一年半後、高校を卒業する。そのあとは当たり前のように四年制大学を進学するつもりであったし、今のところそれを変える予定もない。けれど、もしかしたら何かが変わってしまう予感は少し前、具体的には春先から訪れ続けていた。
 しかし円香にはどうもアイドルを生業としていく未来がいまだしっくりこなかった。五年後はいざ知らず、十年後ともなれば自身がステージに立っているのはあまり現実的ではないように思われた。アイドルってそういう職業だという緩やかな諦念とともに、調査票には偏差値が六十前後の大学を並べる。十年後、三十手前になった自分がステージに立っている姿よりかは、どこかのオフィスで仕事をしている姿を想像する方がまだ容易い。
 書き終えた調査書を鞄に仕舞い、カルピスを少しずつ飲みながら彼女は透の帰りを待った。なにか映画のDVDでも再生しようかとテレビ台に並んだそれらを順々に手に取っていく。ジャンルは雑多で、洋画も邦画もアニメも関係ない。すべて五十音の順に並んでいた。結局、劇場版『あたしンち』から『レオン』までDVDの背を指でなぞって、見たいものはなかった。ちなみに『レオン』はジャン・レノとナタリー・ポートマンのそれではなく、竹中直人と千英がW主演をつとめた邦画で、『あたしンち』は2003年公開の第一作目であった。
 そして、それらの横に見慣れない不織布の袋が置かれていた。すこし躊躇したもののテレビ台に置かれているならと中身を覗くと、DVDが二本入っていた。大手芸能事務所、346プロ所属のアイドルたちのDVDだ。ツアーを記録したものとドキュメンタリー映画の二本。ジャケットにはそこの代表格とされるアイドル達が数人写っていた。
 円香は透から聞いたことがあった。曰く、プロデューサーから宿題としてこうしたアイドルに関連するDVDの感想を課されているらしい。日誌といい、あの燃費の悪い熱血が透にやたら思いを言葉にするのを求めることに、円香は言い知れぬ居心地の悪さを感じていた。
 ツアーDVDを再生すると、舞台裏を駆けるアイドルたちの映像とともに彼女たちの代表曲ともいえるそれのイントロが流れはじめた。ステージにあがっていく姿にツアーのロゴが浮かび上がり、画面が切り替わる。そうしたところで部屋の扉が開いた。時刻は十八時半だった。
「あ、樋口」
「……おかえり」
 うん、と透は頷いてスクールバッグを肩にかけたまま円香の隣に座り込む。画面を見て、あ、と呟いた。
「これ、プロデューサーから渡されたやつ」
「もう見たの?」
 円香は内心驚きながら返答を待った。中身が半分ほどに減ったピンクのグラスと、並々と満ちたブルーのグラスが置いてあるのに、透は目をやる。
「昨日は録画した金ロー見てた」
「コナン?」
「や、『君の名は。』」
「どっち?」
「どっちって?」
「……今週、何やるの」
「んー、……忘れた。一緒に見る?」
「なんで?」
「え? 明後日、夜、用事あるの?」
 考えとく、と円香が返事をすると透はそっか、とテーブルにもう一度目を向けた。おいてあるコップいっぱいのカルピスを手に取ってから、飲まずに戻した。
「嫌いだっけ?」
「飲むけど」
「これ。わすれてったでしょ」
 調査書を渡すと目を見開いて新鮮な顔をしてみせる透に、円香はため息が出そうだった。ホームルームなんか半分も聞いていないに違いないのだ。こんなんでよく今までやってこれたなと毎度思うが、そのための尻拭いをさせられているのが誰かに行き当たってはそう考えるのはやめてしまう。だから、彼女は毎度そう思ってしまうのだ。
「なに書こうかな」
 円香は透の調査書を落書き帳かなにかと勘違いしているとしか思えない発言に呆れながら、画面に目を戻すとステージは進んでいた。アイドルが数人、ダンスミュージックにあわせて衣装を跳ねさせてはニコニコ笑っていた。
「あ、この人、この前会ったね」
 透が画面を指さした。何人ものアイドルが映っており、それが誰か円香には分からない。
「どれ?」
「あの、ほら。今うつった」
「書いたの?」
「ん? ほら。みんなで昼に巻き寿司食べた日の撮影」
「は?」
 二つのグラスのうち、ブルーの方はまだ、やはり満ちたまま。透はリモコンに手を伸ばしてクーラーのスイッチを入れた。
「雑誌の撮影。樋口もいたじゃん」
「いや、なに、寿司って」
「え、カリフォルニアロールだったでしょ。覚えてないの? って、今の、いつもの樋口みたい」
 ふふ、と笑いながら透は画面から目を離さない。円香はそんな彼女の、まだ幼さがわずかに残る横顔がやたら遠く見えた。今まで、知り合ってからもっとも遠くに。ブルーのグラスが部屋の電気を反射する。
「何、書くの」
「ん?」
 透は画面の中でステップを刻むアイドルの足元を見て、すごいな、と独り言のようにつぶやく。何を言っても無駄だと分かった円香はDVDプレーヤーのリモコンを手に取って、停止ボタンに指をかけた。けれど、結局停めずに自身もそれを見ることにした。空白の調査書を目に入れないようにして、ピンクのグラスを手に取る。
「この子、このときデビューして一年も経ってないんだって」
 ステージの右端で歌い踊る、鮮やかな髪色のアイドルを指して透が言う。その子は、円香も名前と顔くらいは知っていた。詳しい活動は知らないけれど、テレビやネットで話題に上がることも多い。事務所でも一緒に仕事をしたことがある芹沢あさひが、面白い人だったっす、と言っているのを聞いたことがあった。
「へえ」
「めっちゃすごくない?」
「すごいけど」
「樋口、半年後に名古屋ドームでライブ、って言われたらどうする?」
 透がいたずらっぽく笑う。ブルーのグラスの中身は減っていない。
「……夕飯、食べてっていい?」
「今日、ビーフストロガノフ」
 もうすぐ出来上がるって言ってたよ。透はそう続けて、スクールバッグをようやく肩から降ろした。そして手洗ってくる、と階段を降りて行ったので円香もそれに続いてリビングへと出た。透の母はちょうど鍋をかけていた火を止めたところで、円香は配膳を手伝うことにした。
「お皿、白の深いやつでいいですか」
「ありがとう。座ってていいのに」
「……いや、さすがに」
 円香は深皿を三枚とスプーンを取り出す。浅倉家の食器棚の配置について彼女はそのほとんどを把握していたし、カトラリーに関しては彼女専用のものまで用意されていた。
「昨日また、樋口さんにあれもらったのよ」
「生ハム?」
 円香の母親は昔から、しばしば隣人に食品や雑貨を贈る。最初は娘が頻繁に夕飯をごちそうになっているお返しのためだったが、そのうちにだんだんとお取り寄せが趣味になっているらしいことは娘にも、隣人にもよくわかっていた。生ハムはスペインからわざわざ取り寄せた高級品だった。
「そう。透、よろこんでた」
「あー、好きそう」
「呼んだ?」
「透、今かかってるクロス、取り換えて」
「はーい」
 ダイニングに配膳を終えて三人で席に着く。円香は食べ始めてから、これはビーフストロガノフじゃなくてハッシュドビーフだな、と気づいたが特に口に出したりはしなかった。ちらと横に座る透をうかがうと、そんなことに気を留める様子もなかった。それから、目があう。
「樋口、ミルクかける?」
「べつに」
「そう?」
 そのまま透は席を離れてキッチンに戻り、冷蔵庫を開けた。円香はポーションミルクが入っているのはその横の棚であることを知っていたが、わざわざ声はかけない。透の母も同じように黙ってハッシュドビーフを食べている。
「……おかあさーん」
「ミルクなら右の棚」
「樋口、お母さんなの?」
「違うけど」
 娘とその友達のやりとりに、透の母はふふ、とスプーンを持つ手を止めて笑った。円香は、その笑い方が母娘ともよく似ていると思わずじっと見入ってしまう。
「円香ちゃんの方が、ずっとうちのキッチン詳しい。透より手伝いしてくれるし」
「えー。でも、私、この前夕飯……ハンバーグ、作ったじゃん」
「いつの話してるの」
「……一年前?」
「どっちがうちの子か分かんないでしょ、透ったら」
 母がそう言うのに、透は決まり悪そうな顔をしながらポーションミルクを手にダイニングへ戻ってきた。円香は、むしろそのハンバーグを作ったのはどういうきっかけだったのかが気になった。
「樋口がいい子なんだよ、ね?」
「私のせい?」
「怒んないでよ。ほら」
 あげる、と透はポーションミルクを円香の深皿の横に置いた。円香はそれを手に取って縁をなぞった。意味が分からない。
「え、なんで」
「いつも入れてなかったっけ」
「自分のじゃないの」
「私、ミルクいれない。コーヒーも」
 カフェラテ好きじゃん、樋口、とどこか的外れなことをいう透に、円香は呆れと驚きと不可解さをごちゃ混ぜにしたままミルクの蓋を開き、回しかけていった。細く白い流れがハッシュドビーフの濃茶色に滲んでいく。以前同じように彼女が――その時はビーフストロガノフだったが――ミルクを垂らした時、その様を飛行機雲みたいだと言った透を、円香は脳裏に描き出していた。小学生のころだった。透はよく空を見上げる子どもだった。

