13


「さすがに、流通させたら私の命な狙われそうなものは存在を仄めかしたりもしていないので」

 その言葉に即座に「その方針でいい」と返せた後に、ほっとした。彼女は随分と、あの天秤を使うことを憂いていたようだから。


 この世界に来て、十日程。いろいろ受け入れがたいことは多かったが、この期間で自分がなんとか落ち着いて状況を把握できたのはナマエのおかげであると降谷は考えていた。言葉通り命の恩人なのだ。

 突然の転移。見覚えのない植物や鉱物といったものばかりの森の中で、大きな狼……ウォルフと呼ばれる『魔物』に遭遇し、続けざまにぷにと呼ばれるスライム状の『魔物』が現れた時は、死を覚悟したのだ。組織の任務で既に負傷していた状況でウォルフに利き腕の肉を持っていかれ、銃すら握ることができず、まるでゲームか何かのようなモンスターに襲われたあの状況では、仕方なかった……という主張をするつもりは、ない。ただ、あの一瞬ぶれてしまったのだろう。あれ程この命を懸けて守らなければならないものの為に邁進していた日々の中、最高の友人たちがすべてこの手から零れ落ちたと知って、あの時ばかりはまるで足元のすべてがなくなったかのような感覚だったのだ、と降谷はそっと視線を伏せる。

 降谷がこの世界で初めて出会ったのはまだ未成年……いや、元いた世界から考えれば未成年の、少女だった。
 この世界では十九歳は成人しているのだという少女、ナマエは、とにかく不思議な少女だった。錬金術士だというそのナマエの、素材からまったく別なものを生み出す技術そのものもそうだが、一番不思議なのはその知識の偏りである。
 もともと生まれた世界に違和感を持っていたというナマエの知識は、降谷の知るものと随分近いものであった。漢字やひらがなを読めるだけではなく、その意味も日本語として理解している。村に行ってそれは確信となった。彼女は、彼女本人すら知らぬところで日本を知っているのだ、と。
 確かに不思議なことにこの世界の人々と日本語で会話は通じた。が、彼女の話では『警察』という言葉はなく『守り手』がそれに近い存在であると言うし、降谷が『八百屋』と言って彼女には通じたというのに、そこの店主は『野菜屋』だよとそれを笑って訂正する。八百屋、という言葉を知らないのだと判断して適当に店先を覗き、セロリがあった為その名を口にすれば、彼女はすぐにそちらに視線を向けて『あれはシロキっていうお野菜ですよ』と降谷に伝えたことからも、彼女の脳内ではこの世界の名と日本での名がイコールで結ばれているのだとわかる。
 本人が自覚しているかどうかはわからないが、何気ない行動や言動の一つ一つが日本で生活したことがあると言わんばかりであり、異世界転移だなんてことを実際経験した降谷が早々に弾きだした答えは異世界転生という可能性である。祖母が祖父の為に錬金術で作り出したという味噌を見て「小さい頃からなんだか懐かしい感じがして好きなんです」なんて言う彼女に味噌汁を出した時にはひどく喜ばれたし、まず先にお味噌汁を飲む彼女の箸使いは見事なもの。聞けば使い方は初めから知っていて祖父に驚かれたというのだから、転生ではなんて安直な考えに結びついても仕方ないことだろう。
 彼女自身が『前世は日本にいた』という知識がないことからそれは推論でしかなく、しかし真実に近いものであると降谷は考えた。それは魔法や錬金術と言った降谷の目から見ても非現実的なものより、きっともっと根底から人間が触れてはいけないような理由があるような気がして、降谷はそこで深く掘り下げることを止めている。彼女自身降谷と話したことで記憶の違和感を今は落ち着けたようだし、ただでさえ、たった一人でこの世界で生きている彼女を、不安にさせる必要はないのだ。

 たった一人の、孤独な少女。
 祖母も三年ほど前までは共に暮らしていたというし、彼女が祖母を尊敬していることはこれまでの言葉からもわかっているが、彼女はきっと、生まれた時から感じる『世界が違う気がするという違和感』にずっと悩まされてきたのだろう。祖父譲りだろう黒髪は既に年老いた祖父が白髪だったことから唯一のものとなり、悪魔と呼ばれ故郷どころか世界を、そして祖母以外の肉親を奪われたという彼女は、祖母以外に心を許すことができず生きて来たのだと思われた。村では比較的仲の良さそうなレジナという仕立て屋に対しても、その視線は怯え、身体が強張り、声は硬くと、かなり心の距離があったように見えたのだ。降谷との距離の取り方が近すぎそして油断しすぎているというのも、これまでの環境が作り上げた反動だろう。

 たった、一人の、錬金術士。
 その力は降谷の世界であれば表の世界から裏の世界まで数多の人間が求めるような、奇跡を生み出すものだ。
 そしてそれは恐らく、降谷のいた世界より奇跡の力が身近なこの世界においても同じ。彼女が錬金術自体を恨まなかったのは、同じ錬金術士としての祖母が余程信頼できる、彼女にとって憧れであり強い希望であったおかげなのではないだろうか。それはきっと恐らく、あれ程警戒心の高い彼女が、初めて会ったばかりの降谷に比較的気を許している理由でもあるだろう。『祖母にとっての祖父』と同じ状況であり、『日本から来た異世界転移者』であり、『降谷の最初にとった行動』の結果がそこに繋がっている。

