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一人参り
-ヒトリマイリ-
その日、波路奏介は一人で墓地へと足を運んでいた。
今日の空は気持ちの良いほど晴れ渡り、春の陽気も相まって清々しさが胸をくすぐる。
どこまでも広がる青空を見渡した後、奏介は二人分の名前が刻まれた墓石を水で流して綺麗に磨き、新しい花を添えた。
一連の動作はもう手慣れたものだ。
辺りにはあげたばかりの線香の香が漂い、懐かしい気持ちが心に流れ込んでくる。
それらを取り込むかのように深く息を吸ったあと、いつものように両手を重ねて目を閉じた。
…両親が亡くなった当初、奏介はまだ五つだった。
誠実な父と優しかった母は、十年前にこの江戸の街で起きた、とある大きな事件で殉職した。
他にも沢山の死人や怪我人を出したその事件は後に“江戸の大狂乱”と呼ばれ、人々の心に大きな爪痕を残すこととなる。
事件当時はまだ幼く無力だった奏介も、ついに元服を迎えるほどの歳月が流れていた。
「…よしっ」
声を吐き出すのと同時に、合わせていた両手を解いた。
傍らに置いていた桶を掴み、磨いたばかりの墓石に刻まれた二人の名前を見る。
父と母が亡くなった当初は目にするのが苦痛で仕方なかった墓石も、成長した今では月に一度足を運ばなければ落ち着かない。
今は十回目の命日が近いため、余計にその気持ちが強まっているというのもあるのかも知れない。
この春から、奏介は城に勤めることになっていた。
即ち、一端の武士として家を継ぐことを意味している。
それを思う奏介の瞳には、堅い決意と父の姿が滲んでいた。
切望していたその日を前に奏介が一人緊張を高まらせていた時、目の前をはらりと何かが過ぎるのを感じた。
「……あ」
それに気付き、思わず口元が緩む。
空から降ってきたように見えたのは、まだ七分咲きの桜の花びらだった。
一瞬吹いた強い風に煽られて、まだ未熟な花弁が数枚、ぱっと軽やかに舞っていく。
その春一番はまるで、決意を新たにする奏介の背中を押すようでもあり、新しい“何か”を予感させるような風でもあった。
「…うっしゃ!」
気分が高揚してきた奏介は、気合いの入れ直しに腹から声を出すと、はきはきした動きで桶を持って墓地を後にした。
新しい“何か”を知る由もなく、ただ一直線に続くその道を踏みしめ歩くのだった。