ミックス・ジュース


 透は割り箸をきれいに割れない。
 幼い頃は円香が代わりに割ってやることもあったが、いつからか口出しするのも躊躇われるようになった。透は今日もまた、片方だけが長く割れてしまった箸を何ともないように使っている。
「昨日も食べたわー、唐揚げ」
 楽屋で唐揚げ弁当をほおばりながら、透は誰に向けるでもなくつぶやいた。雛菜と小糸はそれぞれ顔をあげて、透のほうへ視線を向ける。円香は冷えてかたい白飯を、きれいに二分割された箸でほぐすばかりだった。
「さ、撮影前日なのに……」
「むくんじゃうよ〜〜?」
「え? そうなんだ」
 しらなかった、と透はなんでもないように言った。小糸がえっ、と驚きの声をあげる。
「と、トレーナーさん言ってたよ……! 揚げ物とか甘いものは次の日むくんじゃうって……」
「まじかー。こまる」
 今更、透は両ほほを手で支えるようにしてみせる。円香はため息をついて、雛菜はけたけたと笑っていた。
「だから、食べちゃだめって……」
「でもそれ、めっちゃ売れたら、ずっと唐揚げ食べれないじゃん」
「たしかに〜〜」
「そ、それは……」
「……売れてから考えたら」
 それもそっか、と透は再び唐揚げをほおばった。片方だけがやたら長く、バランス悪く割れた箸では食べづらくないのだろうか、と円香はそれが視界に入るたびに落ち着かなかった。でも、そんなことには誰も気づかないようだった。当然円香も、気づかれたくなんてなかった。
「小糸ちゃん」
「な、なにかな……」
 透が箸を止めて小糸の顔を見つめる。小糸も気圧されたように箸を止めて、ごくりと唾を呑む。
「私、昨日バウムクーヘンも食べちゃった」
「透ちゃん……!」
「お母さん買ってきてたし」
「が、がまんしないとダメだよ……!」
「賞味期限がギリでさー」
「で、でも……」
 悪びれもせず、透は止めた箸を指先でもてあそぶ。とがった割り箸の片方を、親指と中指で支えて、ペン回しのようにくるっと回転させた。
「いつ食べればよかったんだろ?」
 指から指へと箸を回し渡す透に、円香は行儀が悪いと言う気にすらならなかった。よくもそんな不格好に割れた箸を器用に回すものだと、ただそう思っていた。
「……しらない」
 円香がほかの三人には聞こえないほどの、というか、聞こえないように小さい声でつぶやいた。案の定、透も雛菜も小糸も、それらにはまったく気づかない様子だった。

 ○

 透が体力づくりのランニングから戻ると、ちょうど隣家から円香が出てきた。パーカーワンピースに、二泊は出来そうな大きさの鞄。部屋着らしいそれと旅行のような荷物に、透はちぐはぐさを感じて、それ、と指さした。
「どこいくの」
「洗濯」
「川へ」
「違う」
 円香は言い切ると、門扉を閉じて透の来た道の逆へ足を進めた。足早な幼馴染の腕を取って、透はその歩みを止めさせる。円香は何も言わないまま、歩くスピードを少し落とした。夕日に照らされた二人分の影がコンクリートによく伸びている。
「なんで?」
「洗濯機、あれで」
「クリーニング屋、逆」
「コインランドリー」
「あー」
 コインランドリーの存在は当然知っていたが、透は使ったことがなかった。映画やドラマで見たことがあるだけで、実家住まいの透の身からすればまったくと言っていいほど用のない場所だった。だから、行ってみたいと思って、円香の隣へ肩を並べる。円香は少しばかり不可解そうな顔をして、すぐに前へ向きなおす。
 五分ほど歩くと、ドラッグストアに併設されたコインランドリーに到着する。剥げた壁と真新しい洗濯機がアンバランスだった。入り口に貼られた注意事項を読んでいる円香の横を抜けて、透は真ん中に置かれた長机と椅子を見やってから、一番奥の丸椅子に座る。少し破れて中身の黄色いスポンジが覗いていた。
