ひらり。遅めの桜が舞った。少しだけ開いた車窓からはふわりと漂う春の匂いが入って来て車内を満たす。ぽかぽかと差し込む太陽の光が暖かい。


季節上当たり前のそれに俺は喜びを覚えるのだ。何処か、その春の匂いと暖かさはあいつを連想させるからだ。というか、あいつそのものと言ってもいいくらいだ。それは我ながらなんとも幻想的な比喩表現をしているように思えるが事実である。


窓を全開にする。すると今度は生暖かい風がぶわりと車内に押し寄せてきた。その風で自分の長い前髪が揺れ、咥えていた煙草の煙がかき消された。そこで煙草がかなり短くなっていることに今更のように気付く。春は人を虜にする。全く俺も怠けてしまったものだ、と思う。バイト先の駐車場についてから俺はまだ一歩も動いていなかった。車窓から春を感じていたなんて、相馬あたりに知られたらいいネタにされかねない。俺は随分と短くなった煙草を灰皿に押し付けた。


「佐藤くん?」


一瞬空耳かと思った。だが聴覚や視覚はそう簡単に都合の良い嘘をつかないのを俺は知っている。ついさっき煙草を押し付けた灰皿から窓を見やると、春が、八千代が何やら楽しそうな笑顔でこちらを覗き込んでいた。

ふわふわ。ふわふわ。そんな効果音が似合いそうな笑顔で八千代は呟いた。柔らかそうな桃色の唇が揺れるように動く。


「佐藤くん、こんな所で何してるの?」


「お前こそ……休憩中か?」


「ええ。暖かくて気持ち良さそうだからちょっと外に出てみたの」


「そうか。俺もバイト前に一服してただけだ。」


「ふふ、同じね」


「ああ」


ここで俺はようやく車から出た。外に出た方が風が気持ち良い。広い駐車場には何処からか飛んできた桜の花びらが散らばっている。それが春風に巻き上げられて、ひらひらと舞っては落ちて、また舞っては落ちた。


八千代はいつものように店長の話をするでもなく、静かに目を閉じて全身で春を感じているようだった。妙な沈黙だが重い沈黙のそれとは違う。むしろ心地よい沈黙。


目を閉じたままの八千代の横顔に俺の視線は勝手に引き寄せられてしまう。風が吹く度に髪が揺れて、微かに八千代の匂いがした。やっぱり、春みたいだ。


「……お前、春、みたいだな」


思わず口から出た言葉。今までの会話からは全く脈絡のないそれは、いささか妙な感じになってしまったが。八千代はそうかしら、とこちらを見て笑うだけだった。そして、少しの間の後、春風に身を委ねながら八千代は小さく言った。そこにどんな感情が隠れているのかなんて俺には予測出来ない。というか予測はしないようにする。何故なら都合のいいように考えてしまいそうだからだ。


「……でも、春は嫌だわ」


だって、春だったら1年のうちにたった数ヶ月しか佐藤君に会えないのよ。


それって、すごく悲しい事だと思わない?


そう唐突に投げ掛けられた疑問に、俺はそうだな、とかすまん、とかそんなような事をぼそぼそと呟いて、春のように、いや、太陽のように笑う八千代から目を逸す事しか出来なかった。全く、こいつにはかないそうにない。










淡くゆるやかに滲む魔法






title:幸福