03


 差し当たって降谷が悩むべき問題は、帰れるかどうかよりまず、どこで生活するか、であった。

「えっと、できれば道具を作る為に、ふるやさんにもお手伝いをして欲しいので」
「零」
「ふ、」
「れい」
「……れいさん」
「よくできました」

 にこりと笑みを浮かべれば、少女は困ったように頬を染めて視線を動かした。
 自分でも何様だと思うが、現状少女に頼るしかない状況で、名を強引に呼ばせる手段をとる自分に苦笑するしかない。だが苗字を持たない少女を前に、それが珍しくないという世界で、頑なに苗字を呼ばれ続けるの違和感がある。少女に聞けばレイという響きであればこの世界でも違和感はないとのことで、ただのレイとして通して過ごすのも悪くないのではと考えたのだ。……久しぶりに本当の名を呼んで欲しいという理由が恐らく八割程ではあるが。

「ナマエさん、手伝うのはもちろん構わないし、こんな危険な地に君を一人残して村に住むつもりもないが、僕は男だ。絶対に寝室は分けるべきだよね?」
「でもふる、……れいさん、二階にあるのは見ての通り浴室と洗面所と、一部屋だけなんです!」
「ベッドが一つしかない、ナマエさんの私室ですよね」
 にこりと安室透仕様で笑みを浮かべれば、うぬぬ、と奇妙な声を上げてナマエが唸る。

 そう、一階が仕事部屋という降谷の予想は当たっていたが、二階にあったのは洗面所兼脱衣所、浴室。そしてベッドと机、一人用ソファー、テーブルしかない私室が一つ。クローゼットは用意されていたが、布団なんてものはない。ベッドはダブルベッドのようだが、だからこそ問題だ。
 ナマエは、住む場所がない降谷にこの家に住むことをあっさりと提案した。それだけでも思うところがないわけではないが、そうさせてもらった方がいいというのは確かだった。
 元の世界に帰りたい降谷としては、その手立てを持つこの世界でただ一人の錬金術士であるという彼女の側を離れるつもりはない。聞けば異世界人ということはこの世界の人間に言っても信じられないだろうという。おかしな逸話がある樹はあれど、よくある伝承程度の認識なのだと言う。つまり、周囲と深く関わることは様々な疑惑を持たれかねない、というわけだ。
 必要以上にこの世界の人間と接触することを避けたい降谷としては、事情を知っている彼女の家に滞在できるという事実は願ったり叶ったりである。
 まして、異世界転移道具があるのは確実だが、材料を探すのにあちこち巡らなければいけないだろうという彼女を、ただでさえ魔物なんて生き物が溢れるこの地で一人暮らしさせるのは、さすがに気が咎める。今まで一人で暮らしてきたという彼女のこの家自体はその錬金道具とやらで魔物除けがなされているらしいが、だからと言って置いていくこともできやしない降谷としては、一階の床の片隅でも貸してもらえればそれでいいと主張したものの。そんなところでは疲れはとれないと正論を主張する彼女の提示した先は、まさかのひとつしかないベッドであった。

「十九歳ですよね? わかってるのか、男女で同じベッドで寝る危険性」
「えええ、でも、それしかなくて」
「だから床でいいと」
「良くないです! 冷えるし、それに私すばしっこさと道具には自信あるけど素材集めに行くなら降谷さんにも戦ってもらわないといけないし!」
「零」
「れ、れいさんにも」
「はぁ。で、腕力がないと言いながら男を同じベッドに誘うな」
「……しないですよね?」
「するしないじゃない」
「……いざとなればその、生きてるナワがあるので」
「は?」
「生きてるんです。私が困ったら勝手に飛びかかって縛ってくれますよ」

 なんだその常識外の縄は、と降谷が動かした視線の先で、任せろと言わんばかりにびちびち動く縄が見えて、降谷はそっと視線を外した。

「……わかりました。身を守る道具があるならそれは結構……ということにします、百歩譲って。それでも簡単に誘っていい場所じゃない。金輪際言わないように」
「ふふ、わかりました」
「……しばらく、迷惑をかける」

