お人好しさんの冷たいスープ


「あら、新しいスープ?」

マニュアルを眺めながら作る、鍋にいっぱいに詰まったそれを見て、俺にそんなことを訊ねたのは八千代だった。
ワグナリアでいつものように働きに来て、客があまりいない今の内にこれをやって置おうというわけで、今はまだメニューにも載っていないそれとを彼女に見せながら答えた。

「ああ、新メニューの」

ふうんと興味があるのかないのか、いまいちよく判らない返事をしながら鍋を覗き込んでいる。それから俺の手にある作り方を見て、考察。

「冷たいスープなのね。内地の夏でならとても暑いし売れるでしょうけど、ここは夏でもあまり暑くならないし売れるかしら」
「お前が売れるかなんて気にするの珍しいな」
「さっき杏子さんが言っていたの!」
「あ、そ」

珍しく店の思案かと思えば、やっぱり行き着くそんなこと。それこそ俺には興味はなく、このまま店長のノロケになる前に追い払おうかと考える。だが意外にも、八千代は何を言うでもなく、じっと鍋の中を見つめていた。俺がおたまでくるくるとかき回せば、一緒に回る視線に思わず笑ってしまいそうになる。いや、堪えろ。

「なんだ、店長に食わせたいのか」
「あ、杏子さんはスープとかあまり飲まないのよ。お腹がいっぱいにならないからですって」

ああ、あの人間なら言いそうだなぁと、いつもパフェやら何やらを貪る店長を思い浮かべ、考えるのをやめた。結局はいらいらするだけだ、仕事しよう。
暫くはそうして再びキッチンと向き合ったのだが、依然として動かない八千代に、俺は一つの結論に至る。あ、もしかして。

「お前が食いたいのか…?」

ぽつりと訊ねれば彼女は顔を真っ赤にして首を振った。うっかりときめいたなんて…、まさか。

「え、もう佐藤くんたら!そんなことないわよ。あ、お仕事の邪魔よね。ごめんなさい。私、杏子さんのところ行って来るわね!」

くるりと踵を返して、ふわふわとしながら走っていくのに、ぶら下げた刀がそれをぶち壊す。ふと煙草が吸いたくなってポケットを探ったが、生憎仕事中の為にロッカーに入れっぱなしだった。
結局何も掴めないままの手は台ににつき、作りかけのスープを見つめる。水面には俺の顔など映らないが、決して濁りがあるわけでもなく。すっかり冷めたこのスープを、更に冷やす為に冷蔵庫に入れなければ。それを鍋ごと抱えたまま、俺はキッチンにある冷蔵庫に向かい、ひとつ大きなため息を誰もいなくなったその場所で、盛大にも吐いていた。

店も閉店し、高校生組は早々に帰宅した。店長までもがお先にと言って帰った中で、俺と八千代とだけが残される。後片付けも終わった頃には大分夜も遅くなっていて、疲れたよりも先行するのは腹が減っていたことだ。廃棄間近ので何か作ろうかと考えながらも、俺が手に取ったのは、また別のものだった。
休憩室に足を運ぶと、そこには八千代が息をつきながら座っていた。どうやらホールの方も片付けが終わったらしい。未だ着替えてさえいない彼女の前に、俺はそっと手にあるものを置いた。

「ほらよ」
「え?」
「余ってたから、やる」

それは昼間に作っていた新メニューの冷たいスープ。食いたいのかと聞いた時は否定されてしまったが、あの顔はあからさまに食べたい意だということぐらい、この四年で嫌でも理解できるようになったのだ。いや、嫌じゃないけど。店のものだが、今夜の分の余ったものぐらい、食べたって構わないだろう。それで駄目だと言うのなら、あの大食らい店長を突き出してやる。
それでもひたすら渋る八千代に、俺からもう一押し。

「いらないなら俺が食べるぞ」
「…ううん。ありがとう、佐藤くん!」

そう言ったかと思えば嬉しそうに笑ってスプーンを手に取る。そう、この顔。この顔に俺は弱いんだ。店長のことを話してる時はいつもそうだが、今のこの顔は俺が引き立てたもんだ。ざまあみろ。

「美味いか?」
「ええ、とても美味しいわ。今度杏子さんにもお勧めしてみようかしら!」

スプーンで丁寧に頬張りながら八千代はスープを食らっていく。俺はそんな好きな奴の顔を見ながら向かいに座り、そっと煙草に火をつけた。
それからどのくらい経っただろう。俺にはあまりに早く感じたが、実際は数分も経っていなかったかもしれない。じっと見つめていた八千代をふと意識を持って見てみれば、口元が少し色が変わっていた。

「…八千代」
「なに、佐藤くん?」
「口元、ついてる」
「え?やだ、恥ずかしいわね」

一旦スプーンを置き、右手で拭おうとするがそこには至らない。あまりのもどかしさに俺は吸っていた煙草を灰皿に潰し、八千代へと歩み寄った。

「そこじゃなくて…、たくっ」
「あ…、ありが」

八千代の口元を拭った瞬間、あまりに無意識すぎて少し前の馬鹿な俺を呪った。指で擦った際に触れてしまった、ふにゃりという感触。八千代の、唇。自覚した時には既に思考回路は止まっており、その状態のまま止まった俺に対して、八千代は首を傾げながら言葉を詰まらせた。
先程まで口元にあった指は、するりと降下し彼女の頬へ。左手は支えにテーブルへ。何をしているんだとか、考えられる頭は今はなく、ただ、ただそう…触れたいとだけ思ってしまって。
くちづけをしてからやっと、我に返った。

「わり、血迷った」

放心状態のままの八千代に、俺もまた放心状態半ばになりながらもそう言うしか逃げ場がない。このまま前にうっかり告白してしまった時みたいに帰りたかったが、バイト仲間もおらず、女を一人置いていくこともできない。ましてや好きな女と、キスしてしまった後に。
どうしよう、このままじゃただの変態なんじゃ、と脳内を掻き回しつつ、相馬がいなかったことに心底感謝した。そして自分に馬鹿だと盛大に拍手したい。
とりあえず落ち着く為に煙草を吸おう。立ち尽くしていた自分の足を漸く動かし、煙草へと手を伸ばそうとした瞬間、八千代が俺を呼んだ。

「佐藤くん」
「わ、悪い。さっきは」
「違うの、佐藤くん」

慌てふためく俺と、冷静なのかやっぱり放心しているだけなのかよく判らない八千代。違う、と言われて何がと言いたかった自分をぐっと堪え、逸らし続けていた視線を八千代に向ければ、彼女は顔を真っ赤にして、口にした。

「私ね、さっきの嫌じゃなかったの。どうしてかしら?」

今度呆けるのは俺の方。くわえた煙草をぼろりと落とす。それは、えっと、なんだ。しかし本当に、相馬がいなくてよかった。
色んな感情とを入り混じらせながら、八千代を見る。ああ、そう。この顔が、自分が嫌になるほど好きなんだ。

「好きだ、八千代」
「私も好きよ、佐藤くん!」

だから、その意味違うんだって。

(100622)
さとやち企画様に捧ぐ。

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