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「夏生姉さーん」
禿のまだ幼いながらもよく伸びる声は、騒がしい花街の夜の闇にあっけなく吸い込まれていった。
すっかり空から日は落ちて、
外の世界と時間の流れ方の違う遊郭では、これからが一番街の賑わう時間帯。
ほろ酔いの客の笑い声と、遊女の歌が聞こえる襖を尻目に
「姉さーん」と繰り返しながら何度も郭の廊下を行ったり来たり繰り返す禿に、
「どうしたい、神菜。
また夏生を探してんのかい」
見かねた番頭が声を掛けると、その問い掛けに禿はこくっと頷いた。
それを見て番頭は呆れ顔になる。
「どうせまた煙管でもふかしてるんだろう。どれ、見て来よう」
そう言って鶯張りの廊下を音を立てて歩き出そうとして、番頭はふと足を止めた。
「…今夜は下弦か」
空に浮かんでいる月明かりみたいに、ぽろぽろと溢れて零れ落ちていくのは、灰ではなくて心のような気がする。
自分の心は月のようにきれいなわけでもないけれど、と思いながら、ぼんやりと月を眺めていた。
離れの方からは宴のかしましい声が漏れてくる。
今日は聞き慣れたはずのそれに耳を塞いで、風の音だけを聞いていたい気分だった。
……あの人は今、何処にいるのだろうか。
いつもなら考えもしないのに、気付いたらそのことばかり強く思い出してしまうのは、きっと今日が下弦の月だからだろう。
あの人と初めて会った日の夜は、今日と同じ月だった。
『ほら、見て』
夜空を指さしながらそう言って
『なつきの“月”だ』と
笑ったあの人の顔を思い出す。
…残念ながら私は、その“月”にはなれない。
「夏生」
月の影から声を掛けたのは、探しに来た番頭だった。
夏生はそちらに振り向くことなく、視線を月に釘付けたまま「うちね、」と呟く。