突然、私以外の足音がした。音の方を向くと、私が今上って来た階段を下りていく人影が見えた。人だ! 誰かが此処にいる! 私は急いで階段を下りた。

 自然のトンネルやコンクリートのトンネルを越える。人影がまた走っていくのが見えた。私はただただ、その後を追った。何故逃げるのだろうか。

 三方をマンションに囲まれた場所が見えた。人影はその場所をスルーして走り去る。私もその影を追う。唯一マンションが無い一方から吹き抜ける風が、私の背中を押した気がした。

 人影は青い水が貯まったマンションの横を走る。私もその影をただひたすらに追いかける。風に吹かれ、水面が揺れた。


 私は影を追いかけ続けた。何故逃げるのか、分からない。何故追いかけるのかも、分からない。ただ、ただ、今は何も考えずに、走った。



 人影が軽い足取りで入って行ったのは、最初のあのマンションだった。私は入り口で息を整える。足は疲れていて、もう走れそうもなかった。私はゆっくりとマンションの中へ足を踏み入れた。

 私の息遣いがマンションの中に響く。階段を使って上へ上る人影が見えたので、私もその後を付いて行った。階段の踊り場にある窓ガラスから射す光は、オレンジ色になっていた。何時の間にかもう夕方になってしまったのだろう。
 外から、子供の声が聞こえる気がする。「――ちゃん、帰ろ」「また明日ね」「バイバイ」なんて声。学校のチャイムの音が聞こえる気がする。「生徒の皆さんはお家へ帰りましょう」なんて放送。夕飯の良い香りがする。カレーやおでん……母の作る料理の味はあまり覚えていない。

 6階に着いた。長い廊下の先を見ると、人影は家の中へ入っていった。あれは私の家だ。
 ゆっくりと歩く。私の家に近づくと、怒鳴り声が聞こえて来た。父さんの声だ。そういえば、母さんは私が小さい時に死んだんだっけ。
 お皿が割れる大きな音が聞こえた。父さんは、毎日毎日お酒を飲んでは暴れていた。

 家のドアを開ける。玄関には靴が二足並べられていた。私は自分の靴も脱がずに、家に上がりこむ。
 怒鳴り声はどんどん大きくなっていくが、何故か言葉が聞き取れない。

 廊下を真っ直ぐに行くと洗面所がある。私は洗面所までは行かずに、途中で廊下を左に曲がった。そこは台所だ。シンクからは水が流れっぱなしになっている。コンロの上には鍋が置きっぱなしだ。床には割れたお皿の破片が散乱している。二つしかない椅子の片方に座るのは父だった。父には私が見えていないのか、構わずお酒を飲んでいる。

 頭が痛む。あの日の情景が、私の頭の中を渦巻いている。
 父が嫌いだった。いつも暴力を振るう父が、大嫌いだった。いつか殺されると思っていた。殺される前に、父を殺さなければならないと思っていた。
 私は奥の部屋を見た。あそこは私の部屋だ。引き戸に手をかける、扉を開ける。そこには私が居た。幼き日の私だ。勉強机に座り、こちらに背を向けて何かを書いている。ゆっくりと背後に近づいて、覗き込んだ。絵日記だ。鉛筆を握り締めて、絵日記を書いていた。絵は黒で塗りつぶされている。黒色以外の鉛筆を持っていなかったのだ。

 一層大きく何かが割れる音がした。幼い私はビクリと肩を震わせて、ゆっくりと後ろを向いた。私も後ろを振り向く。私の部屋の入り口には父が立っていた。顔がよく見えないが、確かに父だと分かる。
 父は幼い私に近づくと、幼い私の首を絞めた。殺される!

 私は、私を助けようと父に掴みかかったが、それはできなかった。父に伸ばした手は、空を掴んだ。
 どうする事も出来ないと悟った私は、ただただ二人を見るめるだけだった。幼い私の顔が苦痛に歪む。飛び出しそうな目をギョロギョロと彷徨わせて、幼い私は何かを発見したようだ。視線の先にあるのは、さっきまで絵日記を書いていた鉛筆だった。幼い私は、それを右手で掴んだ。

 殺せ、殺さないと死ぬ、殺せ、殺せ、殺せ!!

 鉛筆は勢いよく父の喉に刺さる。鉛筆が真っ赤に染まり、幼い私の手や服、顔も真っ赤に染まった。
 父が倒れ、父の喉から赤く濡れた鉛筆が抜けた所為で、幼い私の体はゆっくりと後ろへ倒れた。







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