寒いね。そう言ったら彼は手袋を片方外した。青いモコモコしているそれを私に差し出す。

「先輩、どうぞ」

私は渡された左手の手袋を手にはめた。左手だけがどんどん暖かくなっていく。彼は左手で私の右手を掴むとそのままコートのポケットへと導いた。

「暖かいね、先輩」

「そうだね」

息を吐くと透明だった空気が白く染まった。鼻が寒くて啜ってみると鼻の奥がツーンと痛くなった。鼻を擦ろうと思ったけど、左手には手袋があって擦れないし右手は彼の手と共にポケットの中。私は痛みを我慢するように目を瞑った。

「先輩って鈍いよね」

「え?」

「鈍感だしドジでマヌケだし、いい所無しって感じ」

可愛い後輩の口から飛び出す毒舌に私は閉じていた目を勢い良く開けた。別に彼の毒舌には慣れているから嫌な気はしないけど、取り敢えず左手でチョップをしておいた。可愛い後輩は小さな声でイタッと漏らしてから何も言わなくなった。

「鈍いって、どういう事よ」

私の問い掛けに対して彼は口を開かなかった。その代わりに私を睨みつけて頬を膨らましている。本当に可愛らしい後輩だ。彼が私よりも背が高いと知った時、本気で驚いてしまった。こうして並んで歩いている今でも信じられない。きっと私より高いと言っても1センチも変わらないんじゃないだろうか。

「今日は随分ワガママさんだね?」

「なんだよそれ、僕を馬鹿にしてるの?」

彼はポケットに入れていた手を外に出した。私の右手は急に寒い外気に晒される。彼は私の右手をポケットから追い出した後に、自分の手だけまたポケットに戻した。

「何、怒ってるの?」

「怒ってない」

そう言う彼の顔は明らかに怒っていて、私は溜め息をついた。彼は後輩だから、私はついつい甘やかしちゃって今まで彼に強く言った事は無い。でも、こうも理不尽に機嫌が悪くなったりする彼に少しは苛立ちを感じる。

「ちゃんと言いなよ。そういう所、よくないよ」

少しだけキツめにそう言って、後悔した。彼の方を見ると、彼は俯いている。鼻を啜る音が聞こえて、私はやってしまった、と眉を顰めた。

「ゴメンね、少し言い過ぎたかも。大丈夫?」

彼の背中を擦ろうと手を伸ばす。私の手が彼の背中に触れた時、彼の体がピクリと動いた。

「先輩は……」

彼が口を開いた。私は彼の背中を擦りながら彼の次の言葉を待つ。

「先輩は今年で卒業だね」

卒業という言葉、私は改めてその言葉を聞いてやっと意識した。もう卒業が近いのか。高校3年生にもなると、卒業という言葉よりも先にどうしても受験という言葉が出てしまう。大学を受験する私にとってはまだ安心できない時期だ。

「卒業、かあ。あんまり実感は無いかなー、取り敢えず受験だしね」

「先輩……受験、頑張ってね」

「ありがと」

彼はまだ俯いていて、結局何が言いたかったのか私はよく分からないでいた。私は相変わらず彼の背中を擦りながら足を進める。

「先輩は大学に行ったら、彼氏を作るんでしょ?」

彼氏……。大学受験の事はよく考えていたけど、大学に合格した後の事はあまり考えていなかった。大学に行けば、勿論恋人を作ることにもなるだろう。

「きっとね。応援してよね」

彼はとうとう足を止めてしまった。私も彼と一緒に足を止めた。

「どうしたの? 学校、遅れちゃうよ」

彼は俯いたまま一歩も動こうとしなかった。こうやって後輩のワガママをしっかりと叱るのも先輩である私の役目なのかもしれない。でも、今の彼を叱る気にはどうしてもなれなかった。

「僕は先輩の恋なんて応援出来ないよ」

「ええ? なんで」

「僕が応援しても、先輩に恋人なんて絶対できないよ……。先輩を貰ってくれる人なんていないでしょ」

「そんなの分かんないじゃない!」

「いいや、分かるね! 絶対に先輩を貰ってくれる男なんていない!」

さっきまでしおらしかった彼とは大違いで、直ぐにいつもの彼に戻ってしまった。本当に生意気な後輩だ。

「もういいもん、彼氏なんて作らないよ!」

「それじゃあダメじゃん。女は結婚しないとダメなんだよ!」

「じゃあどうすればいいのよ!」

今日は何時もよりも生意気かもしれない。私は彼を睨みつけた。彼はやっと顔を上げて、それから私の両手を握った。

「……なに?」

「僕が、貰ってあげる」

聞き間違いかもしれない。私には告白に聞こえた。それも漫画とか映画とかで見る随分ロマンチックな言葉だったような気がする。私はしっかりと彼を見据えた。それから、少しだけ頭の中で考える。聞き返すのはあまり良くない選択肢に思えたけど、それでも口から出たのはその言葉だった。

「なんて?」

私がそう言うと、彼は私の両手を離した。

「あーもう先輩、そういうときはハイとかウンとかって言ってればいいんだよ!」

「ええ……。は、ハイ?」

彼は私の言葉を聞いて、満足したような笑みを浮かべた。私の右手を掴むとポケットの中へと誘導する、それから足を進めた。
私は頭の中で色々な事を整理していた。大学受験とか、卒業の事はもう頭の中からは消え去ってしまった。

「ねえ、さっきのって告白……なのかな?」

「あーもう煩い! その話題はもう終わったの!」

そう言う彼の耳は真っ赤に染まっていた。どうやら告白で間違っていないらしい。そう分かったら私まで赤くなってしまう。さっきまで寒かった鼻はもう随分温かくなってしまった。


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