涙でふやけたドラマチック

 何もかもが嫌になったの。

 私がこの世界に足を踏み入れた理由なんて、たったそれだけのことだった。
 結婚を真剣に考えていた恋人と破局し、もう全てどうでもいいと自暴自棄になり結婚の費用としてこつこつ貯めていたお金を全て持って、迷い子のように泣きながら、煌びやかなネオンの輝く風景を横目にこの店に訪れた。癒されたかった。忘れたかった。狂いたかった。本当にそれだけだった。

「どうして泣いてるの?大丈夫?」

 適当に指名した男が私の顔を覗き込みながら言った。視界は滲んで男の顔が全くわからなかったけれど。

「そんなに泣いたら目腫れちゃうよ。何かあったならさ、話してほしい。俺、そのためにここにいるんだから」

 私はその言葉を聞いて、何度も何度もつっかえながら事情を話した。話してるうちにまた悔しさと虚無感が湧いてきてさらに涙を流した。初めて来たホストクラブで、初めて会ったホストの前で大泣きするなんて、とんだ迷惑だとは思ったけれど、その時の私には周りの視線に構う余裕もなくてひたすら自分の悲しみを吐き散らかしていた。隣に座るスーツの男は馴れ馴れしく私の肩を寄せながら、うんうんと静かに頷いた。

「ひどいやつだな、君みたいな女の子をこんなに悲しませるなんて」

 よくある慰めの台詞を彼は例のごとく言い放った。そして手を私の肩から頭に移動させて髪を優しく撫でた。

「大丈夫。ちゃんと幸せになれるよ。信じて?……俺、未来が視えるんだ」

 ひどい冗談だ。そんな感想を抱きながら、自分で涙を拭った。依然として私を撫でる手に、いつの間にか心地良さを覚えていた。私はやっと男の顔をまともに見た。そして絶句。海のようなターコイズブルーの瞳に、思わず吸い込まれる、ような。こんな人の隣で私はずっと号泣していたのだと思うと急激に恥ずかしさが襲ってきた。彼の手が触れている頭が熱くなるような気さえした。

「魔法をかけてあげようか」

 私は、目を逸らせないまま、ゆっくり頷いた。女の子の楽しいそうな笑い声が遠くに聴こえた。目がくらむほど眩しいシャンデリアの光は、男によって遮られた。唇と唇が重なった。何もわからないのに、わかろうとも思えないのに、私はその行為に必死に救いを見出そうとしていた。彼の瞳を祈るように見つめていた。

 これが私が悠一と初めて会った日の出来事で、二人の恋人ごっこの始まりだった。





 要するに私は、悠一の沼にはまったのだ。毎週のように店に会いに行っては彼を指名した。お酒を飲んで、他愛のない会話をして、彼と過ごす時間を楽しんだ。傷が癒えていくのを感じた。そして比例するように、悠一のことをどんどん好きになっていった。
 でも。それでも。ちゃんと理解はしている。これは、恋人ごっこだって。恋愛とはまったく別の、遊び。娯楽。退屈しのぎ。どうしようもなく脆くてくだらない関係。私はそれを理解できている。だからきっと、大丈夫。

 氷だけが残ったグラスをテーブルに置く。相変わらず賑やかな店内で、相変わらず隣にいるのは、黒いスーツ姿の悠一だ。眩しいシャンデリア。幸せそうに笑う女の子たち。いつもと何ひとつ変わらないこの光景を、懐かしい気持ちでただ眺めていた。

「次のお酒頼む?」
「んー、もうちょっと悠一と話したら頼む」
「そう。名前、今日は何だか大人しいね」
「え?私いつもそんなにうるさい?」
「うーん、名前が何か喋るたびに星屑が飛び散る感じ」

 ……変な例え。悠一はへらへらとした笑みを浮かべた。捉えどころのない表情。初めて会った時からずっと変わらない、私の心を捕らえて離さない表情だ。彼の青い目は、いつだってどんな宝石より美しく思えた。私は悠一の肩に首を置くように寄りかかった。すかさず悠一の手が私の腰に回る。彼は、ホストなのだ。

「ねえ悠一」
「うん?」
「私が初めてここ来た時のこと覚えてる?」
「忘れるわけないだろ?あんな悲しそうな顔してここに来た女の子、初めてだった」
「困ったでしょ」
「まあ、どうしたら泣き止んでくれるかって必死だったかな」

 あれから一年、私はたくさん悠一を知った。たくさん好きになった。昔の恋人につけられた傷なんて、とっくに癒えていた。癒えてしまった。もう彼に会う理由を見つけられない。あったとしても、それを認めてはいけない。私たちは、恋人ではない。

「悠一は、魔法をかけてくれたね」
「名前が幸せになれるようにな」
「でもね、悠一。もう、大丈夫だよ」
「え?」
「魔法なんてね、もういらない」
「……どういうこと?」

 悠一が身体を動かし、私も寄りかかるのをやめた。きちんと向き合う形になる。悠一の顔から笑みは消えていた。私は逆に必死に笑顔をつくる。

「傷ついてるのを言い訳にして悠一に甘えてたけど、もう平気。一人でも」
「もうここに来ないってことか」

 察しの良い悠一に、私は頷く。もうここには来ない。今日そう決めて店の扉を開けたのだ。私はもうここに来る必要のないくらい、強くなってしまった。

「……悠一が言ってくれたみたいに、幸せになりたいんだよ」
「俺といても幸せじゃない?」
「すっごい幸せ。死ねるくらい。でも悠一はホストでしょ?こんなの、そのうち絶対苦しくなる。だから恋人ごっこは、もうおしまい」