 乾燥機が一つ動いているだけで、人は誰もいない。換気のために扉は開け放たれていて、時折風がひゅうと吹き込んでくる。透は長机の上に置かれた、駅なんかに置かれている薄い求人誌をぱらぱらとめくって、近所のコンビニや文房具屋の時給について眺めていた。
「児童公園の向かいのパン屋、時給1200円だって」
「あそこ、人気だし」
 透を振り返らないまま、円香は洗濯機に硬貨を二枚入れる。そして蓋をしめた。ばたん、という大きな音はしない。彼女はいつだって扉を静かに閉めるし、ものをそっと置いてみせる。簡単に壊れそうにないものも。
「何好き? パン」
「卵サンド」
 透は、確かに円香がよく昼にそれを食べているのを思い出した。学校の購買でそれを買って食べる彼女の顔は別に楽しそうでもなんでもないから、まさか好物だなんて思ってもみなかった。でも、それを選び続けている理由がようやく分かって、透はなぜだか安堵した。
「浅倉は」
「バウムクーヘン、とか?」
「……パンなの、それ」
 円香の少しだけ笑みを含んだ声に、透はちょっとはずむような感触をおぼえる。円香の後ろ姿は、首の周りのフードが重たげだった。自販機の音が低く振動している。透は求人誌を、開いたままテーブルに戻した。
「じゃあドーナツ。も、ダメ?」
「ダメじゃないけど。なんかあれでしょ」
 パンっぽいのにと透は続ける。それから円香は透の、斜め向かいの丸椅子に座った。長机にはアルコール消毒液が置いてあって、『持ち出し禁止』と書かれたガムテープが貼られている。
「お母さん、よく買ってくるんだよね。バウムクーヘン」
「ふうん」
「スーパーに売ってるやつ。カットバウムっていうのかな」
「小分けになってる」
「そう、それ」
 このくらいの、と手で大きさを示す。円香は、たしかによく浅倉家へお邪魔するとおやつに出してもらうことがあったなと思い返していた。
「あれさ、あれっていうか、あの、たくさんあるやつ」
「うん」
「本当のつくり方じゃないんだって」
「本当って?」
 透は円香の顔を見つめるが、マスクで下半分が覆われているために、表情が読めない。そのまま話を続けようとしたら、ちょうど五時の音楽が流れ出した。透はそれが鳴りやむのを待つ。目線を円香の動かした洗濯機に移した。ドラム式で、中身がぐるぐる回っているのがよく見える。
 風が入って、求人誌がぱらりとめくれた。おおよそ一分ほど、聞きなれた童謡がもう夜空になる直前の夕焼けに響いていった。円香の質問は宙ぶらりんになって、回答を待っている。音が止む。透がふたたび、口を開く。
「本当のは棒、ていうか、芯? まあそれに、生地を塗ってて、だから穴開いてて」
「年輪の模様になってる」
 二人は話しながら手で円を作る。同じ仕草をしたことがおかしくて、透はマスクの下で右ほほの口角をわずかにあげた。けれど、円香からはそれが見えない。
「そう。でも、それってすごく時間もお金もかかる」
「だろうね、まあ」
「だから、ああいう……大量生産のやつ? は、大きな生地を丸く巻いて、あとから穴をあけてるんだって」
 がこん、と大きな音がしてドラム式洗濯機が停まる。それから、逆回転し始めた。洗剤の香りがする。透は洗濯機の丸窓に映る円香の後頭部を見つめてみる。
「ドーナツは逆。なんか、誰かが穴開けはじめたんだって」
「誰かって」
「知らん」
 いつものようなとぼけ顔に、円香はため息すらつくこともなかった。かわりに、ぎい、と椅子と床を擦り合わせて鳴らす。
「でもやっぱ、穴開いてるからおいしいよね。バウムクーヘン」
「あいてるでしょ、量産品も」
「聞いてた? だから、後から、こう、型かなんかでさ」
「あとからでも、ちゃんと、穴開けてるでしょ」
 透は円香の言葉に小首を傾げる。そうすると、円香は説明するように言葉を重ねた。
「いつ開けても、穴は穴でしょ」
「そうかな。……そうかも」
「ていうか、おやつに食べてる。……撮影前も」
「ふふ、そうだね」