 その彼女の祖母は彼女を守る為、あらゆる仕掛けをこの森の中の小さな小屋に残していた。

 家には魔物除けがされている、自分が呼ばなければ人は辿り着けないのだと彼女は口にしていたが、それは恐らく彼女の祖母が村の入り口に施したものとは別の、『魔物も人間も寄せ付けない』類の道具をわざわざ用意し、彼女が極力人と関わらずに生きていけるようにしたということに他ならない。祖母自身が、この世界に居を構えながらこの世界の人間を信用していなかったのだと伺える。彼女の祖母は、他者を信用できない彼女をわざとそのままにし、その上で自分が祖父の存在に救われたことを伝え、異世界から来た客を助けよと残したのだ。
 数多く残された貴重だろう本も、本来であれば破棄してもおかしくないだろう危険と称して倉庫に残したアイテムも、この家も、そして錬金術の技術と、彼女に残された言葉も。その全てが彼女の為であり、恐らく祖母の精一杯の愛情で、そして一人残すことへの罪悪感が感じられる。

 彼女の祖母は魔女と呼ばれたことがあるらしい。彼女はそれを、あまり良く思っていないようだった。
 魔女と呼ばれながらもわざわざ一人森にに拠点を構え、異世界から現れたという男を助け伴侶とした彼女の祖母は、かなりの腕前の錬金術士であったのだろう。途中他世界に移動してはいるものの、最終的に孫娘を助ける為にこの地に戻り、彼女に技術と『樹』に纏わる話を残して亡くなったという祖母は、もしかしたら自分と同じように、あの『樹』から現れる『異世界人』が彼女の味方になることを望んだのかもしれない。降谷がその可能性に思い至ったのは、一冊の本……いや、手記に残されたとある言葉だった。筆跡はそのままに、流れるようなくずし字で、祖父が残しただろうその手記には、我が妻の言葉をここに記す、から始まっていた。

『この手記を手にした『日本』からいらしたお客様へ。主人と同じく絶望を知ってしまった優しい貴方へ。どうか私の孫娘を、よろしくお願い致します』

 孫娘、と断定しているが、書いてあるのは祖父なのだろう。彼女の祖父はこの世界に戻る前に亡くなっているらしい。ということは、彼女たちがこちらの世界に戻る前の、錬金術が発展しすぎて壊れかけた世界にいるうちに書いたものだということがわかるそれを何度も読みこんで、降谷はこの数日なんとか状況把握に努めていた。
 彼女の祖母は、先見の水晶という道具を使って己が亡くなった後、『日本』から一人の男が転移してくることを把握しているようだった。それを見た降谷はひやりと背筋を伝う冷や汗に歯噛みすることとなったが、間違いなくそれは『降谷零』のことだったのだとわかる。どこまで見たのかはわからないが、文章の様子からは人となりまでは把握していないようにも見える。その言葉が綴っているのだ。
 ――もし、孫娘の幸せをも共に探してくださるのであれば、自分たち夫婦の知る『情報』が役立つことがあるでしょう。ご興味を抱いていただけましたら、御覧ください。

 降谷はその手記を見つけた次の日にはその言葉を見ていたが、躊躇った。
 何せ、降谷は来たその日の内に元の世界に帰ることを決め、錬金術士であるナマエに協力を依頼した状況だったのだ。彼女が孤独であることには気づいていながら、帰る選択をした自分が、『幸せを共に探す』ことはできないのではないか、と。まだ出会って数日ということもあるし、恩人であることはかわりなく出来る限り協力したいことには変わりなかったが、無責任にも幸せを共に探すと言える立場でないことは明白だった。何せ、帰るということはまた彼女を一人残すということなのだから。
 降谷の世界は、決して彼女には優しくない。そして降谷の側もまた、安全ではない。恐らくこの世界にいるより、錬金術士としての彼女は苦しい思いをする環境だ。

 そうして数日悩んでいた降谷だが、街に行った翌日彼女と話した上で、降谷は覚悟を決めた。
 目の前でにこにこと降谷の淹れたお茶を飲む少女についても、十日程共に暮らした中で悪い人間ではないと理解している。何より彼女は……初日の行動からして、ひどく危なっかしかったのだと、共に森を抜けた今ならわかるのだ。

「そういえば、ナマエさん。昨日一緒に森を歩いて気づいたんだが」
「はい、なんですか?」
「初日、僕が庇わなくとも怪我なんてしなかったんじゃないか?」
「……えっ、あ、青ぷにの、ことですか?」
「はい」
 にこり、と降谷が笑みを浮かべれば、それが安室透仕様だと気づいたのか、ひくりと彼女の表情がひきつる。どうやら安室透はあまりお気に召さらないらしいと思わず素で笑うと、ほっとしたように力を抜いた彼女はどこか戸惑ったように首を傾げつつも、曖昧に頷いた。

