15

 朝目が覚めてその隣に熱を感じられないことに衝撃を受けるなんて、少し前の自分であれば考えられなかっただろうな、と降谷は頭を抱える。それ程他者と近しい生活など、久しくしていなかったのだから。

 降谷零の朝は早い。それは異世界でも変わらない。むしろ世界すら違うなんて到底信じられそうにもなかった現実と慣れぬ環境で自分より年下の女の子に衣食住全て世話になりっぱなしという状況に、いつも以上に気を使っていた……と思うのは、一週間程度だったかもしれない。
 人間は慣れる生き物で、降谷もそこそこ順応性があると自負しているしそうでなければ立場上難しい場面もあった筈だ。つまりこの世界に慣れることができたのは悪いことではない筈で、そうでなければ正気でいられなくなってもおかしくない状況であっただろう。結局なんとかこの状況を飲み込んだ降谷は、元の世界では決して触れることがなかったであろう魔法銃(作成者曰く魔法銃もどき)やら属性付与効果付きの刀を手に魔物などという少し前であれば信じもしなかったモンスターたちとの戦闘を繰り広げるようになってしまった。力がないよりは余程いいと割り切ることにしたといってもいい。
 何より一週間で張りつめた生活が落ち着きを見せ、安らぎすら覚えるようなことになたのは、降谷が世話になることになった家の雰囲気が、どこまでも優しくほのぼのとした雰囲気を持っていたということもあるだろう。
 朝は鳥の声を聞きながら目覚め、強すぎない日差しと森の緑という目に優しい窓の外を覗き、身支度を整えた後はゆったりと時間に余裕のある朝食の準備に取り掛かる。日持ちする作り置きのものも用意しているが、焼きたてのパンは絶品だ。米がないのが悔やまれる……どころの話ではなく恋しいが、降谷は基本的に毎朝パンをこねその鬱憤を晴らすことにしていた。
 湯煎する形でパン生地の発酵をしている間に家の裏手にある小さな畑からその日の実りを頂き、採れたて新鮮なそれをどう調理するか考える。パンの具合を見て焼く準備に取り掛かりつつ、少し慌てた様子で起きて来たナマエと会話を楽しんで、彼女が畑の調子を確認しに行くのを見送る。この家の畑は錬金道具で季節関係なく植えてほんの数日で実りを得ることができるが、その分土の状態など繊細な加減が必要なようで、ナマエでなければその確認はできないのだ。戻ってくるまでにある程度朝食の準備を進めておき、パンが焼き上がればその焼きたての香ばしく甘い香りに包まれながらの朝食。忙しいことには忙しいが、時間にしばられることのないその朝は降谷にとって非常に癒されるものであった。
 その後も研究や調合で忙しくする彼女に変わり家事を引き受けているのは降谷だが、それを情けなく思うことはあれど嫌だと感じたことはない。採取が必要であればナマエは降谷を頼り共に出かけてくれるし、釣りだなんだと身体を動かす機会にも恵まれている。余った時間をこの世界の文字や錬金術について調べることに使うことで、退屈に思うこともない。
 魔物や魔法のような力に錬金術と非日常が身近にあれど、ナマエという存在が丁寧に降谷の疑問を解消してくれ気を配ってくれたことで、降谷の負担が非常に軽く済んだのは間違いないことだった。

 ……この状況下で予想外にもそこにいる年下の女の子に情が湧きすぎてしまったことを切っ掛けに、今のところ降谷の頭脳をもってしてもすぐ解決しない、迷宮入りしてもおかしくないような大きな謎と問題が立ちはだかっているが。
 幸せを共に探すとはどうするということか。単純ではないこの問題は、いくつも解決できないような事情が複雑に絡み合っている。


 はぁ、と長く息を吐きだした降谷は、再度本来のこのベッドの持ち主で、普段であればその持ち主である彼女が眠っているだろう筈の場所に視線を送る。そこは端によって眠る降谷が乱すこともなく、ぺたんと使用されていないと言わんばかりに整えられた状態であった。……彼女が一度も眠りに来ていないことは明白で、そしてそれに気づかず朝日が上るまで眠ってしまったことに頭を抱えたくなる。