 円香の言葉に、透は母の買ってくるカットバウムのことを頭に描き出して、以前よりもそれを好ましく思う自分がいることに気づいた。透は、彼女の幼馴染が同じものを見ていても、自分よりもずっと注意深く見て、感じて、時折それらについて教えてくれることを心地よく感じていた。
 ピー、と高い音が鳴って、洗濯機が停まる。円香は洗濯物を取り出して、簡単にたたみながら鞄に戻していく。透は手伝おうとしたが、円香に遮られた。
「いい」
「えー」
「たたむなら、それ」
「え? ああ」
 円香がアルコールスプレーを指さしたので、透はそれの頭を2プッシュして、手に馴染ませた。それから樋口家のバスタオルを手にとって、隅と隅を合わせるようにたたんでいく。円香は透の手つきを盗み見ながら、手早く自分の下着や洋服を選んでたたみ、鞄に戻していった。
「はやく直るといいね」
「業者、週末には来るから」
「それまで毎日?」
「……いや」
 二日か三日にいっぺん、と円香は続けた。透はそれが少し残念だった。コインランドリーが気に入ったのだ。でも、彼女の家の洗濯機の不幸を願うのははばかられたので、口をつぐんだ。ふうん、と言った。そんなに気に入ったのなら一人で、自分の洗濯機でも洗いに行けばいいのだが、透にはそんなことは思い浮かばなかった。


「お菓子あるよ」
 そのまま自宅に戻り、二人は透の部屋へなだれこんだ。白い包みに「湯布院温泉クッキー」と書かれた缶を透は学習机のうえから持ってくる。個包装のクッキーをばらばらとローテーブルにうちやった。乱雑な仕草に、円香は眉間のしわを深くする。
「……これ雛菜のおみやげでしょ」
「そうそう。樋口は」
「もらったけど」
 まったく同じ缶が樋口家のリビングにおいてある。今朝も母親が朝ご飯がわりにいくつかつまんでいたのをみたところだった。
「……家族で旅行かー」
「仲いいから」
「しかも、ほら、飛行機」
 透は腕で飛行機のジェスチャーをしてみせる。ぶーん、と口でいうのを聞きながら、円香はそれは車の音ではないかと思ったが、わざわざ指摘するほどのことではないと黙する。
「……しかも、ってなに」
「うん」
「うんって」
「いやー、やばい」
「まあね」
 円香は、ここ二年ほど飛行機に乗ることがなかったな、と時勢を思いながら、浅倉の雑に放りだされたスクールバッグを見やった。雛菜のあげたという鮭を抱えた熊のストラップ。パステルカラーの生地はすこし薄汚れていた。
「暇だわ」
 透はテレビをザッピングして、消して、飽きたようにリモコンをベッドに放る。そうやっているからいつもエアコンだのテレビだのリモコンが行方不明になるのだ、と円香は放られたリモコンをテーブルに置き直した。
「……暇」
「なんか見る?」
「見飽きた」
「わかるわー」
 なんかないかな、と透は年末に整理したばかりのクローゼットを開ける。すると、ばさばさっと音を立ててボードゲームが落ちてきた。覗こうと顔をよせた円香が被害にあう。
「……」
「うわ、ごめん」
「いいけど。なに、これ」
 整理したんじゃなかったの、と暗に示すように乱雑としたクローゼットをにらみつける円香に、透はいやあ、と頭をかいた。
「正月、いとこきたから」
「……あー」
「盛り上がったわー、人生」
「ゲームね」
 あたりにはカラフルな紙幣が散らばっていた。円香も透も、それを集めるでもなく眺めている。
「社長なってさ。別荘ある。ハワイに」
「いいじゃん。人生ゲームの浅倉」
「ね。毎年、正月にハワイいってんのかなー」
「芸能人みたい」
「ふふ、やばい、ゲームの私」
 ほど遠すぎ、と笑いながら透は人生ゲームの盤を広げた。半畳ほどあるそれが二人の間に横たわる。透はルーレットを回して、そこらへんに落ちていた駒を進めた。
「えー、「格安SIMで電話代が浮いた」だって」
「……今っぽい」
「ウケるよね。12000ドルちょうだい」
「は?」
「浮いたから」
 電話代、と繰り返して透は手のひらを広げる。
