授業が始まり僕は椎名と二人きりになった。二人きり、と言ってもすぐ前の方ではプールの授業が行われている。勿論授業をしている生徒達の賑やかな声や先生の声もしている筈だが、不思議と水の音しか耳には入ってこない。
「暑いね」
椎名がそう言った。まだ7月になっていないとは言え、暑さは夏そのものだ。セミはまだ鳴いていないが太陽はギラギラとした眼差しで僕等を見つめていた。
「お前なんで長袖やねん。暑いんやったら半袖着たらええやろ」
「あー……うん。」
「大体、アカンやろ、それ」
体育の授業を見学する時、見学者は体操着を着るという決まりがある。カッターシャツは体操着ではないので、下にハーフパンツを履いていても違反である筈だ。
「勿論先生の許可下りてるもーん」
「許可? お前そんなにカッターシャツ好きなんか」
「うん!」
「……なんやそれ」
僕は椎名から顔を逸らしてプールの方を見た。僕の方としては、もう椎名との会話は終えたつもりだった。
「北上君、めっちゃいい腕時計やな」
僕は溜め息をついた。椎名にとってはまだ会話は続けられているらしい。
「これは茂のや、僕のやない」
「ふうーん。茂君っていい腕時計持ってるんやな」
椎名は興味無さげにそう呟いた。何だ、自分から投掛けておいてその返事。僕はもう一度溜め息をついた。椎名の方を見ると、もう僕と話す気は無いのか授業風景を静かに見ていた。僕も視線を椎名からプールへと移す。
青空に浮かぶギラギラした太陽の光がプールの水面に映ってキラキラと輝いているように見える。生徒達が泳ぐと、水が跳ねる。その跳ねた水が僕の足にかかった。
ほんの少しだけ冷たい。片足にかかった水をもう片方の足で延ばすように擦った。
「北上君は……」
突然椎名が口を開いた。僕は自分の足に向けていた視線を椎名に向けた。椎名は相変わらずプールを見つめ続けている。僕は特に何かを言うわけでもなく、静かに椎名の次の言葉を待った。
「海、好き?」
椎名はその言葉と共に顔を僕の方へ向けた。海は嫌いだ、僕はそう言おうと思った。しかし、その前にもう一度椎名が口を開いた
「魚とかさ、好き?」
魚、と言われて考え方が変わった。海は大嫌いだ、でも魚は嫌いじゃない。
「うん」
僕は小さく頷いた。椎名は僕の返事を聞いてより一層笑顔になった。
「なら水族館に行かへん?」
「水族館?」
「そう! 私、魚大好きやからいっぱい見たいねんけど」
知り合って間もない女と水族館に行くなんて、堪らなく嫌なことだった。それに、休みをコイツの為に使うなんてのも嫌だ。付け足すと、僕は外が嫌いだ。だから断ろうと思った。でも、その時の僕は可笑しかったのかもしれない。天気の良い空や綺麗に輝るプールを見て、気が可笑しくなっていたのかもしれない。
「ええけど」
気付けばそう答えていた。しまった、と正気に戻って慌てて取り消そうとした時にはもう遅かった。椎名は今までに見た事がないくらいの満面の笑みで「ありがとう」と言った。僕はその笑顔を見て"悪くない"なんて思ってしまった。