知らないわ。


「貴方なんか知らないわ。消えてしまえばいいのよ」


俺の手が波江の手に触れた。ただそれだけなのに波江は俺を突き飛ばし、そうやって忌々しげに言葉を零した。少しだけ震える肩、青ざめたその表情に、俺は愕然とする。こんな日常の1ページに動揺するなんて波江らしくない、と。俺は何もしていない。ただ仕事をしていて、たまたま書類を受け取ろうとした時にたまたま手と手が触れてしまっただけだ。


だからどうして波江がこんな行動を起したのか理解出来ず、俺はただ唖然とした様子でそれこそ馬鹿みたいに彼女を見る事しか出来なかったのだ。俺がそうこうしているうちにも彼女は机の上にあった鋏を手に持ち、その刃先をこちらへと向けていると言うのに。俺の像を映す波江の目には何の感情も籠っていないようだった。ただいつもの冷たい色がそこにあるだけだ。それなのに、波江の鋏を持つ手はその瞳から覗く無表情とは裏腹に酷く震えていた。そしてその事実に気が付かない程俺は馬鹿じゃない。


「どうしたのさ波江さん」


君はそんな事する人間じゃあ無いだろう?と嘘を吐いてみれば彼女はここで笑った。勿論その笑顔は満面の笑みでも、弱い女のように泣きそうな笑みなんかではない。完全に人を見下すような冷たい笑みだった。その笑顔に俺は安堵する。この方が波江さんらしい。震えた心を隠すだなんて、波江さんらしくないじゃないか。


「折原臨也、私の愛の為に死んで頂戴。私の、誠二への愛が確かなものであると証明する為に死になさい」


「なんで俺が死ぬ事が、君の愛を確かなものだと証明する事になるのさ?」


分かっている癖に。と、彼女は苦虫でも潰したような表情で呟いたが俺はそれを無視し、答えの言葉を待った。ああ、俺はなんて卑怯で意地悪で残酷な人間なんだろうねえ。彼女が言う通り、俺はその意味を理解しているというのに。口に出せば辛くなる言葉を、敢えて彼女自身に言わせる事で事実として認識させようとしているのだ。


「私には誠二しかいない。誠二を愛している。誠二がいればそれでいい。誠二しか愛せない。誠二以外は愛してはいけないのよ。だから」


貴方の存在が邪魔なの。貴方がいると私は誠二への愛の確証を掴めない。


波江はそう自分自身に言い聞かせるように呟いた。その瞬間鋏を握り込む手に力が入り、みっとない震えが収まっていくのが見てとれる。


俺は部屋の灯を反射し鋏の刃先がきらりと光るのを見ながら、このまま俺は殺されてしまうのだろうかと今更のように思考を巡らせていた。勿論俺の実戦経験からしてこんな状況は簡単に切り抜ける事が出来るのだけれど、最初から抵抗するつもりなどない。愛の為なら死んでもいいだなんて、なんて馬鹿げた話だとは思っていたけれど、そうとも言い切れないような気がしてきたのだ。何故なら、彼女が俺をその鋏で貫いた瞬間、彼女の視界には俺だけがいて、彼女の心は俺を刺してしまった事への満足感と恐怖と後悔と悲しみに蝕まれるのだから。そこに誠二の要素なんてこれっぽちも無い。俺だけに向けられた、愛と形容するには歪みすぎているそれらを感じながら死ねるなんて幸せなことじゃないか。そう思ったのだ。そしてそんな思考に辿り着いた自分自身に驚き、同時に自分がどれだけ相手に溺れているのかを悟った。


カーペットを踏み締めるような微かな音がして、波江がこちらへと近付いてくる。ああ、俺はこのまま殺されてしまうのだろうか。再び同じ事を思い、覚悟の上で目を瞑る。


愛する人間に刺された傷は痛いのだろうか。それとも、歪んだ愛で満たされた心にとって、そんな痛みは快感でしか無いのか。俺には分からない。分からないけれど、きっと悪くは無いものなのだろう。


「さようなら。愛していたわ」










アイの証明







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