「いや、……やらないけど」
「暇じゃん」
「二人でやってもでしょ」
「あー」
 透は納得したようで、ふたたび人生ゲームを折り畳む。折り目通りに半分にすればよいのに、無視して無理矢理閉じたようだった。箱にもきれいに収まっていない。駒やらカードやらも同じく箱にざあっと流し入れて、とりあえずしまえればよいという様子だった。
「あ、オセロもある」
「……まあ、いいけど」
 やったー、と喜んでいるんだかいないんだか、平坦な歓声をあげて透は四つ、真ん中に石を置いた。
「私、黒ね」
「ん……」
 ぱち、ぱち、とさして考える風でもなく石を置き進める。おたがい四隅を取ることはもちろん、勝とうという気持ちすら持っていなかった。
「ちょ、樋口そこ置かないで」
「え? ……こっちは」
「あー、まあ、そこなら」
「ふうん……」
 ひとつ左にマスを寄せたところで何が変わるのか円香にはよくわからなかった。そして、なんなら透もよくわかっていない。
 石がひっくり返る音だけが部屋に響く。騒がしい鳥もいなくなって、やたらに静かだった。
「……足りなくない?」
「え」
「私、もう石もってないんだけど」
「私も終わりだわ」
 透は手品でも見せるかのように両手を開いてみせる。手にはなにも持っていない。
「七マスあまってる」
「勝負つかないなー」
「……暇」
「暇だわー」
 ばたんと透がそのまま床に横になる。床暖房ぬくいわ、と片づける気もないようだった。かわりに円香が石をざらっとケースにしまい、盤を半分に閉じようとした。そうしたところで、ぱきっと音がなって盤が半分に割れた。
「え」
「あ、それ逆。裏側に閉じる」
「ごめん」
「いい、いい」
「買い直す、今度」
「いいって」
「……」
 いくら普段使っていないもので、石も足りていないとはいえ人のものを壊した気まずさに円香はうち黙っていた。透は若干の居たたまれなさに、焦ったように言葉を継いだ。
「あー、ほら、あれ、あれできる」
「なに」
「グレー」
 「グレー」というのは、幼いころに四人でよくしていた遊びだった。簡単にいえば将棋崩しのオセロ版で、白黒の山から順番に石をとっていって、山が崩れた方が負け。透が祖父の家で教わった将棋崩しを、幼なじみ三人と遊ぶために考えた、オリジナルのゲームだ。
「久々でしょ、樋口」
「まあね……」
 白黒の石をごちゃごちゃに混じり合っているから「グレー」というのは、透のネーミングだ。透が鼻歌まじりに石を積んでいく。
 それらを見ても、円香にはただ白色の石と黒色の石が積み重なっているとしか思えなかった。混ざってグレーには、到底見えなかった。でも、透が「グレー」とその遊びを言うので、グレーはグレーだった。
「この前事務所でやってさ、あさひちゃんと」
「へえ」
「めっちゃ負けたわ」
「めっちゃ?」
「十戦して、九戦」
 最後勝った、と得意げに笑う透に、円香はあきれるのもあほらしいと思った。
「……そんなにやる? これ」
「勝つまでやるから」
「……」
「あさひちゃんも、「受けて立つっす!」って」
「…………似てな」
「きびしいなー」
 透はそういいながらそうっと中腹の石を抜き出した。勝手に始まっていて、円香もしぶしぶ石を取る。いつもそうだ。気づいたらごちゃごちゃしたなにかに巻き込まれている。
 円香は、だから、自分とこの幼なじみを区分けていくことばかりしている。分けて、線をひいて、どちらからどちらまでが彼女なのかを見つける。円香はそういうことに腐心して、もう十七年が経っていた。これらが何年続くことになるのかを、もう考えることもやめていた。
「今日夕飯、カニだって」
「……豪華」
「親戚が置いてった。食べてきなよ」
「ん……」
「でっかいバケツのアイスもあるし」
 これくらいのね、と透が手で大きさを示してみせる。円香が興味なさげに首を傾げると、透は続けた。
「甘いよ」