 それを言葉にした瞬間、悲壮感に襲われた。鼻の奥が痛い。悠一の顔を見ていたくなくて、テーブルに置かれたグラスに視線をやった。氷がだんだん溶けて水になる。
 私は強くなってしまった。違う、そうじゃない。予防線を引こうとしているだけだ。本当に戻れなくなってしまう前に離れようとしているだけだ。今ならまだ大丈夫。彼がいなくても生きていける。そう言い聞かせてこの世界から抜けだそうとしているだけだ。
 だって苦しい。私はどんどん悠一に惹かれていくけれど、その先にあるのは?何もないじゃないか。所詮私たちはホストと客の関係でしかないのだ。脆くてくだらない、どうしようもない関係だ。愛なんてどこにある。恋人ごっこだと理解していない人間は、ここに来てはいけないのだ。迷惑だ。それをわかってる人間だけが、この店で遊ぶことができる。私は、バカな女になりたくない。
 ふう、と息を吐いて、涙が出そうになるのを堪えた。

「俺は名前が好きだよ」

 ホストが口にするその言葉ほど、信憑性のないものはあるか。これは商売だ。私は悠一を見ない。

「名前がここに来なくなるなら俺はホスト辞める」
「そんな台詞、営業でしょ」
「信用ないなぁ」

 今まで散々私を癒して、救ってくれた悠一に、こんな冷たいことを言うのは恩知らずな気がしたけれど、自分に暗示するためにも口にするしかなかった。私はもう悠一の甘い科白を受け入れてはいけない。
 何も言わずに周りを見渡す。キラキラした世界。幸せの溢れる世界。楽しいことしかない世界。悠一の、いる世界。ここに来るのは今日で最後だ。

「一番高いお酒入れてあげる」
「それは俺へのプレゼントのつもり?」
「今までお世話になったから」
「要らないよ。俺、そんなの要らない」
「…じゃあ何なら良いの?」
「名前、こっち向いて、俺の目見て」

 覚悟して、言われた通りに顔を悠一の方に向ける。ターコイズブルーと目が合う。猛毒のような台詞を吐かれる前に、と私が口を開けた。

「恋人ごっこはもうしないって」
「ああ、名前がそこまで言うなら、もう恋人ごっこは終わりにしよう」

 低く冷たい声が、やっと私を肯定した。その言葉はどこまでも正しいはずなのに、望んでいたものであるべきなのに、私は何だか悲しい気持ちになった。嫌気がさす。こんなの、わがままだ。

「その代わり、俺を本物の恋人にしてほしい」
「……え?」

 彼が言うことの意図が掴めず、私は目をぱちくり瞬きした。悠一は、今まで見たことのないような、真剣な表情をしている。

「やっぱり、名前を幸せにするのは俺がいい」
「何、言ってるの……」
「好きだよ」
「やだ、信じられない」
「全部本心だ。ホストなんて辞める。もっとちゃんとした仕事する。だからそばにいさせてくれないか」

 悠一が弱々しく眉を下げた。そして堪えきれず漏らすように吐いた言葉は、私の心に波を立たせる。

「魔法にかかったのは、俺の方だ」

 青い目。吸い込まれるような、宝石みたいな瞳。その奥に写っているのは、間抜け面をした私だった。私だけが写っていた。
 それを理解した瞬間に、すべての雑音が遠ざかり、私の視界にある悠一以外のものが色を失い、肌に触れる空気が温度を上げた。もうここには、私たちしかいないのだ。二人だけの本物の世界だ。私は上手く声にならない声を振り絞る。

「本当に?」
「本当だよ」
「そばにいてくれるの?」
「そう言っただろ?」
「幸せにしてくれる?」
「なろう、一緒に」

 悠一の顔が滲む。大粒の涙が溢れ出す。まるであの日みたいだ。嗚咽が口から漏れた頃、悠一が私の頭を撫でた。

「泣き虫だな、名前は」

 私はもう、この人を好きになっていいんだ。認めていいんだ。好きだと思っても許されるんだ。その安堵が余計涙を誘った。大好きだと心が叫んだ。好きになってはいけないと、本気になってはいけないと、何度も言い聞かせたけれど、本当はずっと、好きだった。

「好きだよ、悠一」
「うん」
「好き、大好き」
「わかってるって」
「好き、全然言い足りない」
「これからたくさん聞かせてよ」

 悠一の華奢な指が、私の涙を拭う。そうしてまた悠一と見つめ合う。もう全部私のものだと幼児のように主張したくなる傲慢さを、どうか今だけは許してほしい。
 ゆっくりと唇を重ねる。うるさいはずの店内で、私たちは私たちがつくり出した確かな静寂の中にいた。唇が離れると、私の目からはまた一筋涙がこぼれ落ちた。悠一は困ったように、少し呆れたように笑う。これが悲しみの産物ではないことをわかっているからだ。もう自分では拭わない。私の流す涙を拭うのはいつだって彼の優しい愛が良い。