 昨夜の彼女はどこか戸惑った様子で、夜に始めた調合が今まだ手を放すことができない状況である、と伝えて来た。もちろん彼女との関係は恋仲でも家族でもなんでもなく、降谷からすれば脱却を宣言しているところであるが、今のところは庇護者と異世界からの迷い人である。彼女が何時に眠ろうが自由の筈で、そもそも彼女が寝る間も惜しんで資料を纏めたり調合したりと忙しそうにしているのは、全て降谷を元の世界に戻す為であった。
 そう、戻す為。彼女は一刻も早く降谷を元の世界に戻す為に努力し、冬の雪山へと単独魔物討伐に出かけるつもりでいたのだ。なんとか彼女の祖父が残した手記から降谷が今わかることを伝えて説得したつもりだが、それでも彼女は懐疑的な様子を見せたままであった。……その理由は、降谷にもわかるかもしれなかった。彼女がいう異世界渡りの道具を作るにあたっての最大の壁は、素材ではなく、技術力であるらしい。
 彼女自身が自分にその技術がなく向上させねばならないと自覚している為、『自分のせいでまだ帰れない』と思ってしまっているのかもしれない。
 そうではない。降谷がこの世界に来てしまったのはあくまで彼女のせいではないのだから。そもそも降谷は、その件について驚きや多少の苛立ちはあれど、明確な怒りや悲しみといった悲観する心はあまり持っていない。降谷があの時絶望を感じたのは確かで、『樹』は見ようによっては確かに救いでもあるのかもしれないのだ。突然異世界に放り出されたとはいえその後のケアが手厚すぎるこの状況はむしろありがたく、時間指定で戻れるだろうことが確信になりつつある今はむしろ、新たな環境と出会いを楽しむ心の余裕すらある。
 しかし言ってしまえば彼女は突然見知らぬ男の世話をさせられ、その男の為に努力させられているようなものなのだ。降谷の安心感のほぼ全てが、この世界で孤独に生きて来た少女の心配りによるものなのだから。

 降谷はこの状況では彼女に負担がかかり過ぎると気づいていた。だからこそ自分にその資格がないとわかっていながらなんとか少しでも少女の焦りを取り除こうと奮闘しており、昨日も必ずきりがいいところで休むように言い聞かせた筈なのである。
 こうなった原因はなんだ、という苛立ちが自身を支配する。間違いなく、自分のせいなのだ。彼女はもともと研究に没頭し時間を忘れることはあったが、降谷が気を使って寝ないのではということを危惧したのか、徹夜するような無茶は避けているように見えたのだ。しかし二人で話し合ってから二日、彼女はどうにも降谷を避けている。……ベッドにいないのは、きっとそういうことなのだ。初日からベッドを共にすることにまったく気にした素振りを見せなかった彼女が今更降谷を避ける理由がわからず、降谷は深い困惑をため息にしてなんとか吐き出そうとする。

 まずは、様子を見に行かなければ。
 すぐに音をなるべく立てぬよう身支度を整え、階下に顔を出す。降谷が起きていたことには気づいていたのか、釜を混ぜながらちらりと確認するその表情は気まずげだ。

「おはよう、ナマエ」
「お、はようございます、零さん。いや、その。ちょっと新しいレシピが思いついちゃって、試さないといけない気がしまして、ね?」
 すぐさま言い訳を始めた少女のひきつった笑顔に、今日の予定を思い出した降谷はひくりと頬をひきつらせた。
「昨日もほとんど寝てないのに、ね、じゃない! もう朝だぞ、今日の午前中は冬支度で採取に出ると言ってただろう。今、すぐ、寝るんだ!」

 つい、降谷零として感情を露わにしてしまったことに内心降谷自身が驚いたが、もうちょっとだけ、と慌てて釜を混ぜるナマエを見てすぐ脱力した。

 何をしているんだ、自分は。

 心配だったからといって、自分の為に頑張る年下の女の子に怒鳴るなんて、『安室透』であればありえない。『バーボン』のキャラでもない。
 この世界であれば自分でいていいのだと早々にその二人を切り離し『零』という名に拘ったのは降谷自身であるが、ここまで偽りなく自分でいられたのはいつぶりだっただろうか。
 そう思うと同時に、だからこそ、気づく。自分は今、ナマエに嘘をつかせているのではないか、と。

「……零さん?」

 降谷の様子がおかしいことに気づいたのだろう、少女が釜をかき回す手を止めこちらを見ていることに気づき、いや、と降谷は苦笑する。

「手、止めていいのか?」
「あ、だめですね! ええっと、あの、すみません。きちんと寝るので」
「そうしてくれ。いや、それもそうだけどそうじゃなくて。……少し驚いただけなんだ」
「何に、ですか?」
「……嘘を、つくことに慣れ過ぎて。嘘をつかずにいられることに驚いた、かな」