「……」
「でかいし」
「聞いた」
「言ったわ」
 うん、と円香は頷いて石を抜き出す。少しだけ梺が崩れたが、透は気にしない様子で取り出す石を選んでいる。そして、チャレンジな一手で山を崩した。あーあ、と透はへらへら笑う。円香は石の雪崩を見て、やはりグレーには見えない、白と黒にしか見えないと思った。それに、そう見ようとしている。泊まってく、と円香はつぶやいて、いいね、と透は返した。
「今日、なんか月やばいって」
 透の言葉に円香は怪訝そうな顔を見せる。それらを気にもとめず、透は続けた。
「ほら、スーパーとか、ストロベリーとか」
「ああ……」
「赤かったり、でかかったりするやつ」
「どっち?」
「さあ?」
 どっちでもいいわ、と急に話を投げ捨てる透に、円香はため息すらつかなかった。
「月って、夏目漱石のさあ、あれあるじゃん」
 透が急に、思いついたように話をかえる。いつものことだった。
「……訳のやつ」
「そう。え、訳なの?」
「それが?」
 あー、そうかー、と頭をかく透に、円香は何も言わず、雛菜のおみやげのクッキーを摘んだ。プレーンなバタークッキー。カニあるのに、と透はすこし思ったが何も言わなかった。
「ギャグだと思ってたわ、なんか、そういう」
「……つまんな」
 おそらく訳とギャグの聞き間違いだろう、と円香は見当をつけて、クッキーをお茶で流し込んだ。もう一つ、と手を伸ばそうとしたので、透はカニ、と言ってその腕を妨げる。円香は無言で手を引っ込めて、カニね、と繰り返した。

 ○

 勉強会をしよう、と言い出したのはやはり小糸だった。帰宅路、目前の二学期末の試験の話題で、透が「範囲知らないわ」と漏らし、雛菜と円香は半ば巻き込まれるかたちで、つまりいつも通りの四人だった。
「も、もったいないよ、透ちゃん。やれば平均点取れるんだから……!」
「ほめられちゃった」
「褒められてる? それ……」
 透がいつものなにも考えていなさそうな顔で、小首を傾げる。小糸がごまかすように勉強会の話に話題を戻した。
「ど、どこでやろっか?」
「ガストは〜?」
「いいね」
 前を向いていた透は、後ろを歩く円香と小糸にむかって振り返る。
「作ったげる。オレンジカルピスのジンジャー割り」
「普通に飲みたいんだけど……」
 ドリンクバーで遊んじゃだめだよ透ちゃん、勉強しにいくんだよ、まったくもう、と小糸は怒りながら、どこかうれしそうでもあった。
 駅前のガストは、おなじようなことを考えた中高生の集団で混雑していた。忙しそうな店員は、四人にそっけなく満席です、と言い渡し、オーダーを取りに戻っていく。すでに並んでいる客も多く、とてもすぐには入れそうになかった。
「帰る〜?」
「が、学校の自習室ならあいてるかも」
 小糸が自信なさげにそういうと、雛菜は戻るの〜?と不満そうに眉を寄せた。それらをみて、思いついたように透が声をあげる。
「うち来る?」
「行く〜!」
「……」
「べ、勉強する……!?」
 小糸の心配そうな顔に、雛菜と透は笑顔を浮かべて答える。
「するよ」
「するする〜〜」
「…………」
 するわけない、と円香は思ったが、口には出さなかった。どうせガストに行っても、透はドリンクバーで遊ぶし、雛菜はパフェとプリンを頼んでお腹いっぱいになったら眠いといって帰っていただろう。四人の勉強会は、せいぜい一時間持てばいい方なのだ。
 浅倉家に着くと、ちょうど透の母親が家をでるところだった。自転車をまたいで、漕ぎ出そうとしたところで、四人の姿に気づく。
「あら、みんな揃って。いらっしゃい、お母さん出かけるけど」
「ほい。いってらー」
 いってきまーす、という母親に、透以外の三人がそれぞれおじゃまします、と声をかける。振り返りながら、冷蔵庫のプリン食べていいからねー、と大声で呼びかけて、危なっかしいな、と円香は思った。
「てか、私の自転車乗ってってるし」別にいいけど、と透は続ける。「ぜんぜん乗ってないわ、最近」