「ぷにに体当たりされても、そこまで大怪我にはならないかもです。ウォルフはまずいですけど」
「僕も最初は魔物の知識もなく足を止めてしまったが、まぁぷにならそうかもな。力は強いが数発当てられるくらいなら生身でも耐えれるか。……つまりあの時君は、青ぷにから僕を庇う位置にわざと立って、突撃されるくらいなら構わないと背を向けていたわけだ」
「……え?」
「おかしいと思ってたんだ。森を移動したときの様子からして、君はかなり強い。腕力はなくとも身のこなしは軽く、多少の距離であれば木々を蹴っての空中移動だなんて曲芸とも言えるレベルの身体能力の高さがある。これは魔物が蔓延る森で採取していて身についたものだろうけど、決してぷにに苦戦することなんてない筈だ。それなのにあの時あんな手段をとったのは、なぜだ?」

 じっと降谷が見つめて問えば、驚いたように目を瞬いたナマエは、じわりとその白い頬を染める。その反応が予想外で降谷が眉を寄せると、ひどく言いづらいことを告白するかのようにナマエは声を震わせた。

「あの時実は、とても焦ってて。言い伝え通り転移者が来たということにも驚いたし、何よりその、人とうまく話せるかなとか助けになれるかなとかいろいろ考えてたら緊張しちゃって、いきなりコアクリスタルに登録しているような強い技を使ったら驚かせるかもしれないとかパニックで手持ちの弱いフラム……爆弾を探してて」
「え?」
「だからその、無様な戦い方を見せたと言うか……」
 なるほど、と降谷は頭を抱えた。始めから膝枕など降谷との距離感がおかしいとは思っていたが、一応緊張はしていたようだ。……まぁそれはともかくとして。

「例えぷにだろうが体当たりされて痛いことには変わりないだろう! 自分の体で僕を守ろうとするんじゃない……っ」
「え、えええっ、だって零さんあの時傷だらけで!」
「それでもだ! ……僕は、君に守られるだけの存在ではいたくない」
「ま、守ってもらったのは私だったような?」
「結果迷惑をかけただけだ。ぶっ倒れて膝枕で目が覚めるなんてそれ以外のなにものでもないだろう」
「ひざま、くら」

 う、と段々声が小さくなったナマエの目が泳ぐ。一応、あれが普通中々に恥ずかしい行動であったことは理解しているらしい、と降谷は再び頭を抱える。

「確かに僕はここでは頼りない存在でしかないけれど、そうならないように努力はする。だから」

 もう少し、『庇護者』だという認識を変えてもらわなければならない。彼女にとって降谷零はただの守るべき者という位置づけでは『幸せを共に探す』ことなどできやしない。ナマエ本人の意見もあるだろうから将来的にどうするかは今後様子を見ながら考えるとしても、せめてこの恩を返せるようにならないといけないのだ。

「というか、零さんだって零さんの体で私を守ろうとしたじゃないですか……」
「ああ……ナマエさん、僕の元の世界での職業、なんだと思う?」
「え? うーん……危ないお仕事?」
「いやそうだけどな……警察官なんだ。守ろうとしたのは職業病のようなものだよ」
「警察……」

 ぽかん、と降谷を見る少女が、少ししてなるほど、と頷いた。危険な仕事をどう解釈したのかはわからないが、少なくともあの魔物にやられたものとは違う傷について折り合いをつけたのだろう。

「僕はできれば、君と肩を並べられる存在になりたい。生活の面倒から何から見てもらって、武器も貰ったんだ。仕立て屋で聞いていたものを手に入れる為に旅をするんだろう? 旅をするまでに使い物になるようにするから、身体を張って守るという意識はとりあえず捨ててくれないか?」
「生活の面倒を見てもらっているのは私な気がしますけど、……わかりました」

 ふにゃ、とまるで力が抜けたように微笑んだナマエは、どこか嬉しそうに頷くと、少し照れたように視線を泳がせる。

「零さんは、十分すごいですよ。ええと、なんて言えばいいのか……なんだか警察官さんって聞いて、納得しちゃいました」
「……そうか」

 その言葉に胸の奥から歓喜が沸き上がり、そして同時に苦味が広がるようだった。警察官であることは間違いないが、きっと自分がしていることを知ったら……とそこまで考えて、降谷は振り切るように首を振って話題を変える。

「ナマエさんはこれ、読んだ?」
「おじい様の手記ですか。いえ、おばあ様が、日記みたいなものよなんて笑ってたので、家族の日記を読むのはなんだかなって……それにその字、ええと、昔の文字って言えばいいんでしょうか。他のおじい様が書いた文字は読めるように書いてくれてるのに、それだけ読めないんですよね、同じ言葉だと思ったんですけど」
「ああ、そうだね。日本語ではあるけど、確かにパソコンを知る世代から見れば一昔前に感じるかもしれない」

 つまりこれは、『異世界から来る者』に意図的に残されたものなのだ。
 彼女の知らない何かがある。迷いはもうない、と降谷はそこに綴られた言葉に向き合う為、そっと文字を指先で辿った。


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