 戸惑うような声になってしまったが、それは今の降谷の本心だった筈だ。しかしそれを口にした理由は、彼女の嘘を知りたいからという若干打算的なもの。しかし降谷の予想に反して、ナマエは僅かに驚いたあとどこか訝し気な表情を見せる。

「ナマエさん?」
「嘘、です。……零さん、昨日一昨日と畑に行くって言いながらちょっと離れて魔物と戦ってましたよね? 勝手に出ない約束なのに」

 その言葉に、ぎょっとする。
 確かに降谷は昨日、一昨日と、一人ほんの少し家から離れて魔物の討伐に出ていた。その理由は、彼女について気になることがあり、確かめるついでに腕試し、といった理由であったが……調合中のナマエが気づかないと思っていたのは、自分だけであったらしい。
 確かに嘘である。帰ってきた降谷を見て、畑に行っていたんですか、と何気ない様子で問う彼女に確かに「そうだ」と答えていたのだから。
 驚いたが、降谷は確信する。意図せぬ方向であるが、彼女が自分を避ける理由の一端を見つけることはできたのではないだろうか。こうでもしなければ恐らく彼女は隠し通しただろう。

「……気づいてたのか」
「他にも。零さん、おじい様の手記についてまだ解読が終わっていないような言い方をしてましたけど、終わってますよね? さすがに普段見ていれば零さんがそういった問題にものすごく強いのはわかります。その理由は、日常が多いと言っていた手記に何か大事なことが書かれている、とかですか?」
「……困ったな。確証を得られるまではと思ったんだけど。はは、確かに、『安室透』という嘘が抜けても僕は嘘をつくことに慣れ過ぎてたようだ」
「……それなら、ありきたりかもしれないですけど、嘘はなし、とか約束してみます?」
「へぇ、それは、君も?」

 やはり意図した方向ではないが、降谷にとって悪くない展開だ。……そう一瞬で判断したことに、降谷は内心戸惑った。嘘をつかない、など、恐らく不利でしかない筈だ。……いや、嘘にならない方法をとることも不得手ではないが、なんとなく降谷はこの取引を歓迎したのだ。なんとなくで判断したことに笑いがこみ上げる。

「それは、もちろん。お互いなしで……零さん?」
「いや、……ハハっ! そういうのもいいな、と思って。ところで、調合終わった?」
「あ、はい。ん、成功してよかった。零さんこれ、指輪型弾薬補充装置です。試作品なんですけど、これを嵌めている間空気中の魔力から銃弾を自動生成して補充することができるようになります。通常弾しかできないんですけど、再装填の必要がないので特殊弾を使わないときは装填無しでそのまま使ってください」
「いよいよ魔法銃じみてきたな」
「まぁ打ち出すのが金属じゃなくて魔力砲みたいなものですからね。威力は変わらないと思いますよ、ただ銃に取り付けようと思ったのに分離型しか作れなかったので、この辺りは要研究というか……あっ、これで新しい技術も見についたので、異世界転移の寄り道にはなってないかと……!」
「大丈夫だよ、君は思うままに作ればいい。楽しそうにしていてくれるほうが嬉しいから」
「そ、っ、そう、ですか」

 どこか照れたように笑うナマエを見て、じわりと心がほぐれていくような感覚を味わう。どうして避けているのかはこれから探るにしても、率直に聞くのも面白くない。どう攻めようかな、なんて考えつつも、彼女が寝ずに作ったのは『通常弾がもう少し欲しい』と零した降谷の願いに百二十パーセント以上の力で返してくれる彼女の想いの形だ。
 攻める前だがこれは降参だな、と特に勝負した覚えもないことに両手を上げて降伏しながら、降谷は笑う。

「さ、採取は予定を詰めれば一時間遅れでも問題ないだろうし、それまで寝てくれ。ちゃんと起こしに行くから」
「えっ、いや、大丈夫です! 起きますから!」
「……そう?」
「大丈夫、大丈夫です! ではその、おやすみなさい!」

 さっと釜の周辺を片付けていたナマエが終わるなり脱兎の勢いで階段を上っていくのを見送って、降谷は僅かに口角を上げる。これは、寝起きを狙うしかないな、と楽しげに呟きながら。
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