遠くの水平線は弧を描き、透明な水の色は遠くで蒼になりそして濃紺に変わる。透き通る水が作る波は太陽の光の下、様々な表情を見せ続ける。そんな海の風景の一瞬を切り取った写真からは、その海の表情の下に目を向ければ美しい珊瑚の森が広がっているであろう事も、そしてそこでは沢山の命の営みが行われているであろう事も容易に想像することが出来た。何処までも広がる海が一面見渡せるというその場所を撮った写真は、デートスポットやら恋人との旅行先というありふれた題名で、何処にでもありそうな普通の若者向けの雑誌に載っていた。


場所は沖縄。ここ北海道からはまた随分と遠い場所だ。しかし彼女はそんな事を気にする素振りも見せずに、角がわざわざ折ってある雑誌の1ページに大きく載っているその写真を指差してこう言ったのだ。


「山田、相馬さんとここに行きたいです」


「えー」


「えーって何ですか。えーって。山田、綺麗な海を見に行きたいです」


綺麗な海、ねえ。何気なしに呟いてから俺はひとつ嘆息する。綺麗な海が見たいだけなら別に俺と一緒じゃなくてもいいじゃない。種島さんとか、伊波さんとか……少し不安だけど同行してくれそうな人なら俺以外にもいくらでもいるだろう。あ、そうだ音尾さんにでも頼めばより確実に連れて行ってくれるだろうに。そう、山田さんはいつも感覚でものを言っているから俺が気にするような些細な事にも気が付かない。むしろ気が付く俺の方が女々しいみたいじゃないか。いや女々しい以前にこんな事を思ってしまう自分はかなり卑屈な性格をしているのかもしれないなあ。だからその嘆息は山田さんの言葉に対する肯定の意味でも否定の意味でも無く、ただ単にそういう気分になったから付いただけだ。山田さんはその嘆息の真意も知らずに不安げに俺を見上げる。


「別に、それ、俺と一緒じゃなくてもいいんじゃない?」


その不安げに揺らぐ瞳に畳み掛けるように言葉を掛けてやると、山田さんは無言で俺にしがみついて首を振るばかり。これくらい言えば諦めてくれると思ったのに予測とは案外簡単に外れてしまうものだ。


「なんで?」


そう山田さんを見ずに問い掛けながら、洗われて綺麗なフライパンを片付ける為に軽く持ち上げる。これでも俺は仕事中である。といっても今は閉店後。要するに後片付けをしているだけなのだが。珍しい事に今は俺と山田さん以外厨房には誰もいない。その不自然なくらいの静けさはまるで、夜の静寂に飲み込まれたワグナリアが、一日の仕事を終えた人間の如く静かに安息の時を過ごしているようかのようにも思えた。


「山田は、こういう所には、相馬さんと行きたいんです。相馬さんじゃなきゃ、だめなんです」


うっかりフライパンを取り落としそうになった。危ない危ない。ていうか何それ。俺じゃなきゃ駄目ってさ。何それ。ちょっと胸が締め付けられる感覚がして苦しい。苦しくて、でも少しだけ喜んでいるような何とも言えない心情になるそんな自分に妙な苛立ちを覚えてしまう。山田さんはいつだってこうだ。そこに隠れた意思なんて無いんだろう。きっとない。ただ空想上の兄である俺と旅行に行きたいだけ。綺麗な海が、見たいだけ。そう自分に呪いの言葉の如く言い聞かせる。だから山田さんの言動に対して俺の心が揺れる事があったとしても、表情が変わる事は滅多に無かった。


「……いいよ、バイト代溜まったら連れて行っても」


無表情、とまでは行かないけど、口角をほんの少しだけ上げただけの僅かな微笑みでそう告げると、山田さんは花が咲いたかのような笑顔で俺の腰辺りに回している腕の力を強めた。


山田さんはいつだってそうだ。彼女は思ったことをそのままに言葉に乗せる。だからその言葉の裏に隠れた真意なんてものは無いし、大人のように何かを計算した上で発言するような事も無い。そして俺はそんな彼女に甘い。自分でも自覚はあった。


優しさや甘さは時に人を傷付け、抉るものだと何処かの誰かが言っていた。その言葉を誰が言ったかなんてどうでもいい事はもう忘れてしまったけど、まさにその言葉通りだと思った。俺の甘さは俺自身を苦しめ、俺の優しさもまた、彼女が俺の本心に気が付いてしまった時には、彼女の心を傷付ける刃物と同じものに成り果ててしまうだろう。そんな事も知らずにころころと楽しそうに笑う彼女。


「じゃあ、相馬さん」


名前を呼ばれて、彼女を見下ろす。絡み合った視線に、山田さんは今日何度目かの心から嬉しそうな笑みを浮かべた。そうしてずいっと差し出されたのは小指だけを立てた彼女の手だった。俺を見上げる彼女の視線は何かを期待しているかのような、それでいて何処か緊張の色を含んでいるような気がするのは何故だろう。


「ゆびきり、してください」


そして、約束してください。山田を、あの海へ、デートへ連れて行ってください。


彼女がゆっくりゆっくりと時間を掛けて、噛み締めるように、それでも恥かしさに言葉に詰まる事も無く告げられたそれは。


山田さんはいつだってそうだ。いつも自分に正直で、彼女の言葉に隠れた真意なんてない。何故ならその言葉そのものが彼女の真意であり、もともと意味なんて隠されてなんかいないからだ。彼女は思った事をそのまま口にする。それは一見とんでもなく分かりやすい事のように思えるけれど、実は分からない事の方が多かったりもするのだ。


「……山田さんさ、」


「なんですか?」


「最初っからそう言ってくれれば良かったのに」


彼女の思わせぶりな台詞や行動にいちいち鼓動を激しくしていた俺が馬鹿みたいじゃないか。まあ恋はした方が負けと言うものだからそれは仕方がない事なのか。いや、山田さんだってそうなのだからおあいこか。そんなような事を考えている間にも、彼女が発したその告白じみた、というよりも完全に告白である言葉は、じんわりじんわりと、それでも確実に俺の心を侵食し始めていた。


「……だって相馬さんが……」


「……うん、気づいてあげられなくてごめんね」


微笑んでから、彼女の細くて小さな小指に自らの小指をそっと絡める。無言の肯定であるそれを受け取った彼女は幸せに頬を染めて笑った。今までに見せていた笑顔とはまた別の種類の笑顔だと思った。


ゆびきり。子供同士が交わす約束を結ぶ筈のその行為は、今の2人にとっては、契と何ら変らない、むしろそれよりもずっとずっと大切な約束を結ぶ行為のように思える。俺よりもずっと小さくて細い指先からは彼女の温もりが、微かではあるが確かに伝わってきていた。


愛してるだの好きだだの、そんな飾った言葉は使わない。彼女がそういった言葉を敢えて使わなかったように、俺もそれでいいと思ったからだ。それに、緩く絡まった小指には、そんな言葉で表現するにはもったいないくらいの幸せの糸が絡み付いるように思えたからだ。なんて、我ながらなんとも乙女チックな発想なんだろう、と内心で自分を笑いながら俺は彼女と言葉を紡ぐ。


「ゆーびきーりげんまん」


「嘘ついたら」


「はりせんぼんのーます」


「ゆびきった」










ゆびきりの呪文










主催企画「ゆびきりの呪文」に提出