 疲れたように頭を抱える降谷の横でにこにこと縄を部屋に解き放つナマエは、さてと言わんばかりにベッドを叩く。そこ、解き放つんだな。

「れいさんは少し休んでください。あれだけ血を流したんです、起きているだけでもつらくないですか?」

 その問いに、降谷は無言で返した。確かに、まだ聞きたいことは山ほどあるというのに、あまり頭が回っていないとは思う。
 体も鉛のように重くなり始めている。それどころか熱い体は、恐らく発熱しているのではないかと思わせる程のだるさを纏わりつかせており、あの薬も傷は治しても万能ではないのだろうなと考えてしまえばむしろどこかほっとする気がした。

 しかし、自覚してしまえば人間の体というのは面白い程不調を主張するものだ。あったことにすら気づかなかった傷口が見た瞬間痛みだすかのように、どっと疲れた体がふらりとふらつき、降谷が頭を揺らしたところで、食事の準備はどうしようかと呟いていたナマエがぎょっとする。

「れいさん!?」
「……すみません。少しだけ、休ませてください」
「少しじゃないですよ、はやく!」

 慌てた様子で降谷をベッドに押し込んだナマエがばたばたと離れたかと思うと、その腕に水の張った盥を抱え戻ってくる。真っ白な布を浸して絞り、仰向けに体を横たえる降谷の額に慎重にそれを乗せ、またしても消えたかと思えばその足音を聞く降谷の元に駆け戻った少女の手には、細長い小瓶が握られていた。

「毒じゃありません、ほら。体力回復を促すお薬なんです」
 指先に垂らしたとろりとした琥珀色の液体を舐めとって見せたナマエが、降谷の口元にその小瓶の口を近づける。反射でぎゅっと口を引き結ぶ降谷に僅かに悲し気な顔を浮かべそれをすぐ消し去りながら、大丈夫ですから、と少女は再度口を開く。

「ただの体力回復薬です。甘い……甘すぎるかもしれませんけど、効果はあると思います。材料も薬草ばかりでおかしなものは入れていませんから」
「……悪い」

 なんとか口を開いた降谷に、慎重にその小瓶が傾けられる。しかしあまりにもとろみのあるそれはなかなか喉には流れていくことなく、しつこいほど甘い。喉に落ちる前にげほげほとむせた降谷を見て、飲みにくいですよね、と慌てた少女がまたしてもばたばたと階下に駆ける音がする。
 気合を振り絞って片腕を付きながらも体を起こした降谷が、もうどうにでもなれとその小瓶を再度傾けてみるも、やはり飲みにくい。最早毒と言われたほうが頷ける。なんだこのねばつく甘さはと必死に一口飲み下している間に慌てたように駆け戻ってきたナマエがこれで薄めてくださいと持ってきたのは、先ほど茶を淹れる為に用意していた薬缶と木製のカップだ。少し温くなっているがその白湯をありがたく受け取ってシロップを溶かした降谷は、なんとか飲み込めるレベルになったそれを必死に飲み干し、ぱたりと今度こそ遠慮なくベッドに頭を預ける。ふわり、とどこか花のような甘い香りがした気がしてそれから意識を無理やり逸らした降谷が息を吐くと、大丈夫ですか、どこか痛みますかと心配そうにナマエがその顔を覗き込んだ。

「大丈夫。ごめん、少し、休ませて」
「はい。下にいますから、時折様子を見に来ますけど何かあったら教えてください」

 もう一度絞りなおした冷たい布が額に乗せられる。しっとりとしたそれがとても気持ちがいい。
 ふ、と降谷が息を吐きだせば、気を使ったのかナマエは心配そうに、それでも背を向けて歩き出す。降谷の未だ抜けない警戒心から一人の方がいいと判断したのかもしれない。扉が閉じる音と同時に大きく息を吐いた降谷は、あのお人好しらしい少女になるべく負担をかけぬようにどう振舞うか、そんなことを考えながら、体が求めるままに目を閉じたのだった。



 目を覚ましたのは既に部屋が暗くなった頃だった。
 どういう原理なのか淡く光る謎の室内灯をぼんやりと眺めた降谷はそのすぐ後には体を起こし、そろりと音を立てぬようにベッドから抜け出して、まず体に異常がないか調べていた。