 ●

 その日円香が小学校から下校すると、母は珍しく仕事が休みで、リビングには甘い匂いが漂っていた。ランドセルをソファに下ろして、ただいまを言いながらキッチンを覗くと母はオーブンでなにかを焼いていたところらしかった。
「いい匂い」
「有給だったから、なんか、それっぽいことでもするかなって。どう?」
「それでお菓子焼いたの?」
「そ、米粉クッキー」
 アメリカのホームドラマのような白いフリルエプロンを身にまとった母親に、円香は思わず笑みをこぼした。似合ってるよ、というと満足そうに母も笑い、手を洗ってお茶にしようと続ける。
 米粉クッキーは幼いころ小麦でアトピーが出た円香のために、母が米粉で代替して作ってくれたお菓子だった。円香にそのころの記憶はもうないけれど、母はこうして時折それを思い出すように米粉パンや米粉クッキーを焼いてみせる。
 ハンドソープで手を洗い最後にうがいをしようとコップを取ろうとした手が滑って、それは落ちる。がしゃん。派手な音とともにガラスのそれは割れて床に破片が散らばった。円香はそれに先ほど聞いたばかりの、遊具から落ちて死んだという同い年の女の子の姿を見た。破片に光が反射して彼女自身の顔が映る。死んだのはたまたま、偶然、名前も顔も知らない隣町の女の子だった。
 水道は流れたままで、洗面シンクを叩きつける音がざあと響く。円香が住む町の川はその隣町まで、横たわり流れていく。その先を彼女は知らない。二日前に氾濫を免れたその川はひどく濁っている。水道の音は、川の流れる音にひどく似ていた。円香はそのままガラスをしばらく見つめていた。川の水位はまだ高い。

[newpage]

