ノッキン・オン・ヘヴンズ・ドア


 嵐の夜、早く眠りにつかない子どもたちの家には、世にも恐ろしい魔女がやってきて、一生解けない呪いを授ける。
 円香の母が、娘のための寝物語にしてくれた話の一つだ。円香の母も、彼女の母ーーつまり円香の祖母にそれを教わったという。祖母の地域に伝わる話なのか、それとも何かの絵本なのか。定かではないが、そのような幼き日の夜を思い出すほど、窓の外は荒れた天気だった。
 あたりはすっかり暗く、雨風の音は激しい。地面を叩きつける音が騒がしいほどであった。時折、雷鳴が響いたりもした。こんな日は早く寝るべし、という言いつけを破ったのがいけなかったのだろうか? 円香は幼馴染の顔を見て、そんなことを考える。
 普段から、どこか掴めないだとか、神秘的だとか評される女ではあったが、この夜の彼女は格別だった。見ているものも聴いているものも、すべてが研ぎ澄まされているようだ。口からこぼれ出る言葉たちは詩的で、常識的な思考の枠組みからは外れた文法で以って、踊るようにつむがれる。それらに合わせて、細長い四肢は地球の重力からは放たれたかのように、しなやかに動く。そして、この世のすべてが彼女を祝福している、そんな多幸感に満ち溢れた美しいかんばせであった。ようするに、アッパー系のドラッグを使用していた。



 八月半ば、例年ならば親の実家へ帰る浅倉家も、都内の感染者数急増を考慮して、帰省を取りやめた。盆の夕方、やることないわ、と電話口で言う透に、円香が夏休みの宿題の存在を仄めかすと、ウチでやろうよと呼び出される。いつものことだった。お題が宿題か、映画か、ゲームかの違いだけ。問題集をならべて、各々が取り組む。三十分もしないうちに、飽きた透がテレビを点けてニュース番組やバラエティ番組をザッピングしたり、雑誌をめくったりしている。窓の外は大雨が降っていて、警報もでているらしかった。
「あ」
「何?」
事務所のアイドル雑誌を持ち帰ってきたらしい、透が指さしたページにはこの頃メジャーデビューしたばかりの地下アイドルが載っていた。以前ノクチルとして、深夜番組で共演したことがある。
「おぼえてる?」
「まあ。挨拶しただけだけど」
「収録の帰り、一緒になってさ。すた丼奢ってもらった」
「何食べてんの……」
「え、とろすた丼」
「……」
 アイドルらしからぬ食生活の幼馴染に、しかし円香は何を言う気にもなれなかった。円香の眉間の皺には目も暮れず、透はトートバッグを漁っている。あれ、ないな、と終いには中身をすべてひっくり返した。ポーチと財布、ガムに日焼け止め、イヤホンと目薬がぐちゃぐちゃに絡まっている。ランドセルの頃から変わらない。
「ないなー。やばい」
「何?」
「昨日、また会ってさ。プレゼントもらって」
「プレゼント?」
「うん。お茶誘われて」パフェ食べたわ、と透がスマホを見せる。桃とバニラアイスと生クリームのかたまりがのっていた。「あ、あったあった」
ラックにかかっているシャツのポケットから、透が何かを取り出した。これこれ、と円香が座るテーブルに放り投げる。フリーザーパックだった。
「ジップロック? ……もらったの?」
「違う違う、中身」
持ち上げてみると、たしかに底に何かパウダーが入っている。ダイエット食品か何かだろうか? 円香が怪訝な顔をしていると、透が片頬を上げて笑う。円香は嫌な予感がした。
「良いやつらしいよ、めっちゃ」
「なにが」
「え、気分。使うと」
「…………バっカじゃない、の」
 絞り出したように円香が言うと、透はいつも通りの笑顔で、珍しく動揺している幼馴染の肩をトントンと慰めるように叩いた。
「だいじょーぶ。なんか、安心していいやつって言ってた」
「ちょっとそれ、使うつもりなの」
「うん。興味ない? 芸能人って感じじゃん」
「芸能人のイメージどうなってるの」
「暇だからさ。これ、ほら」
 じゃーん、と言って細めのストローを取り出す。円香は、このバカ、と思う。口に出そうとする。そうしたところで、ちょうど透の母が下から晩御飯だよ、と声をかけてきた。はーい、と透が何でもないように返事をする。
「コロッケだって、今日」
「……うん」
「あ、お母さんには内緒。ね?」
「……」
 階段を降りていく透の背を見ながら、円香はおおきなため息をついた。それを聞いた透は振り返り、コロッケ嫌いだっけ? と暢気な顔で尋ねる。嫌いじゃない。では好きなのか? それもまた違う。ただ、見ている。ずっとそれのことを考えている。幼い頃から、真実の意味で、ずっと。それらの言葉を飲み込んで円香は、別に、と答えた。だから、こんなに困っているのだ。

