世界の中心とも言える存在が不意にぱっと消え失せたというのに、俺の世界はまるで何事もなかったかのように、落ち着き払っている。自分のことなのにそれが不思議で仕方なかった。
それほど、あの昌也の一言が効いている、ということなのだろうか。
人に励まされたのなんて、いつ以来だろう。
幼い頃は俺に多大な期待を抱いていたのであろう両親も、成績が伸び悩み始めるや否や俺に声など掛けなくなっていったし、俺も俺で、実らない努力を形式的に励ます教師にうんざりした。自分が惨めになるだけだった。
それでも、諦めきれなかった消しゴムのカスみたいなプライドで、ここを受けた。今までにないくらい勉強した。たとえギリギリでも、受かった時は本当に嬉しかった。両親はどうせ伸びないだろうと相変わらず冷めていたが。
実際はその通り成績は下降線朔哉に出逢って、快感と自己嫌悪の毎日。そんな落ちぶれた生活を送っていたのだから笑ってしまう。
けれど。

『頑張れ』

昌也の声が鮮明に蘇ってきて口元に笑みが溢れた。

俺の背中を、押してくれる。
そんな奴の存在に気付けたんだから、こんな落ちぶれた生活も、きっと悪いものなんかじゃなかったはずだ。



「…朔哉」

男子校独特の低い歓声が遠くで響いている。誰もいない4階の廊下、映画のワンシーンをここだけ切り取ったみたいだと、他人事のように思った。

踏み出す一歩を躊躇い続けた一年間。今、ようやく前に進める気がする。

「話がある」


====


誰もいない、校舎の端の端。屋上へと続く湿っぽい階段に二人並んで腰かける。少しの沈黙のはずがひどく長い時間に思えた。俯いて床のシミをじっと見つめてた。
話がある、と言って呼び出したのは俺なのに、朔哉の方から話してくるのを期待していた俺は馬鹿だ。
意を決して顔を上げると、朔哉は既に顔を上げていてこっちを見てた。

「…何?またヤりたくなった?」

いつもの緩い微笑を湛え朔哉は言う。

「…もうしない、って言ったのは、お前だろ」

何も変わらない調子の朔哉に胸が鳴る。

「…でも、シたいでしょ?」

冷めた笑みで俺を見つめる。悔しいくらい、整った顔立ち。
どく、どく。徐々に心臓がはやくなる。乱れそうになる息を悟られないように整えて、一息置いた。

「…朔哉の一番に、してくれるなら」

朔哉の目を真っ直ぐに見て、なるべく凛とした声になるよう努めて、言った。
これが最後。最後のチャンス。
優柔不断でごめん。
どこまでもどうしようもない俺を許して。
朔哉は一瞬だけ目を大きくした。だけどすぐに目を細め、言った。

「…無理だね」

改めて、面と向かって言われると、さすがに涙腺を直撃した。ぐっとこらえる。しかし涙は言うことを聞いてくれなくて、溢れそうになる滴をごまかすためにまた俯いた。

「…なら、もう、いらない」

ばれないように、音をたてないように、鼻をすすって。

「朔哉に抱かれて、幸せだったけど」
「片想いは、虚しいだけだ」
「それに、俺は」

「前に進みたい」

涙をひっこめて。
最高の顔を作る。

朔哉が、離したくなくなるような。


「朔哉、好きだったよ」

逃げられる前に、朔哉の手首をきゅっと控えめに掴む。
諦めきれない醜い願望の表れ、だと思った。

「…最後の我が儘、聞いて」

「キス、したい」

これ以上話すと涙が溢れてしまいそうだったから、黙って朔哉の反応を待った。
朔哉の大きな右手が、俺の頬を撫でる。見慣れた美しい顔が近づいてきて。
目を閉じた。
待ちわびた感触が唇を支配する。

もう、触れることはない。

唇が離れると、至近距離で朔哉と目が合った。朔哉は何も言わず、すっと立ち上がる。
たん、たん、たん。
何も言わず、階段をおりていく。
これで、よかったんだ。

「充」

すると。
振り返らずに、俺の名前を呼んだ。
はっ、と。顔を上げた自分が嫌になる。

「…ごめんな」

そのまま、広い背中は見えなくなった。



「…………充、」

再び俺の名前を呼んだのは、あいつじゃなかった。それはわかっていた。わかっていたけれど。
たん、たん、たん。
力なく階段をおりる。
もたれるように身体をあずけて、締め付けるくらいに抱き締めて。


「………朔哉ぁ、さくや、さくやあ…さくやぁあ…」



こうして

俺の恋は儚く


散った。




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