 ●

 あまりにも透が得意そうにハンバーグを作れることを話すので、じゃあ作ってみてよと円香が言ってしまったのは二人がちょうど家から三分のセブンイレブンへ入店する直前だった。直後、しまった、と円香は思ったが、透はにやりと笑った。
「樋口、ハンバーグ好きなんだ」
「……セブン、あるでしょ」
「作ってって言ったじゃん」
 透が円香の顔を覗き込むようにかがんだ。円香はやめろと言うように手でそれをいなす。透の幼いころからの、人の顔を覗き込む癖が、円香はどうも苦手だった。
「金のプレミアムシリーズ、美味しいって、聞いたことある」
「西友ならエコバッグ持ってかないと」
「お願いランキングでやってた。川越シェフも褒めてたけど」
「樋口、いま、なんか袋持ってる?」
「持ってない」
 じゃあそこで待っててすぐ戻る、と透は公園のベンチを指さして走り出した。円香が声をかけようとしたときには、もう角を曲がってしまっていた。諦めてベンチに腰掛けると、似たような年頃の男女が一人ずつブランコを漕ぐでもなく椅子替わりに駄弁っていた。夕方もゆき過ぎて十九時、幼い子どもの姿はもう見えない。顔をあげると遊ぶ者のいないジャングルジムと滑り台が佇んでいた。二人が幼い頃、最も遊んだ公園がここだった。
 透がビーフストロガノフとハッシュドビーフを間違えた日の翌々日、彼女の母は夜に家を空けることとなっていた。友人との飲み会らしい。だから、うちで一緒に金ロ見ようよ。そう透が円香に言ったのはつい十分前だった。夕飯代もらったからコンビニで豪遊しよ、と電話越しで彼女らしい提案を続けるので、円香は終わらせておきたかった古文の品詞分解の手を止めて、隣家のインターフォンを鳴らした。そういうわけで、買い出しに出ていた。今日の金ロなにやるのか聞くの忘れてたな、と円香が思い出したところで透が戻ってくる。西友へ向かう五分ほどの道を歩き始めた。
「今日何やるの」
「え。何、って。……手作りハンバーグ大会?」
「映画」
 透はそれを聞いて、ああ、と腑に落ちたような顔をした。ハンバーグ大会ってなんだ、と円香は内心呆れていた。いつものことだった。
「わからん」
「は?」
 内心の呆れが声と顔に出て、透はそんな円香の顔を見てごめんて、と笑う。こんなに薄い謝罪もそうないなと円香は思ったが、それは顔に出さないようつとめた。
「夏だし、サマーウォーズとかかな」
「……見飽きた」
「えー」
「毎年見てるし」
 円香の不満に透は困ったように眉尻を下げた。たいして困ってもないくせに、と円香は白々しさを思ったがそれは口に出さなかった。
「じゃあ、先月録画した土曜プレミアム見よ」
「……邦画がいい」
「樋口、選んでいいよ。お客様だし」
 なにが今更お客様だ、と円香は鼻で笑って、透にもそれが分かったらしく、んふ、と妙な笑い方をした。片方が思ったことが、もう片方に伝わるときがあれば、まったくそうでないときもある。透は最近そのことを知って、円香は十二分痛いくらいに熟知していた。
 買い物を終えダイニングからキッチンに立つ透を見て、円香はただ彼女には台所が似合わないという感想を抱いた。一年前ハンバーグを作ったのはなぜかを聞いただけなのになぜ手料理を振舞われることになったのだろう。しかし、その様は見飽きた映画よりは楽しめそうでもあった。キッチンの向かいから玉ねぎを刻む不器用な手つきを見ることには、それくらいの愉楽はある。
 すこし危なっかしい包丁さばきを終えて、透は冷蔵庫から使いさしのひき肉を取り出した。ボウルにあけて、それから、ふふ、と笑う。ミンチを前に笑う透は、少し不気味だった。
「なに」
「ひき肉足らん」
「は」
 袖をまくって玉ねぎとひき肉を混ぜ始める透の言っていることがよくわからず、円香はボウルの中身を覗いた。たしかにひき肉の量に対して玉ねぎのそれは多すぎる。
「買い忘れた」
「それは?」
「たまたま」
 昨日麻婆豆腐だったから、うちのお母さん、麻婆豆腐上手なんだよね、と母親自慢を始めたので円香はため息を一つ吐いた。それからキッチンへ入る。透はひき肉でまみれた手をホールドアップして、冷蔵庫を開ける幼馴染の背中を見ていた。
「豆腐使っていい?」
「え?」
 まぬけた顔の透をよそに、円香は包丁で豆腐の蓋を開ける。ぱつんとビニールの破れる音がして、水が跳ねた。
「入れて」
「お味噌汁は油揚げがいいな」
「ちがくて、ハンバーグ」
「え? あ、豆腐ハンバーグ?」
 円香が豆腐の水を切って手渡すと、透は何も見ずにボウルへ勢いよく入れてこね始めた。分量は、と言おうとしたけれど、どうせ食べるのは自身と透だけなのだと思ったら言葉が詰まってしまう。二人だけならなにかあっても自分さえ我慢すればそれでいいのだ、と円香はいつも思ってしまう。そして発されなかった言葉はただ積み重なり、二人の間を流れていく。消えたりはしない。
「代わりに使えば、ちょうどいいでしょ」
「ヘルシー。アイドルっぽい」
「やめてよ」
 眉間の皺を寄せる円香に透は不可解さがあった。彼女はいつも、アイドルらしいと言うと嫌がる。勘違いしているみたいだから、と言ったこともあった。では、何が正しくて、何が誤っているのか。透にはそれが皆目見当もつかなかった。
「樋口」
「なに」
「豆腐ハンバーグのつくり方、知ってる?」
「……私、やるから。味噌汁作って。……作れる?」
「まかせて」
 小鍋を水で満たして火にかける。それから油揚げを冷蔵庫から取り出した。油抜きをする様子がないのが円香には察せられたが、結局、それにも口は挟まなかった。思ったことを、けれど言わない。言えないのかもしれない。でも、それは、だからといってなかったことにはならない。ただ、流れていく。雨の一滴一滴が溜まり、やがて川は氾濫する。それでも、流れていく、先へ、先へと。