「雛菜も〜」
 昔は習い事行くのに使ってたけどね〜、と続けて、雛菜ちゃんの自転車かわいいのに、と小糸が口をとがらせる。どんなだったか、と透は頭に浮かべようとしたが、結局思い出せなかった。
 透の部屋に四人があがっても、勉強会がすぐに始まるわけもない。先ほど透の母が出がけに言っていたプリンを食べようということになった。プリンは四人が住む街では有名な、小さな洋菓子屋のものだった。瓶の底にはカラメルが輝く、堅めとも柔らかめともつかないまっ黄色のプリン。
 いの一番に食べ終わった透が、スプーンをひらひらさせながら思い出すようにつぶやいた。
「プリン、これ買いに行ったわ。自転車で、昔」
「へえ〜〜?」
 雛菜が特段興味もなさそうに相づちをうつ。円香は急に息苦しさを感じて、のどが詰まる。三人に、とりわけ、透には気づかれないように小さく咳払いをして息を整えた。
「初めて乗れるようになった時ね。練習のお礼に買いに行ったの、親に」
「親孝行〜〜」
「でしょ」透はわざとらしく得意げに口角をあげた。「樋口の分も買ってったわ。ね?」
「…………」
 円香は自身を見つめる透の目をみて、すぐにそらして、もう一度見てみる。相変わらずなにも考えていなさそうな顔に、腸が煮えくり返りそうなほどの怒りを感じた。それを誰にも悟られないようにするのが円香にとっては当たり前で、だから、なんでもないように答える。
「それ、私の話」
「えっ?」
 先に驚いた声をあげたのは小糸だった。透はきょとんとして、何でもなさそうにへらっと笑った。
「あれ、そうだっけ?」
「私が浅倉のおじさんとおばさんに教えてもらったから、お礼に買っていったの」
 共働きで海外出張の多い円香の両親に代わって、公園での練習につき合ってもらっていた。小学校二年生のころだった。円香の両親が何かを持っていきなさいとお金を娘に渡して、円香はプリンを四つと、焼き菓子のセットを自転車で買いに行った。透はラッキー、といいながらプリンを食べていた。その記憶がいつの間にか、ーー親から繰り返し聞かされているうちにだろうかーー透の中では、自分のものとして混ざっているようだった。
「やば、私」
「……昔の話だから」
 透は円香の練習を見ながら一人でブランコやジャングルジムを遊び渡っていて、自転車には気づいたら乗れるようになっていた。クラスで一番最初に一輪車に乗れたのも透だった。気づいたら、乗れるようになっていた。
 自転車も一輪車も、習得するのに、円香は人並み程度の練習時間を要した。バランスを崩して転倒し、膝をすりむいたこともあった。滲んだ血を水道で洗い流して、痛みに耐える。そういう記憶は自分だけのもので、透にはないものなのだ。そう思いながら、円香は最後の一口を掬う。カラメルと黄色い卵液が混ざり、ぐちゃぐちゃになったそれは、甘くて苦い。昔から変わらない味だった。

 ○

 ぱき、と心地良い音で真っ赤な殻がむける。円香は蟹の脚をポン酢につけて、食べた。向かいで、透はうまく剥けずに、身と殻をぐちゃぐちゃにしていた。
「やばいわー」
 見てこれ、と透はぐずぐずになった蟹の身を箸ですくって見せつける。円香は代わりに剥いてやろうか、と言い出そうとして、やはり言い出さずにいた。
「変なとこで折るからそうなるんだって。もっと、節の手前で」
「え、そうなの?」
「そうだけど」
 はぁあ、と関心したようにため息をついた透が、円香の助言通りに蟹の脚を折る。先ほどまでよりかは幾分かきれいに身が剥けたようだった。
「樋口は本当にすごいね」
 言われた円香は、眉間にしわを寄せる。透はそんなことには気づかない様子で、あー、と口をあけて、上から流し込むように蟹を食べた。
「何。急に」
「えー? すごいじゃん」樋口はなんでも知ってるからさ、と透が言う。なんでも? 円香が疑問を差しはさむ前に、透は続けた。「そういうの、どこで習うの」
