夏も少しずつ近付いてきた夜。あたしは肌に纏わりつくような湿気と蒸し暑さの不快感から目を覚した。夏特有の熱と湿気を含んでいる重たい空気が風で押し流される事もなくその場に澱んでいるようで。むわっとした生暖かい空気が身体を包み込んでいるのが分かる。


その不快感をなんとか拭い去ろうと寝返りを打とうと思ったのだけれど木にぶら下げただけの不安定なハンモックの上でそんな事をしたら下に落ちてしまいそうで。あたしは仕方なく体勢を整えるだけにしておいた。


静寂に包まれた空間の中、ハンモックに揺られて見上げる空は漆黒で、優しく辺りを照らす月と小さく瞬く星達以外は何も見えない。ほとんどの生き物達も眠りについているのようで、気配を感じ取る事もない。時折吹いてくる生暖かい風が森の木々を撫でているのだろうか、森の奥からはかさかさと木の葉が囁く音がした。でも音がするといったらそれくらいで。ほとんどなーんにも無い、無の静寂。そんな言葉がこの夜の森にぴったりだなぁと思った。


そんな静かな空間の中、ハンモックは少し身動きするだけでも揺れる。その優しい揺れはまるで赤ちゃんを乗せる揺籠のよう。そうしてその揺さぶりに合わせるかのようにして一度目覚めた筈のあたしの瞼は重くなり、深い眠りへ誘われてゆく。ハンモックの揺れに身を預けると、意識はすっと落ちて行くはずだったのだけれど、珍しいことにそのまま眠るような事はなかった。


何故なら目を閉じようとしたその時、無の静寂に、ほんのちょっとだけ、色がついている事に気がついたから。


耳を良く澄まさないと聞き取る事が出来ないくらいの小さな小さなメロディー。


それは地面を軽く跳ねるようにして飛んできて、あたしの耳元ですっと溶けた。明るい、けれど、優しい、そんな歌声。素敵な歌声だなぁ、なんてぼんやり考えていた時にふと思った。この声、何処かで聞いた事があるような気がするのだ。


そうして気が付いた時にはあたしは閉じかけた瞼をそっと開けて起き上がり、ハンモックから足を降ろしていた。何故かは分からないけど、もっとこの唄を、声を側で聞きたい。そう思ったから。


その唄は目の前にある森の向こうから流れてくる。あたしはまだハンモックの上で寝ているキバゴを起こさないようにそっとタオルを掛けてやってから、暗い森の中をまるで唄に導かれるかのようにして歩き出した。


鬱蒼とした森の中、足元を仄かに照らすのは木々の間から差し込む月明りだけ。あたしは木の根に足を取られないように慎重に歌声のする方へ歩いて行く。歩みを進めれば進める程はっきりと聞こえてくる歌声。やっぱりあたしはこの声を知ってる。一歩、一歩、歩を進める度にあたしの勘は確信へと変わっていった。


そうして少し歩いた所で、木々が密集して生えていない草原のような場所に出た。その空間の真ん中には大きな木が生えていて、そこに木に寄り掛かるようにして人が座っている。あたしの確信に近い予想は当たったようだ。


「……デント?」


ぴたり。唄が止まった。辺りが静寂の波に飲み込まれる。その静寂の中ゆっくりと顔を上げたデントはちょっと驚いた様子でこちらを見て笑っていた。この時、青白い月明りに照らされた彼の顔が、息を呑む程綺麗に見えたのは内緒。


「…あ、アイリス、なんでここに…」


「唄が聞こえたから」


「…聞こえてたんだ…もしかして、起こしちゃったかな?」


「ううん、大丈夫」


ねえ、なんの唄を歌っていたの?と尋ねながらデント所まで歩み寄り同じように木に寄り掛かかるようにして隣りに座れば、デントはちょっとだけ視線を落とした。その視線の先、デントの膝の上にはヤナップが気持ち良さそうに寝息を立てて眠っている。その可愛らしい寝顔に思わず頬が緩んでしまう。


「ヤナップは暑いのが苦手だから、眠れなかったみたいで」


寝かしつけてやる為に僕がこうやって子守唄を歌ってたのさ。ヤナップの頭を優しく撫でながらそう言ったデントはちょっと照れくさそうにして笑っていた。そして、歌ってるの聞かれちゃったなんてなんだか恥かしいなぁと笑った。


「…恥ずかしくなんかないよ」

あたしの突然の呟きに彼が驚きと戸惑いの声を落とす。続けて彼が何かを言おうとしたけどあたしはそれを遮るようにして言葉を紡いだ。


ねぇ。
もう一度歌ってよ。
デントのうたう声、もっとちゃんと聞きたいの。


少しの間の後、ふう、と彼が小さく吐息を漏らす音。彼は仕方がないなぁと言わんばかりの表情で、でもちょっと嬉しそうに言った。


「じゃあ…少しだけだからね」

デントはゆっくりと目を瞑り、深く、静かに息を吸った。そして次の瞬間、吐き出された息と共に紡がれるメロディー。空気が震え伝わるその音は次第に辺りの森に広がり、そして静かに溶けてゆく。そしてその優しいテノールは、あたしの身体にも染み込み、心をゆっくりと甘く甘く溶かして行った。再び笑みが零れる。


デントの子守歌を毎晩聴けるヤナップが羨ましいなぁ。


なんて、歌声に隠れてそっと呟いたつもりだったのにデントには聞こえていたみたい。彼は少し驚いたようにあたしを見てから何も言わずに優しく微笑んだ。









メロー・ウイルス





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鈴蘭ちゃんへ捧げます!