 風呂から上がるころには透の気が変わっていることを願ったが、テーブルにはジップロックとストローが置かれたままだった。パジャマ姿の透が粉をティッシュに取り出す。
「すこし鼻、上の方つまんで、こう、吸うんだって」
「粉、飛び散る……」
 透が思い切り吸って、すこし咽せる。コップの麦茶を飲みほして、もう一度吸い始めた。なんでこんなに躊躇がないのか。目の前の幼馴染が少し恐ろしくなって、円香は麦茶のおかわりとってくる、と言い残して逃げるように階段を降りた。台所では、透の母が果物を切っていた。
「円香ちゃん。ちょうどこれ持っていこうと思ってたの」
「ありがとうございます。いただきます」
透明なガラスの器に桃が数切れずつ入っている。親戚から届いたの、甘いよ、と透の母は余った切れ端をそのまま手で食べた。今あなたの娘さん薬物に手を出してますよ、とは言い難いなと円香は器の乗ったトレイを受け取る。
「泊まっていくよね?」
「たぶん、はい」
「よかった。今日お家ひとりなんでしょ? 台風すごいみたいだから」
「あ、そうなんですね……」
 窓の外に目をやっても、暗くて外の様子はよくわからなかった。ただ、雨が地面を打ち付ける音と、時折雷の響く音がする。嵐が来ているらしかった。
 少しばかり透の母と雑談をして、円香が部屋に戻ると、透はおかえりといつものように呟いた。普段と変わらないようで、ただ、すこし目つきがぼんやりしているようにも見えた。
「どう?」
「ちょっとあったかい感じがする」
ほら、と言いながら透がぬっと白い腕を無遠慮に伸ばしてきたので、思わず円香は身をかわした。行き先のない手を、透はぐー、ぱー、と握ったりあけたりを繰り返して、急にだらんと落とした。
「あー、なんか聞こえる」
「え? ああ、風の音が」
「いや、違くて、なんだっけ。この歌……」
 ふん、ふん、ふふふん、ふふんふん、と透がうわっついた口調で歌う。桃を食べながら、円香も聞き覚えのあるようなそれに耳を傾けた。ローテーブルに突っ伏してふにゃふにゃ歌う透を見て、これバレたら私も怒られるのかな、と考える。
「ふふっ、樋口、羽根生えてる」
「…………」
 透はけらけら笑いながら円香を指さす。ずいぶんと愉快な幻覚が見えているらしい。円香がどうしたものか、と桃をまた一口食べている間も、透ははっきりしない呂律で歌ったり、笑ったりしている。
「きれいだね。白い。天使?」
 のったりとした動きで、透は円香の背中をさするように触れる。ゆっくりではあるが先の読めない動きに、円香は思わず口に含んでいた桃を吹き出しそうになったが、すんでのところで耐えた。
「何」
「羽根、どうなってんの?」
 言うがはやいか、透は円香のTシャツの中に腕を滑り込ませる。妙に温かいその手が肩甲骨に触れて、円香は叫び出しそうになるのを堪えた。
 肩甲骨をなぞる指が、触れる腕が、円香にはすべて耐えがたかった。何よりもその触れるものが、透であることが。やめてと言おうとしたまさにその時、透はTシャツをめくりあげて円香をうつぶせにするよう押し倒した。急な力のかけられ方にバランスを崩して、円香はフローリングに肘を擦る。焼けつくような痛みがあった。
「ちょっと!」
「天使がいる」
 円香の制止の声も聞こえていないのか、透はうつ伏せになった彼女に馬乗りになって、その背中を白く長い指でなぞっていく。くすぐったさと、あまりのやり切れなさに、円香はいっそ大声で泣き喚けたなら、と思う。
「天国じゃん、ここ」
「どいて」
「天国って、みんな、海の話するんだって。……はやく行きたいな、また。みんなでさ」
 円香の背に沿うように透はもたれて、肩甲骨と首筋、それから耳元へと唇を這わせていく。彼女にだけ聞こえているらしい特別の音楽を口ずさみながら。
「浅倉」
「連れてってよ」
 振り返った円香の頬に触れて、こうすることが当たり前であったように透は唇と唇を合わせて、舌を差し込む。生温かくて柔らかい。今すぐにでも引き剥がしてやらなきゃいけないと思うのに、円香にはそれができずにいた。他人をーーいや、他ならぬ透の侵入をこそ、拒まなくてはならない場所があるのに。
