過去はいずれ神になると彼女は言った。それは彼女自身が考えて発した言葉なのか、彼女が異常な程信仰していた男の言葉なのか、俺には分からない。けれどその言葉は俺を縛りつけるには一番効果的で尚且つ残酷なものだったことに間違いは無いだろう。


「正臣は過去から逃げられないよ」


「過去はいずれ神になるんだよ」


沙樹はいつも唐突にそれらの言葉を俺に投げ掛けるのだ。それはキスをした後だったり、飯を食った後だったり、復活したばかりの黄巾賊の集会へ出かける前だったり。何の前触れも無く、まるで何かを確かめるかのようにしっかりとした声でその言葉を紡ぎ出す。


そしてそれは今日も例外では無く、あの男の仕事場のうちの一つである新宿の事務所で事は起こった。俺は今日、仕事があるとあの男こと折原臨也にここへ呼び出されていた。勿論沙樹も一緒に呼び出されたのだが、今日の仕事では俺と沙樹は別行動らしい。臨也曰く今回の仕事は多少なりとも危険が伴うらしく、沙樹だけ事務所で仕事をさせる事にしたらしい。そうして沙樹は波江とかいう秘書の女と事務所内で仕事をすることに、俺と臨也は外へ仕事へ出る事となったのだがその時、俺と臨也が事務所を出る際に、沙樹はあの言葉を再び俺に投げ掛けたのだ。まるで俺をここに引き止めておきたいと言わんばかりに。


「へえ。彼女も可哀相だねえ。過去という確かなものでしか君を引き止めておけないと思い込んでるんだ」


「そう仕向けたのはあんたなんじゃないっすか臨也さん」


新宿の高級マンションのけして狭くはないエレベーター。その中で、臨也は相変わらずうすら寒さを感じるような気味の悪い笑みを浮かべていた。ああ気に食わない。こいつはいつもこんな笑い方をしながら、俺や沙樹を含め全ての人間の思考を読み取るのだ。そうして人の心を徐々に侵蝕し、最後には取り込んでしまう。沙樹や俺が過去に、そして今の帝人が取り込まれてしまったように。


俺は折原臨也を信用していない。それは今までの事を含め臨也も理解している事実だ。だからこそ、俺がこんな風に皮肉めいたように何かを言おうとも臨也は特にそれについて文句を言う事は無く、俺もまた臨也が何かを言ってきても特に気にした事は無かった。いや、正確に言うならば臨也の言葉に惑わされる事のないように、気にしないようにしていたのだ。


「だいたい、過去は神になるって沙樹に吹き込んだの、あんただろ」


「さあ、どうだろうねえ?俺は彼女に、こう言えば君から彼は逃げられなくなるよって教えてあげただけで、過去が神になるとまでは言ってないよ。だって俺、神なんて信じてないし」


この男が否定したという事は、あの言葉は沙樹自身が考えた言葉という事だ。いちいち過去を引き合いに出して俺を縛り付けようとしなくたって、俺はいつだって沙樹の側にいてやりたいと思っているのに。俺の隣には沙樹の居場所があって、沙樹の隣には俺の居場所がある。何度もそう言って支え合いながら生きてきたというのに。そこには、歪んでいない、愛だってある筈なのに。


俺が黙り込んでしまったのを見て、臨也はまた嫌な笑みを顔に貼り付けた。


「彼女は過去という名前の神に縋る事によって、君という安定を得たと信じているんだ。どうやら俺への信仰心は君では無く、過去へとシフトしてしまったみたいだねえ」


「彼女は過去という神を信仰する事でしか、君からの愛を実感することが出来ないんだ。……いや、もしかしたら、最初から君の愛なんて、彼女には伝わっていなかったのかもねえ」


臨也が言うには、沙樹は愛される事を知らないらしい。それは沙樹が孤児という事実に関係しているらしく、詳しい事は教えてもらえなかったが。だから結局の所俺の愛も、愛される事を知らない彼女には伝わっていないのかも知れない。愛される事を知らない彼女は、過去という神の加護で俺を繋ぎ止めておくことでしか愛を感じる事が出来ないのかもしれない。もしくはそう思い込んでいるのかもしれなかった。俺たちの愛だって、最初から、ずっとずっと歪んでいたのだ。


「可哀相に」


臨也の唇から同情にも似た言葉が零れるのを聴きながら、俺はこの歪んだ形でしか伝わらない愛をどうしたら彼女に正しい形で伝える事が出来るのだろうと、けして見つかる事の無い答えを探し求めていた。









良くも悪くも愛まみれ