 夕飯を完食し、円香は結局ハンバーグは自分が作ったし、透が一年前に作った理由も分からないままだということに気づいた。でも、まあどうせ何かの気まぐれだろうと聞くのをやめた。こんなことばかりがいちいち気にかかって、それで年がら年中、いつだって彼女のことばかり考えてしまう。そのせいで気づいたらステージにまで立っていた。円香は進路希望の面談が週明けにあることを、果たして目の前の女が知っているのかが気にかかっている。
「豆腐ハンバーグとか、これ系の、初めて食べた」
「これ系って」
 透は食べ終えた皿を流しに重ねて、冷蔵庫からアイスコーヒーの紙パックを取り出した。
「おいしかった。なんか、別のに入れ替わっても、ふつうにめっちゃハンバーグじゃない?」
「ふつうにね」
 普通に、ハンバーグ。ひき肉が豆腐になっても、ハンバーグはハンバーグ。透は二人分のコーヒーを注いで、円香に氷を入れるか尋ねる。本当はコーヒーを飲むかどうかを尋ねてほしかったけれど、彼女はただ三を示すハンドサインをするだけだった。ぽちゃ、ぽちゃ、ぽちゃ、と氷がいれられて、水面が揺れる。冷蔵庫を開けて、透は円香の好物を見つけて勢いよく振り返った。
「プリンあるよ。食べる?」
「今はいい……」
 円香は、実はプリンが特別好物ではないのだけれど、透がそう思い込んでるらしいことを察しながら黙っていた。じゃあ私もいいや、と透はプリンを冷蔵庫に戻して、そしてもう一度手に取った。
「ウニ」
「は?」
「プリンに醤油かけると、ウニの味になるっていうのも、それ系?」
「ちがう系」
 プリンを取ろうとする透の腕を円香はゆっくり引きはがして冷蔵庫を閉め、コーヒーを一口飲んだ。苦い。思わず眉間にしわを寄せると、透はあわててポーションミルクを取り出す。
「場所、おぼえた」
「浅倉の家でしょ……」
「だって、どっちがうちの子か分かんないって。ふふ、そんなわけないよね」
 透は自分で言いながらそれに笑って、コーヒーを手にしてリビングのテレビ前に置かれたソファに座った。ぽん、と自分の横を叩いて、円香にも座るよう促す。見ると、彼女は苦い顔をしていて、透にはその理由がよくわからなかった。コーヒーにはもうミルクを混ぜたのに。
「砂糖いる?」
「は?」
「あ、切らしてたんだった。はちみつならあるよ」
「いいって」
「……あのさ、きゅうりにはちみつで、っていうのは」
「それなら湿布メロンの方がマシ」
 透が録画をためていたという土曜プレミアムの映画は邦画と洋画が二つずつあり、円香に選択権がゆだねられる。リモコンを渡されて、円香は、なにか受賞したとニュースで見たことがあったがいまだ本編は見たことのなかった『そして、父になる』を選んだ。とある出産日を同じくした二組の夫婦の、子の取り違えから物語は始まる。
 ハンバーグはお肉のかわりに豆腐を使ってもハンバーグだけれど、子どもは他の子どもでは代わりにならない。でも、じゃあ、そこにどういう違いがあるのだろうか、と円香は少し考える。
 代わりの効かないものって、なんだろうか。あの子じゃなきゃいけなかった理由はなんだろうか。死んだのはたまたまあの女の子だったけれど、あれは、自分の身にだって起こりうることだったんじゃないだろうか。川は流れている。誰かの身に起きたことは、自分の身にだって起きる。誰かがオーディションに落ちて泣いている。同じ川が流れる隣町で、小学生の女の子が遊具から落っこちて死んでいる。無関係なんてことはない。誰にでも、どこにでも、なにもかもが起きる。

 ●

 いよいよ明日から小学校最後の夏休みが始まる。円香はもう荷物をほとんど持ち帰っていたので、通知表と数枚のプリントが入っただけのランドセルを背負った。そこに青い手下げ一つ持った透が駆けてきた。二人は帰途につく。今日は終業式とロングホームルームのみで、まだ昼過ぎだった。太陽がじりじりと暑い。
「樋口、いちごとブルーハワイどっち派? 私ブルーハワイ」
「……レモン」
「あー、レモン。ごめん」
「なにそれ」
「うち、いま、かき氷のシロップたくさんあるんだ」
 透は少し得意げな顔をした。昨日、浅倉家には近所に住む伯母が、中古のかき氷機を持ってやってきたのだ。もう子どもが大きくなって使わないから、透ちゃんにどうぞ。伯母はそう言い、ついでに来る道の途中スーパーで買ったという何本ものシロップもおまけしてくれた。
「今日うちでやろ、かき氷」
「いいけど」
 子どもの足で十五分、円香はランドセルを背負ったまま透と一緒に隣家の門を抜ける。透は手下げをさぐって、鍵を探していた。平日の昼に、浅倉家に人がいないのはめずらしい。そして、円香にとっては当然、透は家に鍵を忘れていた。
「鍵ない。なくしたかも。怒られる」
「どうせいつものランドセル、入れっぱなしでしょ」
「あー、たぶんそうだ」
「うち来れば」
「やった」
 鞄を変えると鍵を忘れるのは透のいつもの癖だった。円香はスカートのポケットにいれた鍵を取り出して、間抜けな幼馴染を招く。普段は浅倉家に円香がお邪魔することが多いので、透はすこしきょろきょろとあたりを見回した。六月のお泊りぶり、と透は靴を脱いであがると、まっすぐ洗面所まで駆けていく。落ち着きがない。円香は透の靴をそろえてから後を追う。
「樋口の家、いつもタオルふわふわ」
「お母さん好きだから、そういうの」
「うちは全然だからなー」
「そう?」
「まあ、でも調味料とかはさ、あれなんで」
「たしかに、抹茶塩あった」
 そう、と透は笑ってタオルを置いた。そして、リビングのソファへとダイブする。この家の住人よりもずっとくつろぐのが上手だ、と円香は思った。キッチンで、一応は客人である透のために飲み物を用意する。
「麦茶しかない」
「ほんとは今頃かき氷だったのにね」
「鍵、首から下げたら」
「あー。そうする」
 円香の家と違って、透の母親は平日もほとんど家にいる。だからこそ、鍵の管理は雑だし、結構家では甘えただ。性格もあるか、と円香は身長や見た目のわりに結構子どもっぽい幼馴染のことを思う。六年生にもなるのに、透はいまだキッチンで火を使うことも、包丁を使うことも止められるのだと言う。そのせいで、林間学習のカレー作りではもっぱら盛りつけ担当だった。
 よほど喉が渇いていたらしく、透はすぐに麦茶を飲みほした。ソファでぶらつかせた足先をみて、退屈そうにしている。それから先ほど放り出した青い手下げに視線をやって、思い出したように、横に座る円香の方へ振り向いた。
「通知表どうだった」
「普通。浅倉は」
「お腹空いたね」
「……買いに行く?」
 円香はテーブルに置かれていた千円札を指し示した。透は人のお金なのにいいのかな、と躊躇してから、頷く。お母さんが帰ってきたら返せばいいし、円香もそんなことをいまさら気にするような付き合いではなかった。
 近所のローソンで買い物を済ませて、自動ドアを過ぎたところで透が、あ、と大きな声をあげた。驚いた円香が何、というと透はドアの横にある貼り紙を指さす。『おしらせ』とある紙は、来月いっぱいでの閉店について書かれていて、長年の御愛顧ありがとうございましたという言葉でしめくくられていた。
「なくなるんだ」
「よく行くのに」
 ね、と透は小首を傾げて円香の顔を覗き込む。円香はすぐに目をそらして、その先にあった道路を見て昨日母に言われたことをい出す。
「そういえば、向かいの駐車場がセブンになるって聞いた」
「だからかな」
「逆じゃない?」
「でも、まあ、それなら困らないね」
 透はアイス売り場が広いといいなあと来たるセブンイレブンの開店を待ち望む。円香は生まれたころから当たり前に使っていたローソンがなくなるのに、喪失と呼ぶには大仰な、しかし言葉にしえない寂しさがあった。でも、すぐに別のコンビニが出来ればそれで満足してしまうのかもしれない。コンビニはコンビニ。そうして日常にセブンイレブンが溶け込んでいって、すぐに忘れてしまう。なにもかもに代わりがある。だから、どこかで起きたことはすべてのものに訪れる。もちろん、自分にも。