「習うっていうか……」
 習うようなことではない、と、言ってしまってよいのか、円香には判断が付かなかった。そもそも、そういうの、ってなんだ。どこからどこまでのことを言っているんだ。些細、もしくは重大な疑問が頭をぐるぐる回って、答えがこぼれ落ちる。
「見てればわかる」
「見てれば?」
 オウム返しをする透の目は、きょとんとしていた。幼いこどものようだった。それを見ないように、浅倉透を見ないように、円香も再び言葉を重ねる。
「そう。……見てればわかる」
 自分で言ってみせてから、円香は、ああ、言ってしまった、と思う。透は、納得したのだか、していないのだか、ふうん、と相づちを返して、頬杖をついた。
「手」
「え?」
「……汚れてる」
「あ、ほんとだ。はは」
 顔べたべただわ、と無邪気に笑う幼なじみに、若干のいらだちを感じながら円香は濡れ布巾を用意する。
「はい」
「拭いて」
 円香がタオルを差し出した右手を無視して、透は、ん、と顔をあげてみせた。
「は? ……いや、自分で」
「両手べたべただし」
「手洗って、水道流して、それから拭けば」
「え? 何? むずい」
「…………」
 はあ、とため息をついて円香は差し出された女の顔を濡れタオルでなぞる。これじゃまるで子どもではないか、と円香は思ったが、ではそれにいいように使われている自分はなんなのか。
 べたついた白い肌を布巾でぬぐいながら、円香はひっ叩いてやりたい、このまま無茶苦茶にしてやりたいと思う。でも、やはりそんなことを微塵も出さないように、指で透の両頬を挟んできれいな顔を崩してやる。
「んわ、何」
「……」
「んー? ふふ」
 円香は腹の底から沸き立つべたついたそれをかみ殺しながら、へらへら笑う幼なじみの顔から手を離す。真実に汚れているのは彼女の顔じゃなくて、自分の手に違いないのだ、と確信しながら、タオルを洗濯籠へ放る。ナイッシュ、と透は笑った。

 ○

 がこっ、と大きな音をたてて、透は半分に折り畳まれた卓球台を開く。少しほこりっぽく、円香はくしゃみを数回繰り返した。
「砂っぽ」
「卓球部ないしね」
 ほら、と円香は手入れのされていないラケットを取り出す。透は受け取って、おー、つぶつぶ、と、表面を撫でた。
「ラケットって、赤と黒、何が違うの」
「さぁ? しらない」
「じゃ、樋口、赤ね。好きっしょ」
「や。別に……」
 いいながら円香は赤のラケットを手にして、砂っぽい表面をなぞる。透は不思議そうにそれを見つめて、いくつかの球をポケットに入れた。
 卓球やりたい、と透がいいだしたのは、いつもの気まぐれだった。昨日映画見たんだ、卓球の、と言って、円香が用意していた6時間目の教科書とノートを放り出させて、誰もいない体育館へ連れ出した。
「火曜の6時間目ね、毎週空いてるんだ」
「……数学、小テストだったんだけど」
「ラッキーじゃん」
 はあ、とため息をついて、円香は諦めて卓球台にネットを張った。あとで保健室の名簿に二人の名前を書いておけばいい、と円香は自分の中にいいわけをたてる。
 透はできあがった卓球台をぐるっと回って、位置についた。反対に、円香が立つ。
「できるの」
「んー、まあ。普通に打つだけだし」
 カコ、と軽い音がして、白い球が跳ねる。円香はそれを軽く打ち返して、またカコンと音がした。お互い強く打ち返すでもなく。ただラリーが続く。
「なつかしー」カコン。
「いつぶり?」カコン。
「えー、温泉行ったとき。小4とか」カコン。
「中学、体育でやらなかったっけ」カコン。
「え?」カコッ。
 透が小首を傾げて、ラリーがとぎれる。おっと、と球を拾うのにかがむ。体操着ではなく制服のままでいるのを忘れているのか、下着が見える。
「浅倉。パンツ見えてる」
「マジ? 樋口、エッチ」
「やめて。見たくもない」
