英雄ってさ、何だと思う?


俺は目の前にいる少し年上の青年に問うてみた。きっと答えは返って来ないだろう、そう思って俺は机に頬杖を付いて相手を見上げたのだ。その態度に相手への敬意なんかこれっぽっちも篭ってない。きっとこいつも他の大人達と同じような奴なんだろうと軽蔑にも似た視線を送っていたのだ。


英雄とは何か。こう問えば大人達は同じように沈黙を貫き通すかイッシュの英雄伝説を語り出すかのどちらかで、こいつ場合は前者だと思った。ただそれだけの話だ。実際に英雄になった奴も、そうでなかった奴も、「英雄にならざるを得なかった」なんていう望まぬ幸運と不幸を抱えた人間の事なんかなんも知らないくせに。偉そうに語る大人も、難しい話題から目を逸らす大人も、俺は大嫌いだった。


しかし、そんな俺の浅はかな予想は見事に外れ、相手の青年は無理難題であるこの問い掛けにごく簡単に、いともあっさりと解答を導き出すことになる。


英雄?そんなの幻想に決ってるじゃん。


意外な回答に俺は驚いて何も言えなかった。そんな俺を見て青年は面白ろいものでも見るかのように微笑む。


「英雄なんて、人間の思い込みや崇拝から産まれたものでしかないだろ?」


そう言って青年、ヒビキは肩をすくめ呆れたように言葉を漏らす。細められたその黒い瞳には俺の知らない何か、真っ黒な何かが渦巻いていて。それを垣間見た瞬間、俺はこの青年が本物の人間である事を悟った。この人は"英雄"なんかじゃない。ごく普通の"人間"なんだ。


「この世に完璧な人間なんていない。だから、英雄なんていないも同然なんだよ」


もう何年も昔、一人の少年がある組織を壊滅させたという。そしてその3年後、また別の一人の少年が、その復活した組織を再び壊滅まで追い込んだという。どちらの少年も、たった一人で巨大な組織に挑み、勝利し、英雄と言われる程にまでなった。


これはもうトレーナーの間では伝説にもなっている話だ。俺が始めてこの話を聞いたのは、トレーナーズスクールに通っていた頃だったか。その伝説の少年もとい青年のうちの一人が今、目の前にいる。


しかし、目の前にいる青年は話で聞いていたのと比べるとずっと英雄らしく無かった。ごく普通の、何処にでもいそうな青年だったのだ。そして、誰よりも一番現実を見ていた青年だった。


「英雄に仕立てあげられた人間の末路は知ってる?」


今度はヒビキが俺に問い掛けて来た。その問いの内容からして、彼もまた妹と同じように「英雄に仕立てあげられてしまった」存在だとでも言うのだろうか?伝聞で伝わってきた伝説は本人の意思とは関係なくいつのまにか脚色されてしまうもの。それは俺がよく知っていた。或は、彼は俺の妹の事を知った上でこんな問いを俺に投げかけているのかも知れなかった。


ヒビキが壁に寄り掛かり腕を組んでこちらを見てくるその様子は、挑発している様にも見える。当然か。俺は伝説の先輩トレーナーに敬語も使わずとんでもない問い掛けをしたのだから。俺は頬杖を付いていた手を膝の上に戻し、目を閉じてその問い掛けに真剣に向き合った。頭を過ぎるのは妹の顔と、顔も分からぬNと呼ばれる人物の事。俺は、あの時、あの事件があった時、イッシュ地方にいれば、妹を英雄という肩書きの呪縛から解放する事が出来たのだろうか。ぐるんぐるんと思考が駆け巡るなか、ふと、舌の先から鉄の味がして、俺は思考から現実に引き戻された。知らず知らずのうちに唇を強く噛んでいたらしい。自分の唇にそっと触れて、指先を見ると微かに血が付いていた。


「自分がした事が本当に正しかったのか、答えを求めて彷徨う……かな。」


英雄は人々を導く存在。でもその導く存在が答えを間違ってしまう事だってある。だって人間だから。ヒビキの言う通り、完璧な人間なんていないのだから。妹はずっと、真実を貫く事が果たして正しい事だったのかずっと悩み、苦しんでいた。Nが求めた理想の方がポケモンと人間の関係において正しかったのでないか、と。


俺が辿り着いた答えを呟くと、辺りが沈黙に包まれた。変な事でも言ってしまったのだろうか。


「なんだ、分かってんじゃん」


にこりと笑ったヒビキの目には、もう何も映っていなかった。ただ分かるのは、笑っているはずなのにその表情が酷く哀しそうだった、という事ぐらいだろうか。


不意にヒビキの手が伸びて来て、帽子の上からくしゃりと俺の頭を撫でた。別に嫌とか思わない。不思議と安心するものがあった。少し屈んでヒビキが合わして来た視線。その視線を俺の視線が絡み合った瞬間、俺はヒビキに全てを見透かされたような気がしてならない。


「…君の側にいる英雄さん、大事にしてあげなよ」


英雄……いや、人間はね、思い詰めるといつか死んじゃうから。君が、英雄さんの支えになってあげて。


その言葉の意味に気付き、俺が驚きの表情を隠しきれずに顔を上げると、ヒビキはこちらを振り返らずに手を振りながらポケモンセンターを出ていく所だった。何かを言わなければ。そう思っていたにも関わらず俺はその背中を追いかける事も忘れて、何故かはわからないがヒビキから伸びるまっくろな影を馬鹿みたいに見つめる事しか出来なかったのだ。









虚像の向こうの実体






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