[newpage]

 ●

 映画『そして父になる』を見終え、二人は大きく伸びをして、顔を見合わせた。お互い、少しだけ涙の跡があるのをなにも言わない。そうしているうちに透の母が帰宅してきたので、二人は部屋にあがった。もう夜も深く二十三時過ぎで、円香は自宅に帰っても良かったのだが、透が行こうというものだからつい付いてきてしまった。こんなことばかりだ、と円香は階段をのぼりながら足先がやけに冷たく感じる。つい、付いていってしまう。それだけだから、やめることも難しくて、今だって透の部屋に座ってどこか安心している自分がいることに、円香は言い知れぬ不安があった。
「映画よかったね」
「……ああいうの、買えばいいのに」
「え?」
 円香は妙なチョイスのDVDばかり並ぶテレビ台をさした。透は相変わらずよく分かっていなさそうな顔をして、それからへらっと笑った。
「あ、ツアーDVD良かったよ。樋口も見たら」
「……いい」
「じゃあこっち見よ」
 言うが早いか、透は『DOCUMENTARY OF 346 IDOL 2019』と書かれたDVDを再生する。円香の返答は聞かず、そして円香自身もあきらめて何も言わない。特に見たいわけではなかったのに。
「こういうの、見るのはじめて」
「私も」
「去年の総選挙と、あとチャリティライブの話が中心みたい」
 パッケージの裏を見て説明する透が楽しそうで、円香は少しうらやましかった。それと同時に、こんなドキュメンタリーを見て何の参考になるのか、まったくわからなかった。アイドルの素を照らし出している、という体のパッケージングは、彼女にはどうにも気味が悪かった。都合よく編集が行われているに違いないのに。それをどう受け止めればいいのかわからず、円香は足先がまた冷えているのに気づいた。
 画面ではオープニング映像がおわり、インタビューの場面にうつっていた。アイドルがひとりひとり、質問に答えている。それぞれが私服で、どこか控室のような場所で椅子に座っていた。元気いっぱいに話す者、落ち着いて話す者、なんだか会話になっていない者まで、それぞれだった。
 それから、この前透が言及した、デビューして一年足らずで名古屋ドームに立った、髪色の鮮やかなアイドルが登場する。他のアイドルたちと同じように椅子に座っていたが、浅く腰をおちつけていて、だらしなく見えるような姿勢だった。
『アイドルとは何かとか聞かれてもさぁ、わかんないよぼくにもそんなの……』
 ぶつくさと拗ねたような口調で話すアイドルの顔が映し出されて、テロップで名前と年齢、そして総選挙の順位が書かれていた。〈夢見りあむ 19歳 総選挙第三位〉。
『めちゃ頑張って尊いのがアイドルだろ? なのに、ぼくはまだなんにもしてないのに、ネットのおもちゃになって、こんな順位もらっちゃった。今だって、新人なのに、インタビューなんて受けてる。このドキュメンタリシリーズ、毎年見てるよ。いつも、インタビューでその年活躍した子たちがしゃべってるよね? 去年のウサミンのそれなんてもう最初から号泣モンだったじゃん。いや実際泣いたし。ウサミンがなんで尊いかわかるか? ずっとずっと頑張ってきたからでしょ! なのにぼくは! ぼくはさぁ、これからなにを頑張ればいいのか、わかんないよ! お気持ち表明ばっかされてさあ、誰もぼくの気持ちなんか興味ないじゃん。おもちゃにしたいだけ。インターネット滅びろ、バカ、●●●●!』
 夢見りあむは早口で喚き、最後は隠し潰す音が入った。円香は、名前と顔しか知らなかった夢見りあむがこういうアイドルであったことを初めて知って、驚いた。スマホで「夢見りあむ ネット 総選挙」で調べると、すぐにだいたいのことが分かる。そして、横にいる透が何を思っているのか気になってスマホから顔をあげてみる。透がいつもするように覗き込んでも、なにを考えているのかは、結局よくわからなかった。
 顔を覗きこまれていた透は、お気持ち表明ってなんだろう、と考えていた。そして、気持ちに興味を持たれないことの意味を考えて、それも、よく分からない。それで、どうなっちゃうんだろう? 透は以前プロデューサーが、彼女のことを分かりたいと言っていたことを思い出す。そのために、言葉にしろと。でも、そんな言葉も聞き入れられないなら、画面に映る彼女の気持ちはどこに行ってしまうのだろう?
 画面は夢見りあむの喚きの音声だけ残して、画面が過去の映像に切り替わった。彼女のデビューライブの直前であることを示すテロップが入っている。ナース風の、パステル色のワンピースドレスに身を包んだりあむが、笑っているんだか泣いているんだが判別のつかない顔で、彼女をスカウトしたらしいプロデューサーに何事か話しかけている。
『――りあむがいいって言って! アイドルは使い捨ての嗜好品だよね! ぼくも分かるオタクだから! けど――』
 気合を入れるように拳を握っている夢見りあむの姿から、ライブシーンへと切り替わる。それから、また別のアイドルのインタビューに戻った。黒髪と金髪のアイドルが大写しになる。
 アイドルは使い捨ての嗜好品、という言葉がどうしてわざわざ切り取られたのか、円香はそのことを考えていた。前後のない言葉は、何がいいたいのかよく分からない。でも、ただ、その言葉はやはり円香のアイドルに対する疑念に確信をもたらして、先日提出した進路希望調査書のことを思った。
 使い捨ての嗜好品。自分はそのうち落ち目がやってきて、華やかなステージにはまた別のアイドルが踊りだすのだ――代わりがいる。遊具から落っこちて死ぬ女の子がいて、オーディションに落ちて泣く女の子がいて、アイドルの自分がいる。誰でもいい、どこでもいい、何でもいい。降りかかるかもしれない何かに、ただそれを待って生きている。川はつながっている。自分にだけ無関係なんてことはない。

