プロローグ
あたしが朝することは三つある。
ひとつは起きたら必ず時計を見ること。
そのあとスリッパを履いて一日カレンダーをめくること。
そして顔を洗って着替えた後、ドレッサーに座って髪を梳くこと。
これをしないと一日は始まらない。あたしの日課のようなものだった。
当たり前のことだったから、「あの日」もちゃんとやったわ。いつものようにドレッサーの前で髪を梳いて……
「あら?」
突然鏡が水みたいに波打ち始めたかと思うと、肩まで伸ばした黒髪をひとつに束ねた男の人が顔を出した!
あたしはびっくりして椅子から飛び上がったけれど、大声は出さなかった。出せないくらいびっくりしたのよ。
男の人は鏡から腰くらいまで出てきて、あたしの部屋をきょろきょろ見回している。そしてあたしの方に顔を向けると、
「やあ、可愛らしいお嬢さん! 今は一体何月何日何曜日の何時何分だい?」
って満面の笑顔で尋ねるの。
あたしは彼の頭についている兎のように長い耳を気にしながら、
「今日は6月の1日日曜日。今はたぶん朝の七時三十五分よ」
って答えた。
朝見た時間を思い出して口をついて出たのだけれど、本当は適当だった。
なのにそんなあたしの答えに、彼はひどく感心してね。
「ああ、なんて優しいお嬢さんなんだ! こんなにも詳しく教えてくれるなんて!!」
そんなに褒められるとは思わなかったから、私は今度は呆気にとられてしまった。
彼は延々あたしに褒め言葉をふりかけて、はっと懐中時計を取り出して「ああ!」と言った。
時計を持っているならあたしに聞かなければいいのに!
「まずいぞ!! もうすぐ《三月》が『ぬやぬや小道』を散歩する時間だ! こうしてはいられない!」
彼は高らかにそう叫ぶと、あたしに背を向けて鏡の中へ戻ろうとした。
あたしは思わず、
「ちょっとまって! 『ぬやぬや小道』って何なのよ!」
って声を上げた。
彼はふとあたしの方に振り返ると、満面の笑みを浮かべて言ったの。
「ではね、優しいお嬢さん! レディの身支度中に突然現れ申し訳ないね!! こんな間違いはもう二度と起こさないから、また間違って現れたときにはよろしく頼むよ!」
「ちょっと、二度と起こさないなら現れないってことでしょう?!」
あたしは叫んだけれど、その言葉にも彼は答えることなく、あっという間に鏡の水面から去ってしまった。
あたしはへなりと椅子に座り込む。今のは一体なんだったの?
「夢よ。今のはきっと夢だったのよ」
そう口に出すことで、あたしは落ち着こうとした。
時計を見ると、7時43分。ほら、ぼーっとしていたらこんな時間になってしまったわ。ママが作ったおいしいご飯を食べに行かないと。
あたしは深く息を吸って、椅子から立ち上がった。ほら、鏡が波打つわけないじゃない。こんな風に波打つのは水だけよ。
「え?」
再び鏡が波打ち始めた。あたしは焦りながらも、自分が彼を待っている事に気づいた。
中から出てきたのはやっぱり兎の耳を持つ貴族風な黒髪男。彼は髪を掻揚げながら、
「私としたことが……大事なことを言い忘れていた……」
とぶつぶつ呟いている。そしてあたしに気づくと、例の、あのなんの屈託のない満面の笑みを浮かべた。
「おお、これはこれは! また優しいお嬢さんに会えるなんて! 私が大事なことを言い忘れていたことを知って待っていてくれたのかな!?」
待つも何も、ただ心を落ち着けていただけなのに、ますますあたしを混乱させる気?
そんなあたしの心も知らず、突然彼は真剣な面持ちであたしを見つめた。
「優しいお嬢さん。君に大事な話があるんだ」
その豹変振りに、あたしの焦りは増すばかり。そして彼は、真剣な顔を破顔してとんでもないことを口にした。
「《三月》を見かけたら、必ず教えてくれたまえ! 優しいお嬢さんと私との約束だぞ。では、さらばっ!」
言うや否や、さっきと同じように鏡の中へ戻って行った。相当急いでいるみたい。
にしても、これのどこが「大事なこと」なの?
あたしの中で沢山の疑問符が浮かぶけれど、何よりも……
「そんな、『教えてくれたまえ』って言われても……教えようがないじゃない!!」
あたしはとっさに手を伸ばす。
連絡先でも教えてよって言うつもりだった。
鏡が波打つのももう不思議ではなかった。
彼が何者なのかも、どうでもよかった。
《三月》が何かも、誰かの名前かさえわからなかった。
ただ、待ってほしかった。
置いてかないで、って思った。
今でもどうしてそんなことを思ったのかはわからない。
あたしの手は、鏡をするりとすり抜けた。
そして…………
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