 ひどいなー、と透はポケットから新しい球を取り出して、サーブを打った。先ほどと同様にゆったりとした弧を描いて、円香の陣でバウンドする。円香も同様にそれを軽く打ち返して、またラリーを続けるつもりでいたのに、透は急に構えてスマッシュを打った。円香は当然反応できるわけもなく、球は強く叩きつけられて、背後に転がっていった。
「何、急に」
「『3世紀早まったねー、おれに挑戦するの』」
 透が笑い、急に芝居がかった口調で話し始めて、円香は眉間にしわを寄せる。
「だから、何」
「ピンポン。映画」
「ああ……」
「昨日見たんだ。NetFlixで」
「ふうん。どんなの」
 透は円香の背後に転がっていった球を探したが、どうやら遠くまでいってしまったらしい。諦めて、卓球台の前へ戻る。
「卓球部の高校生の話。主人公と、ずっと一緒に卓球やってる幼なじみがいて……。知らない?」
「知らない。有名なの? いつの映画?」
「たぶん、2000年くらい」
「生まれてないし」
「ほんとだ」
 今度みる? と透がたずねるので、円香は気が向いたらね、と返した。ふたたび、どちらからともなくゆったりとしたラリーが始まる。
「血は鉄の味がする、ってその映画でいうんだけど」
「え?」
「んー、まあ、主人公が暗いからロボットって悪口言われてて」
「ん」
「だけど、主人公にも血は流れてて、人間で、血は鉄の味がするんだって」
「うん?」
「そういう映画」
「……ふうん」
 円香は曖昧な透の説明を聞いて、よく分からない映画だ、と思う。よく分からないのは映画ではなくて、おそらく透の説明のせいだけれど。でも、自分に血が流れていることなんて、否が応でも、毎月知る羽目になるではないか。
 頼んでもいないのに、月に一度股から血が溢れ出ていく。来週あたりだ、と考えたら自然と眉間にしわがよって、円香は球を打ち返し損ねた。コッコッコッ、と白い球が床に落ちて、跳ねていった。

 ○
 
 朝六時、透は目を覚まして布団の中で腕を伸ばすと、温かくて柔らかい感触があった。そこで、ようやく、そういえば樋口泊めたんだった、と思い出した。カニを食べて、アイスを食べて、満腹になった二人は夜更かしもせずに早々に眠りに落ちたのだった。
 安らかな寝顔の幼馴染の頬をなぞって、透はひとり窓の外を見た。電線の上をリスが走る。ああ珍しいものを見た、と透が思っている間に、円香がなぞられた頬の刺激でもって起床する。頭を枕に預けたまま、半身を起こして変わり映えしない景色をのぞく幼馴染に、円香はおはようよりも前に疑問を投げた。
「なに」
「なにが?」
「顔」
「え? 今日もかわいいね、とか?」
「は?」
 海外ドラマのようなセリフと仕草で以て円香の問いに答えた透は、芳しくない相手の反応に小首を傾げる。円香も同じように疑問を抱いたようで、怪訝そうな顔をしてからもう一度毛布を顔までかぶった。すれ違ったことに気づくと、円香はいつもなかったことにする。
 これらのことに透は気付いていなかったし、円香自身も気付いていなかった。いつもあることで、わざわざ取り上げて言い出すようなことではない。でも一度起きたことも思ってしまったことも、全部なかったことにはならない。遠くからは均された地面に見えていても、実のところはでこぼこだらけの月面と同じだ。
 再び毛布をかぶった幼馴染の、茶色い頭頂部が朝日に透けてあかるい。リスの毛色よりもずっと。透はその一筋を梳いて、よく指に馴染むのを確認する。円香が静かに寝息を立て始めた。どんな夢を見ているのか、透には決して覗けない。円香が言わなければ、彼女の夢は彼女だけのもので、そこにとどまり続ける。月を見忘れたことを思い出して、かわりに昇っている太陽の眩しさに目をやった。まあ、どっちでもいいか。透はそうそうに後悔をやめて、幼なじみ同様に二度寝を決め込んだ。
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