 ●

 夏休みだけあって、図書館は小学生から高校生まで、子どもでにぎわっていた。円香と透の住む町の、隣町にある、この辺でも一番大きい図書館だから仕方ない。円香は自由研究のために、地域の調べ物でもするかと訪れて、二冊ほどそれらしい本を見つけた。近所の上級生から、中学からは自由研究の宿題はないという話を聞いて、はやく中学生になりたい、と思うくらい彼女は自由研究が嫌いだった。面倒な割に、評価基準があいまいだからだ。六年生となり、自由研究がこれで最後だというのは円香にとってとても嬉しいことだった。
 貸出手続きを済ませて図書館を出ると、十五時過ぎで、陽射しはまだまだ強く、じりじりと地面を照っていた。もう少し図書館で涼んでから出ればよかったかもしれない、とすこし後悔する。すると、ちょうどスマホがブーブー、と震えた。発信者は「浅倉家」だった。
「もしもし」
『樋口、今どこ? 家行ったのにいないから』
「図書館。近所のじゃなくて、駅向こうのほうの」
『区役所のちかくの?』
「そう。なに、なんか用事?」
『え? 遊ぼうと思って。そっち行くね。待ってて』
 ぶつん、と切られて、円香は待ってて、と言われたことをどうすればいいか分からなくなる。ここから動けないじゃないか。円香はあきらめて、木陰にあるベンチに座った。
 円香は去年、学習塾に通い始めたときに子ども用スマホを買い与えられた。同じように小糸もそれを持っているが、透と雛菜は中学生になってから、と親に言われている。そういう意味でも、円香ははやく中学生になりたかった。
 待つこと三十分、透は大きく手を振ってやってきた。鞄も持たず、身軽だった。円香の横に座って、唯一右手に持っていたペットボトルから水を勢いよく飲み始める。
「おまたせ、樋口」
「汗、すごいんだけど……」
「遠いし。何してたの」
「宿題」
 ふうん、と透は知らない言葉でも聞いたかのような顔で、円香は彼女がそれをちゃんと進めているのかどうかが気になった。実のところ、透は、夏休みの初日に算数のドリルをまるまる終わらせたところでなんとなく満足して、あとは特に手を付けていなかったが、毎年どうにかなっているから大丈夫、とよくわからない確信を得ていた。
「遊ぶって、何するの」
「え? あー」
「……どっか寄るの? この辺くわしくないんだけど」
「あ、いいとこ知ってる。行こ」
 透は跳ねるようにベンチから立ち上がり、円香に向かって手をさしだした。円香はすこし躊躇してから、その手をとって、立ち上がる。汗でじっとりとした柔らかい手の、温度の高さに驚いてしまう。すぐに、どちらからともなく手を離して、透の言う「いいとこ」とやらへ歩みを進めた。


 十分ほど歩いて、透が案内する「いいとこ」に到着した。区立児童公園だった。二人の近所の公園よりはずっと広く、真ん中に長いローラー滑り台がある。
「いいとこ、って」
「ひさびさに来た」
「……うん」
「いつもの公園よりいいよね」
「ま、広いけど……」
 小学校も六年生になると、そう公園で元気いっぱい遊ぶことも減っていた。周りの同級生も、家でゲームをしたり、駅前のモールで遊んでいる子が多い。それでも透は外で体を動かすのが好きだし、円香も付き合って、二人で近所の公園で遊ぶことは多かった。
「用ないと、こっちこないし」
「用って、いや、なんでもない」
 円香は、妙に公園が静かなことに気づいた。家から二十分ほど歩く公園とはいえ、何度か訪れたことがある。この辺一帯では一番大きい公園だけあり、いつ来ても子どもがそこら中を駆けていて、遊具は順番待ちのことだってあった。
「ここ、滑り台もいいけど、ジャングルジムが大きいのがさ、いいよね」
 そういって透はそれがある方へと駆けていく。この公園の花形である滑り台が真ん中にある一方で、ジャングルジムは少し離れた、端にぽつんとたっている。近所の公園よりも、一回りも二回りも大きい。でも、この夏のそれは、円香や透が見たことのあるそれと姿がまったく違っていた。
「え」
「……」
 透はぽかんと口を開けて、それを見ている。青と赤と黄色の鉄でできているはずのジャングルジムには、何枚ものブルーシートがかけられていた。『使用禁止』と書かれた紙が緑色のすずらんテープで巻きつけられている。風がびゅうと吹いて、それらを揺らす。円香はそれらを見て、すべてを悟る。ここなのだ、と。
「点検かな」
「……いや」
 説明すべきなのか、と円香は喉を詰まらせる。めまいがする。なにも言葉が出てこないし、語るべきことなんて自分にはない、と思ったら、そのまま崩れ落ちることしかできなかった。
「え、大丈夫?」
「……だいじょうぶ」
「暑いし。水飲んで」
 暑さにやられたのだと思われたのならそれがいいと、円香は透が渡すペットボトルを受け取って、一口、二口飲む。ぬるい水は喉をとおって、落ちていく。透は周りを見渡し、それからちょうど木陰になっているベンチを指さして、あっち行こ、と言った。
 いくらか涼しいそこで二人並んで座る。透はまたベンチだね、とよくわからないことを言って笑った。このベンチからまっすぐ正面に、ブルーシートで覆われたジャングルジムが見える。円香はそれを見て、逃れられないのだ、と感覚的に分かってしまう。透も、同じようにそれを見て、残念、とひとこと呟いた。
「せっかく来たのに」
「……うん」
「点検って、なにするんだろ」
「死んだんだよ」
「……あー」
 円香には、ここからは遠いはずの、川の流れる音が聞こえていた。隣町にも、同じ川が流れている。
「じゃあ、撤去するのかな」
「まあ、そうじゃない」
 誰も小学生が落ちて死んだ遊具で遊びたいとは思わないだろう、それに罪がなくても。やけに公園に人が少ないのもそういうことか、と円香は腑に落ちた。透は風に揺れるブルーシートを見て、もう一度、残念、と呟いた。
「どんな子だったのかな」
「知らない。私達と同じくらいの女の子らしいけど」
「ジャングルジム好きなのかな。ブランコとどっちが好きだったのかな」
「知らないって」
「どういう子だったんだろ」
 執拗に繰り返す透を無視して、円香はただ青いそれを見ていた。ジャングルジムのてっぺんから落ちる、名前も顔も知らない女の子の姿を想像する。その顔は自分だったかもしれない。
「60万円」
「は?」
「ジャングルジム」
「……へえ」
 透が急にそんなことを言い出すのに、円香はついていけなかった。どうせ思いついたことをそのまま言っているのだろうと思った。それと同時に、遊具にも値段があるのか、と当然のことに驚く。
「滑り台は?」
「え?」
「値段」
「知らない」
「じゃあなんで」
「……好きだから?」
 へらっと笑って、透が円香の顔を覗き込む。やめろ、と円香は思う。それから、透がジャングルジムが好きなんてこと、まったく知らなかったと気づく。たしかによく登っている姿を見たが、そんなに好きだったのかと、驚いた。
「そうなんだ」
「好きっていうか……なんか、なんだろ」
「さあ」
「ふふ。うん、まあ、そうなんだ」
「知らなかった」
「じゃあ、覚えといてよ」
 そう言って、再び透は円香の顔を覗き込む。円香はただ頷くことしかできない。たとえ自分が死んでも、自分が「どういう子」だったのか、透は円香に覚えていてほしかったし、円香はいわれなくても忘れられないことを知る。とっくに、彼女にとっての彼女が代替の効く存在でないことなんて、気づいていた。それでも、やはり、川の音は聞こえている。