 熱は恐らく下がっている。体のだるさも嘘のようになくなり、やはり傷はどこにも残っていない体を見回して、錬金術とは恐ろしいな、と内心で呟きながらもそろりと窓に近寄った。覗く先、月は高い。深夜だろうかと思いながらも、その常識がこの世界で通用するのかと苦笑しながら、軽く室内を見て回る。さすがに良心が咎めるので、引き出しなどの調査はしない。というより、何もないからここに見知らぬ男を残したのだろう。今は生活様式の違いなどを調査できれば十分だ。

 周辺を調べた結果、電力という概念はなさそうだという結論をはじき出す。室内を照らす明かりは発光する不思議な石や原始的な炎を用いたランプで、電化製品やコンセントの類も見当たらない。魔法のようなものがあるのか、と考え出すときりがないのでその辺りは一旦置いておくとして、例の生きてるナワとやらは今は静かに床に転がっているので動き出す前に探索はやめておくことにする。

 ゆっくりと足音を立てぬよう部屋を抜け出す。階段を慎重に降りてみれば、煌々と照らす蛍光灯とはまた違うが、部屋の隅の机の周囲が明るく照らされていることに気づいて視線を向けた。
 そこでは、何冊もの本を積み上げ椅子に座る少女、ナマエが、一心不乱に本を読み進めていた。指で辿り、数十秒もしないうちに次のページへと進んで、またそれを繰り返し、時折ため息を吐いて首を振る。……もしかしなくとも、降谷が元の世界に戻る方法を調べているのかもしれない。

 見回してみれば、降谷がテーブルに向かい合って説明を受けた時よりも、部屋は少し散らかっているようだった。本棚から何冊も引き抜かれ、何かの基準で分けられて、テーブルどころか床に本のタワーが新たに積み上がっている。
 時折紙にメモを取っているのか羽ペンがゆらゆらと揺れ、とてつもない集中力で本を捲っているナマエの後ろで、降谷は小さく息を吐いた。そのまま数段階段を戻り、今度は意図的に音を立てて降りていく。

「ナマエさん」
「あ、れいさん! どうですか、どこか痛かったり、違和感があったりしませんか?」

 ぱっと顔を上げたナマエがまず降谷の体調を心配しながら椅子から立ち上がった瞬間僅かにふらついたのを見て慌てて駆け寄って支え、降谷は苦笑した。なんだか疑うだけ、自分が嫌になりそうだ。


「問題ないよ、ありがとう」
「よかった! あ、あの。あと半日くらい待ってもらえませんか、あと半分なのでそれくらいで……」
「は? ちょ、待って。もしかしてここにある本の、半分? 僕はどれくらい寝ていたんだ?」
「え、ええと、あ、八時間くらいかな……?」
「はち、いや。それで半分!? そんなに無理をしなくていい!」
「え、いや、もちろん普段読んでて内容を覚えているようなものや、明らかに違うのは外してますから! ざっと確認してるだけです!」
「それにしたって尋常じゃない量だろう!」

 改めて見回しても、この部屋の本の数はとんでもないのだ。百冊二百冊どころではない。ふと見れば見覚えのない文字に思わず眉を寄せてしまうが、図解されたそれが専門用語だらけの難しい学術書なのであろうことは降谷にも理解できる。錬金術とは、降谷が思っているより学問に近いのかもしれない。

 その時、ぐぅう、とどこか間の抜けた音が聞こえ、降谷の視線の下でみるみるうちに白い肌を赤く染めるナマエが見えて、ぱちりと瞬きした後降谷は思わずといた様子で苦笑した。

「お、おなかすきました……」
「そうみたいだ。僕がキッチンに入っても構わない?」
「え、えっと、具合は」
「もう大丈夫。問題ないよ。これでも料理は得意な方なんだ、任せて……といってもこの世界の調味料や調理器具はわからないから、少しだけ教えてもらえる?」

 はい、と笑みを見せるナマエに笑みを返し、降谷は本に埋もれたといってもいい少女を台所へと連れ出したのだった。

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