※二十歳になったばかり設定




休憩室に入ると、この店では普段するような事の無い匂いがしたの。苦味を含んだ匂い。微かな煙。この店ではそんなもの吸う人などいない筈なのにおかしいわねえ。そんなような事を思って見てみれば、私に背を向けるようにして立っている佐藤君の向こう側からしろい煙が立ち上ぼっているのが見えて。その煙は現われたと思えばゆらりゆらりと揺らめいて消える。佐藤君が、煙草。大人の世界のものだったそれを、まるであたりまえのように持っている佐藤君。私よりもずっと大人だった佐藤君が更に大人になってしまったのね。私は座るのも忘れてその非現実的な現実、煙草を吸う佐藤君の大きな背中をただぼんやりと見つめていた。


ふと、佐藤君が長い息と同時に紫煙を吐き出した。むわりと広がる煙草の匂い。見慣れた筈の後ろ姿は、それがあるだけで何故だか違う人の後ろ姿を見ているような気分になる。私の知らない、大人の世界にまた一つ足を踏み入れた佐藤君。もくもくとこちらに漂ってきた煙とその独特な苦味のある香りに耐えきれなかった私が軽く噎せると、佐藤君は驚いたように振り向いて、そして素早く、あまり慣れたとは言えない手付きで短くも無い煙草を灰皿に押し付けた。


先が潰れた煙草からは名残惜しそうにか細い煙がしゅうしゅうと出ている。ああもったいない。まだ半分以上も残っているじゃない。


「……すまん」


「どうして謝るの?もったいないわ。まだこんなに余ってるのに」


ぐしゃりと潰れた煙草を指差して言えば今度は佐藤君の表情がくしゃりと歪んだ気がした。どうしてそんなに悲しそうな顔をするの?


「……煙草は煙だけでも身体に悪い」


俺のせいでお前が病気なんかになられても困るからな、なんて優しい佐藤君はそう言って醜く潰れた煙草を見下げた。そんな佐藤君の優しさが嬉しくてありがとうと微笑み返せば、佐藤君は静かに笑った。ああやっぱりいつもの佐藤君だわ。佐藤君は知らない人になった訳じゃないのね。佐藤君は佐藤君だもの。

「でも、煙草吸ってる佐藤君、なんだか格好よかったわ」


最初は驚いたけれど、と思ったことを素直に伝えてみる。すると今度は佐藤君が盛大に噎せる番だった。心配になって大丈夫?と声をかけて佐藤君の大きな背中に触れるとまた佐藤君はふいと遠くの方を見て目を逸らされてしまった。


「佐藤くん」


「……煙草、店で吸うの、止める」


「どうして……?」


佐藤君は何も言わなかった。何かを言いたそうにしてはいたけれど、それが何かも、私には分からなかった。ただその原因が私にある事はなんとなく理解していたけれど。佐藤君は私に優しすぎる。私に遠慮してる。それは嬉しい事なのかも知れないけど、私にとっては、何処か心に一線を引かれてしまっているようで嫌だった。どうしてか分からないけれど苦しかった。もっと対等に、なりたかった。今思えば、それはどんどん大人になって先に行ってしまう佐藤君を引き止めたい故のわがままで、簡潔に言えば子供のままでいたかった、佐藤君と一緒に同じ場所に立っていたかっただけなのかも知れない。


「じゃあ、佐藤君が煙草吸わないなら、店にいる間、私がその煙草吸ってもいい?」


佐藤君に置いていかれて子供のままの私は、ここでもわがままを一つ。佐藤君に譲る気が無いなら、私だって譲らない。私はどんどん大人になっていく佐藤君に不安を感じながらも、佐藤君が煙草を吸うその仕草を、もう一度見たいと願っていた。それはなんとも矛盾した感情だった。


「それは駄目だ」


「じゃあ佐藤君、私に遠慮しないで」


佐藤君の表情がまたくしゃりと歪んだ。ああ、私は佐藤君を傷付けたい訳じゃないのに。佐藤君に遠慮してほしくない、それだけなのに。佐藤君は少し考えた後、静かに煙草が入っている箱を取り出した。沢山入っている中から、一本だけ抜かれた煙草。佐藤君はそれを指で弄ぶと、静かに咥えて火を付けた。


ゆらゆらと立ち上ぼる紫煙に、私は安堵する。佐藤君はなんとも言えない複雑な表情でそれを見ていた。そこにどんな感情が隠れているか、なんにも知らなかった私は、この時、佐藤君にとても意地悪で狡くて酷い事をしていたなんてことも、馬鹿みたいに知らなかった。












いとしいのは背中越しのぬるさ







title:幸福