[newpage]

 ●

 よく晴れた夏の土曜日、円香は透の部屋を訪れていた。映画『そして、父になる』を見てから、およそ一週間のことだった。
 週明け提出の課題を済ませるために、透の自室で勉強している。透はアイドルを初めてすぐのころ、何回か勉強をおろそかにしたことがあるため、円香はいわば見張り番のような役割だった。
 朝十時から取り組んでいたそれは、もう終わるところだった。円香がふと窓を見上げると、鳥が飛んでいる。外はかなり暑そうだった。これからやってくる、アイドルになって初めての夏休みに、円香は少し不安があった。来年は受験生か、と思ったところで、思考を妨げるように透の腹が鳴った。
「お昼」
「うん」
 一階に降りて、キッチンに立った透はふふ、と笑って得意げな顔をする。円香が不審に思っていると、透は鍋を取り出して、私作ったげる、と言った。
「この前、結局、樋口が作ってたし」
「……まあね」
「待ってて、そっちで」
 円香をソファにやってから、透は鍋に水を張ってコンロにかけた。ピッ、と音が鳴る。透の両親は、娘が火事を起こしたらどうしようと彼女が小学生のころにIHコンロに変えた。円香は、初めてそれを聞いたとき、ちょっとおかしかった。
「なに作るの」
「ん、素麺」
 キッチンの背面にある棚からそれを取り出して、誇らしげに笑った。素麺ゆでるくらいでよくそんな得意な顔を出来たものだなと円香は思ったが、振舞われているのだから何も言うまいと口をつぐんだ。間違っても、透がつけ汁をなにか工夫するわけもないことはとっくに知っていた。


「出来た」
 ざるに上げた素麺と、めんつゆと氷、薬味をダイニングに並べて、透はどうぞどうぞと円香を呼び寄せた。座って、円香は薬味があるだけ透にしては上等だな、と手を合わせていただきますを言った。
「……なんか違う」
 透がすすりながら、言った。円香はダイニングに着いた時から、これが素麺ではなく冷や麦であることに気づいていたが、何も言わなかった。面倒だったから。
「ふとい」
「うん」
「ねえ樋口」
「これ、冷や麦」
「あー……」
 分かっているんだか分かっていないんだか、何を考えているのかが見えにくい表情で透は冷や麦を覗き込む。これが冷や麦、と小さく呟く。動物園に来た子どものような顔だった。
「どっち好き?」
「別に、そんな変わんないし」
「えー。違うじゃん、なんか味も」
 ずるずるっ、と音を立てて啜り、透は円香のつまらない回答にケチをつける。円香は麺類を器用に啜るのがあまり得意ではないので、ゆっくり食べていた。
「なんかめっちゃ夏だね、素麺、あ、冷や麦」
「間違えてるじゃん」
 へへ、と透は笑う。円香もつられて笑った。円香がざるから麺を一掬いすると、端っこだけ麺同士がひっついている部分に行き当たった。透のした料理らしかった。
「夏といえば、あれあるよ、かき氷器」
「ふうん」
「この前観た映画でさ、食べてたじゃん。だから、しまってたの出した」
ほら、と透はキッチンの方を指さした。オーブンレンジの横にそれが置かれている。円香は久しぶりに見たそれに、懐かしさをおぼえた。
「これ食べたらやろうよ」
「課題は?」
「勉強だし、甘いもの食べないと」
「……いいけど」
 言い出したら聞かないのだし、と円香はあきらめた。でも、本当に透が言い出したら聞かないのかは、彼女には分からない。単に、円香が彼女を止めようとか、思うようになってほしいとか、そんなことは願えないからそうなっているのかもしれない。