 差し込まれた透の舌は、円香の口内を暴力的に蹂躙する。円香はただ、圧倒的な熱の侵入にされるがままだった。歯列をなぞられるたびに背筋が震え、頭の奥が痺れるような甘さがあった。その甘さが窓の外で光る雷と同等かそれ以上に強く、身体を貫いていく。だのに、円香の思考は快感にすら溶けてくれない。透が彼女に侵入している事実が、ただはっきりと円香を蝕んでいく。
「口ん中、甘い」
透がやはり唐突に唇を離して、糸が伝う。自身と透の間を繋いで、そしてすぐに途切れて落ちる唾液。円香にはその光景が、地獄ほど恐ろしかった。
「……桃食べたから」
「夏いね」
 いつもより数段ぼうっとした目つきのまま、透は円香の肩を押して、仰向けにさせる。円香は自身に馬乗りになった透から、目線を逸らす。そんな透の姿は、彼女には直視し難かったのだ。
「樋口としたい」
「浅倉」
円香の返事も待たずに、透は組み伏せている女のTシャツを剥ぎ取って、鎖骨のあたりに指を触れる。骨をたどって白い胸元へ、輪郭を沿うように這っていく。透の指先が熱い。円香には、透の触れた場所すべて火傷が残ってしまうのではないかと錯覚してしまうほど、熱く思われた。
 セックス。それを自身としたいと宣う透が、その姿が、円香にはもう捉えることができない。人のかたちを持った災厄が、円香の白皙の額に口付ける。頬を撫ぜる。乳房に触れる。反射として震える背中や声だけが、自分のものだった。風が窓を強く叩き、時折、稲妻が光る。いっそ轟音とともに、自身も引き裂かれてしまったなら。円香は馬鹿げた祈りとわかっていながら、それを願わずにはいられなかった。そういう類の衝撃だった。
「冷たいね、身体」
「……浅倉が熱い」
「え?」おどろいたように、透は樋口の腹をなぜる右手をそのままにもう片手を自分の額に載せる。「……わかんない」
「ずっと、……そこ、触ってるから」
「あー。たしかに、もうあんま冷たくないかも」
「そう」
「樋口もあったかくなってく」
一緒、と透が呟いて、円香はそれに殴られたような鈍痛があった。そんなわけはない。そうであったなら、自身が目の前に見ている女が何を考えているのか、秘めているのか、その答えを知り得るはずもないのだから。
 円香が自身にそう言い聞かせても、融けていく温度と温度が、二人の輪郭を曖昧にしていく。それでも思考だけははっきりと醒めたままで、感覚に夢中になることすら叶わない。
「樋口も触って」
「え?」
 透が円香の手を引っ張って、馬乗りになっている自身の足の付け根へと運んでいく。パジャマのズボンと下着を膝まで脱ぎかけて、そこにあるものがなにか、円香にもわからないわけはなかった。裾の長いTシャツで隠れている暗闇に、手が触れる。
「ひ」
「濡れてるでしょ、めっちゃ」
「…………っ」
 引っ込めようとした腕を、透が力強く制止する。力の加減が効かなくなっているのか、思わず痛みに顔を歪めるほどだった。それでも、その痛みよりも自分の指先に触れる体温の方が恐ろしい。生温かい泥濘、風雨の轟音、浅倉透の碧眼、嗅ぎ慣れたシャンプーの香り、口に残る桜桃の甘露の後味。すべてが悪夢になっていく。円香は目の前の、幼馴染とされる他人の顔がひどく眩しくて、うつむく。
「樋口?」
「こんな」
「うん?」
「こんなこと、していいと思ってるの」
 ようやっと絞り出した円香の言葉に、透はいつものように小首を傾げる。少し考えたような素振りをして、やはり微笑をたたえて言った。
「樋口は特別」
「特別、って」
「スペシャル。どっちでもいいけど」
何とでもないように透は言い放って、いよいよ円香は海の底に突き落とされたような感覚があった。どこにも光が見えなくて、先ほどまで見えていたはずのさまざまな輪郭が闇に消えていく。
「樋口、泣いてる?」
「泣いてない」
「泣いてるじゃん」
どうどう、と言いながら透は、幼子にするように円香の頭を撫でる。赤褐色の髪がくしゃくしゃと音を立てた。その手の温かさに、円香は幼少期に母がよく語っていた昔話を思い出す。
 嵐の夜に一生解けない呪いを授ける魔女とは、誰のことか? それは眼前の幼馴染なのか、それとも、自分自身なのか。疑いようもなく後者だったのだ、と円香は悟る。透を呪いにしたのは、円香自身で、だからこそ一生解けない。流れるままに涙が頬を伝っていく。彼女は激しく泣き喚くべきだった。でも、彼女はそうする術を知らなかった。明日は晴れるって、という透の的を外れた慰めが、むなしく響いた。
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