 食べ終えたざると皿を流しに重ねて、透はさっそくかき氷器をとりだして、ダイニングテーブルに置いた。水色の手回しかき氷器は、それなりに年季が入っているが、綺麗に使われている。
「氷、どれくらいかな」
「……これ、いっぱいになればいいんじゃないの」
「そっか」
 製氷機から取り出しておいた氷を、流しいれる。透は、まず私ね、と言って、まるで競っているかのように回し始めた。好きなだけ回してくれればいい、と円香はかき氷器を抱きかかえて必死にレバーを回す幼馴染の姿を見つめていた。
「これっ、結構必死に回してもっ、すこししかできないよねっ……!」
 レッスン中もかくやというほど、まじめな顔で透はそれを回している。昔、遊園地でコーヒーカップに乗ったら、まったく回さずにただ揺られていた透とは真逆だな、と円香はくすりと笑う。ちなみに、雛菜はこれでもかというほど回す。
「はあっ、はあっ……」
「……大丈夫?」
 ようやく一人分ができあがったところで、円香は思わず透が心配になった。鬼気迫る顔でかき氷器に向かう幼馴染の姿に、そんなにかき氷が好きだったのかと円香は感心する。
「……つかれた」
「自動のやつ買ったら」
「うん……」
 額の汗を手でぬぐって、それから透は冷蔵庫からシロップを取り出した。かき氷器を物置から出したすぐあとに、スーパーへ買いに行ったのだという。ブルーハワイ、いちご、メロン。透はその三本をダイニングテーブルに並べた。
「シロップがどれも味いっしょって知ってる?」
 誰もが知っているような豆知識を得意げに披露しながら、透はブルーハワイを回しかけた。青いシロップが削られた氷に滲んでいく。
「着色料違うだけなんだって。テレビで見た」
「知ってる」
「目つぶったらさ、わかんないのかな」
 どれも同じで、本当のところは変わらない。そんなことに、たかがかき氷のシロップの話なのに、円香にはかき氷で浮かれる幼馴染と同じようにはしゃぐことが難しかった。
「……じゃあ、なんで三本も買ったの」
「え? 気分」
 スプーンでかき氷をかき混ぜながら、透は円香にもそれを回すよううながす。円香は透ほどそれに執心しているわけではないのだが、しぶしぶ手回しで氷を削っていく。がりがりがり、と鈍い音が響く。時折引っ掛かったような感触があったかと思えば、空回りするようなこともあって、使いにくい。
「樋口、もっとはやく回さないと、溶けちゃうよ」
「ええ……」
「ふふ、バターの逆」
 透は自分の言ったことににやつきながら、続ける。時折覗く舌は青い。
「必死に回すから楽しいんじゃないの、こういうのって」
「……知ってる」
「だよね」
 へらっと笑って、透は冷えて痛むらしい頭を摩る。円香は削り終えて、いちごのシロップに手を伸ばした。取ろうとして、透がその手をはじいた。不可解な行動に円香は眉間にしわを寄せる。
「なに」
「まって」
 早くしないと溶けると言ったのは浅倉なのに、と思った言葉を飲み込んで、キッチンに駆け込む透の背を眺めていた。やがて、保存用のガラス瓶を持って駆けてくる。やはり得意げな顔で、透はそれを円香の目の前に置いた。
「……」
「レモンのシロップ」
「は?」
「樋口、レモン派って言ってたじゃん」
「いつ」
「え、小学生?」
 小首を傾げて、透は瓶の蓋を開けた。ふわっと甘酸っぱい香りが広がる。顎の奥を酸味の予感が刺激した。瓶の底には輪切りのレモンが重なっている。
「これ作ったの?」
「スーパーにレモンのシロップなかった」
「なんで」
「品切れだったんじゃない?」
「そうじゃない」
「お母さんと一緒に作った、一週間漬けたからようやく使える」
 砂糖めっちゃ使った、と透は続けてレシピを語る。円香はただ目の前のガラス瓶をどう思っていいのかわからなくて、ただそれを眺めていた。
「かけなよ」
「ん」
「……どしたの」
「え、……いや」
「大丈夫?」
「大丈夫」
「大丈夫って聞くと大丈夫って言うけど、樋口、そういうとき大丈夫じゃないじゃん」
「なにそれ」
 なにそれ、ただその四文字に尽きていた。円香はもうずっと、小学生のあの時から、もしかしたらもっと昔から、川のことを、誰にでも起こる何かのことを、だからそれらにとっては誰が誰でもいいことについて考えていた。それなのに、こんな真似をされたらどうしていいか分からなくなってしまう。いちごともブルーハワイともメロンとも、絶対に味が違うレモンのシロップを前にして、円香は、ただ立ち尽くしていた。
「溶けちゃうよ」
「うん」
「食べてよ、せっかく作ったし」
 なんでこんなどうでもいいことばっかり覚えているんだ、と円香は思った。ホームルームも聞かないし、肝心なことは何一つだって話してくれないのに。そんなのは、ただ彼女と彼女にとって「肝心なこと」が違うからに決まっていて、円香にもそれは分かり始めていた。それでも、本当に時々、交わる。重なる。届く。
 円香は浅倉家母娘お手製のレモンシロップをスプーンですくって、氷へたっぷりかけた。口に運ぶとそれはたしかに甘酸っぱく、屋台で食べるそれらとはまったく違う味がした。何とも同じではなかった。透は一足先に食べ終えて、底にたまったシロップを飲もうか迷っていたので、円香はそれを止めた。
「だめ?」
「あんまよくない」
「そっか」
 透はスプーンで、名残惜しそうにブルーハワイのシロップと溶けた氷を混ぜている。青く溜まったそれを見て、夏だなあと呟いた。
「海みたい」
「は?」
「海」
 透はそれを見せるよう皿を傾ける。円香は、ちらと覗いて、ああ海だね、と呟いた。青いシロップのそれは人工的な色で、まったく海になんて似ていなかったのだけれど、ようやく川の行先が分かって、海、と重ねて繰り返した。
 透はジャングルジムを登るのが好きだし、円香はどうせ一緒に共にいる羽目になる。もしかしたら落ちるかもしれないし、そうなってしまうのが誰かは分からないけれど、なんにせよ彼女が彼女の隣から離れることはないし、それが出来ないから二人は二人だった。ただ流れる川の先を見つめることしか、円香には生き方なんて選べない。誰が誰であっても変わらないし、だから誰かに起きたことは自分の身にも起こるけれど、ただ透の横にいるのは円香だったし、円香の横にいるのは透だった。ただ、それだけのことだった。
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